最終話 伝説のチャンピオン(後編)
帰宅した後、気分が落ち着かなかった奏鳥は、久々に古びたアコースティックギターを引っ張り出して、お気に入りの場所へと
沢根は今頃何をしているのだろうか。詩貴はどうしているのだろうか。不安に考えても仕方はないとわかっていても、もやつく思考は晴れそうになかった。
今の自分には、彼らを信じて待つことしかできない。けれど待つにしたって、何もせずにただ待ってはいられない。そんな思いを込めて、小さなハンディライトの灯りを頼りに、奏鳥は筆を走らせた。
「『頑張れ』……って、ありきたりだよな。『大丈夫』……って言うにはあんまり
ぶつくさと独り言を
詩貴へと向けて、せめて応援歌でも作ろうと考えたはずなのだが。今の彼の状況を、真剣に思えば思うほど、かけてやる歌詞が浮かんでこないのだ。
なんとかして詩貴を
苦しんでいる人物に向けて、『頑張れ』と歌うのは流石に
そして辺りがすっかり暗くなっていることに、ようやく気がついた。
“神様、誰か、誰か僕に愛する人を探してくれないか”──
「ずいぶん遅い時間に歌うんだね」
「えっ!?」
後ろの方から声が聞こえ、反射的に振り向いた。いつの間にか背後に詩貴が立っていたのだ。気配に気づかないほど自分が
どこかであったような状況だ、という事実はさておき。奏鳥は詩貴の
「詩貴、なんで……」
困惑する奏鳥とは打って変わって、詩貴は少しだけ気まずそうに微笑んだ。
「携帯に連絡したのに返事が来ないから、奏鳥のお母さんに電話したんだ。こんな時間になっても帰ってこないから、おばさんも心配してたよ」
詩貴の言葉に、とっさに
夢中になると他のことに手がつかなくなるのは自分の悪い癖だ。苦笑いする奏鳥の横に、詩貴は歩み寄ってきた。
「奏鳥……隣にいてもいい?」
「もちろん」
詩貴の笑みは未だぎこちなさそうだったが、その表情から先日まで背負っていた暗さは消え失せていた。奏鳥も笑って応えると、詩貴は彼の横へと並んで座った。
「“愛せる誰か”……いい曲だよね。やっぱり僕、奏鳥の歌が好きだよ」
「えへへ……」
突然
詩貴の方は何かあったのだろうか。やけに調子の良さそうな彼に
「本当に……僕は奏鳥の歌声が好きなんだ。隣に立って演奏ができたら、きっとすごく幸せだと思う」
しばらくしてから、詩貴は重々しそうに口を開いた。泳いでいる彼の視線は、今はどんな世界を見ているのだろうか。
詩貴は空想を眺めている瞳を閉じて、深呼吸をした。
「奏鳥。こんなに弱い僕だけど……一緒に、舞台に立てるかな」
奏鳥は、思わず自分も大きく息を吸った。返す言葉を考えるよりも先に、身体が勝手に動いていた。
「わっ!」
急に抱きしめられて、詩貴は驚きの声を上げる。奏鳥の腕にぎゅっと力が込められたのが、そのまま彼の答えになっていた。
詩貴は張り詰めていた気持ちが
「あはは、苦しいよ奏鳥。本当にフォルテみたい」
「あっ、ごめん!」
犬に似ていると言われ、奏鳥は顔を赤らめた。
照れ臭そうに眉を下げながら、おずおずと離れる奏鳥の姿を見ながら、詩貴は納得したように
「奏鳥。今まで僕は……何かが目の前でダメになったら、それが僕の限界で、天井なんだって、思いこんでいた」
伏せていた
「けれど、奏鳥とだったら、それも越えられそうな気がするんだ。その前に……何度か失敗もしちゃうかもしれないけど……」
「そんなの当たり前だよ。失敗なんか何回したって、俺達は平気だぜ」
すると奏鳥は、
大げさなんてものじゃない。堂々と
「詩貴。俺たちが目指すのは、もっと上だ。天井じゃなくて、その向こう──天の上だ。邪魔する壁なんか、無理やりぶち破ってやろうぜ」
奏鳥は歯を見せて、不敵に笑ってみせた。むしろ格好悪いと思えるほど格好つけてみせる彼は、やはり
---
「凄かったね、飯野さんの演技。まるでプロの役者だよ」
「本当に別人になっちまったのかと思ったぜ。……やっぱ委員長って、怒らせたら怖そうだよな」
「なんか言った?」
背後から突然委員長本人に話しかけられ、奏鳥は飛び上がって驚いた。
あれから一ヶ月後。共高の文化祭は
コスプレ
外部からの
県内有数の進学校と名高い共高だが、文化祭は特に盛り上がる行事らしく、地元でも評判なのだそうだ。
そしてその中でも、体育館での舞台はメインイベントと噂されるほど評価が高い。吹奏楽部の
共高の舞台の一番の魅力は、何より多様性に
一方で、委員長の属する演劇部は一風変わった現代アート風の演技を
本番前の委員長は流石に緊張している様子を見せていたが、舞台に上がった後はやはり別の人間になってしまったかのようだった。
そんな委員長がにっこりと笑みを浮かべてにじり寄ってきたので、奏鳥は
「ほら、そろそろ成谷くん達の番だよ。準備しないと」
「あ、ああ! うん、そうだな!」
奏鳥が慌てて立ち上がるのを見て、詩貴はふうとため息をついた。
もうすぐ本番だ。そう実感した
「詩貴!」
顔色を青白くさせていた詩貴の背を、奏鳥の手が叩く。
奏鳥も
「リハは上手くいってただろ? そのままやれば大丈夫だって!」
「……うん」
詩貴は弱々しく笑って頷いた。本番前のリハーサルでは、二人とも全くミスをすることなく演奏を終えられていた。
しかし──舞台裏から観客席を覗いて、詩貴はもう一度ため息をついた。思っていたよりも、ずっと観客の数が多い。あの数の視線を浴びたまま、果たして無事に演奏を終えられるだろうか。
何より自分は、今まで練習で出来たことを二度も本番で失敗してきたのだ。ピアノの発表会に、先月の体育祭。過去の記憶が、詩貴の頭の中で嫌な想像を引きずり出そうとする。
詩貴は首を振って、自らの頬を叩いた。
『失敗なんか何回したって、俺達は平気だ』──奏鳥の言葉を思い出す。繰り返し、呪文のように頭の中で
こうすると、詩貴の心は不思議と落ち着きを取り戻せるのだ。振り向くと、彼の気持ちを察したように奏鳥が頷いた。
「詩貴」
不意に手を握られ、詩貴ははっとした。奏鳥の手も震えている。あんなに堂々と振る舞える彼でさえ、やはり緊張しているのだ。
それでも奏鳥は、詩貴の手を
もう一度脳裏にあの呪文を思い浮かべる。息を吸い込んで、詩貴は歩みを進めた。
ワンダーウォーブルの名前が呼び出される。同時に二人は壇上へと駆け上がった。舞台照明がやけに真っ白く、
---
それは栄光に満ちたように
奏鳥はエレキギターを、詩貴はショルダーキーボードを握りしめ、舞台の前方へと歩みを進める。歓声は彼らの姿にますます湧き上がった。さあ、歌おう。俺たちの伝説がついに始まるのだ。
奏鳥が息を大きく吸い込んだ瞬間、舞台上に詩貴の打ち込んだ電子音が鳴り響いた。エレクトロニック・ミュージックのイントロが、観客達を近未来の世界へと引き込んでいく。
リハーサル通り、奏鳥は曲名を高らかに叫んだ。
「“ファイアワークス”!」
奏鳥と詩貴、二人がかりで作った
バックミュージックに合わせて、二人は
考えている余裕なんかない。ただ燃えるように手を動かすだけだ。
そこへ詩貴のキーボードの奏でるストリングスサウンドが、厚みのある和音でハーモニーを
二人の対照的とも言える演奏は、その名の通り“
そのうち
その瞬間をまるで
“止まって動けないのは誰のせい? 抱え込んできたフラストレーション
爆ぜそうな心に蓋をした まるで意味なんかないイマジネーション”
あの日、詩貴のために応援歌を作ろうとして、結局形にはならなかった言葉の
はじめは詩貴に向けた応援歌のつもりだったその言葉は、気づけば彼らの両方が、自分自身を
“燻ってた 自分にさぁ 今こそ歌ってみせてやろう 本番はこれからさ!”
奏鳥は手を振り上げる。その後ろで詩貴は精一杯ステップを踏み、彼の
二人の気持ちは一つだった。自分の気持ちを歌で表現すること──そして、自分達のように迷える思春期の同志を、楽曲という形で
奏鳥は叫んだ。
「打ち上げろ!」
詩貴の
“弾けて飛んで いつか消える火だって良いさ 焦げついた跡こそが勲章
焼け跡と心傷 痛みが消えなくても良いさ 刻まれた記憶が道標──”
奏鳥の力強く、それでいて美しいファルセットが、持ち前の
間奏のギターソロはやはり少し
舞台はまるで、花火を間近で受けたように熱く燃え上がっている。奏鳥も詩貴も、顔色を赤くしながら間奏を弾き鳴らした。
ダンッ──打ち込み音声のドラムが、激しく打ち鳴らしながら
キーボードの音源を切り替える。電子ピアノの美しいアルペジオが、観客の視線を詩貴の方へと集めていく。詩貴はひっそりと息をのみながらも、ひたすらに指先を動かした。
舞台のスポットライトも詩貴を中心に照らし、まるで詩貴は世界中から目を向けられているかのような気持ちになった。心臓がぎゅっと
冷や汗が流れる。手が震えるのを無理やり堪える。しかし、指先に集中していたはずの意識が、ふっと途切れてしまった──
「あ……」
軽いミスタッチだった。しかし詩貴は、自分のミスに背筋が凍るほどの衝撃を受けてしまった。
詩貴の脳裏を埋め尽くすように、六年前のあの舞台の記憶が
手が、止まってしまった。
「……詩貴?」
隣の奏鳥が心配そうに尋ねる。しかし彼のそんな声すら、詩貴の不安を余計にかきたててしまった。
詩貴はキーボードを握りしめたまま、ついに硬直してしまう。事態の異変に気づいた裏方の実行委員が、流れ続ける電子音源の再生を止めた。
奏鳥は詩貴になんと声をかけて良いかわからず、彼もまた
どのくらい時間が経ったのかわからない。まだ一瞬かもしれないし、もはや永遠のようにも感じられた。どうにかしなければ──そんな思いだけが詩貴の頭の中を
しかし。
観客席の視線は、一斉に詩貴の方へと向いていた。ある者は不安げに、ある者は不満そうな目で彼のことを見ている。そのざわめきの中で時折、「何があったんだろう」とか、「どうしちまったんだ」など、ぶつくさと
詩貴の頭の中を、恐怖の感情が支配し始める。
どうにかしなければ──けれどどうすれば? ──もうどうしようもない、おしまいだ──まただ、また自分は失敗したのだ。
詩貴の気が遠くなっていく。
けれどどうしたらいい? 今、何をしたらいい? 観客の冷えてしまった視線が、まるで『お前は何をしても駄目だ』と責め立ててくるようにさえ感じる。
ああ、もうだめだ──顔を下げようとした時だった。
「ヒュウウウーーッ‼︎」
耳
ヒュウ、ヒュウ、と口笛は観客席の方から何度も鳴り響く。生徒達は
沢根英里は、額に
突然の部外者の騒ぎに、会場のざわめきはますます大きくなる。しかし、詩貴は彼の顔を見て思い出した。
『どんな形になろうが、お前と成谷なら何をやったって絶対良いもんになる』──心底自分のことを嫌っていたはずの沢根が、あんなに冷ややかな視線を集めてまで、こちらに意志を送っている。
ここまでされて、何もしないわけにいかないだろう。詩貴の指先は、衝動的にメロディを奏で始めた。
「おい、すげえぞ。これ演出なのか?」
観客のうち何人かが、好奇の視線で詩貴を見た。詩貴は一心不乱にキーボードをかき鳴らす。
その姿は、かつて奏鳥があの春の夕方に見た、
詩貴の奏でるメロディは、隣の奏鳥すら聴いたことのない
『どんな形になろうが』──その想いだけで、詩貴は
詩貴はショルダーキーボードを、ギターを弾き鳴らすように振り上げる。身体ごと勢いよく降下させ、やがて彼の即興演奏は幕を閉じた。
真っ白な熱の
パチパチと、すぐ隣から手の鳴る音が聞こえた。奏鳥だ。静かな会場の中で、奏鳥は周りの目なんかちっとも気にせず、
すると彼の拍手につられるように、観客席からも次々と歓声が湧き上がる。こんなに多くの賞賛を浴びるのは、生まれて初めてのことだった。詩貴は瞳を震わせながら、ショルダーキーボードの
次第に、観客席は熱を取り戻し始める。
「アンコール! アンコール!」
二人がずっと憧れていた、再演を求める声だ。アンコールの掛け声は、次第に
奏鳥と詩貴は、ふと隣を振り返った。同時に目が合って、彼らは思わず笑みをこぼした。二人の想いは、やはり一つだった。
奏鳥は手を振り上げる。リハーサルの通り、もう一つの楽曲を高らかに表明した。
「聴いてくださって、ありがとうございます。かつて俺たちを
二人はもう一度目を合わせて、頷いた。振り返って、裏方の実行委員へと合図を送る。
曲目はもちろん、あの英雄の名曲だ。
「「QUEENの、伝説のチャンピオン!」」
---
「良かったね、英くん」
「んだよハジキ。てめえも来てたのか」
舞台が終わった後。聞き馴染みのある声に名を呼ばれ、沢根は
周囲の観客が退席していき、実行委員達が客席のパイプ
「……まあ、悪くはなかったな。にしたって、てめえはわざわざ熱海から、ご苦労なこった」
あえて徳野からは顔を
恐らく彼は、奏鳥と詩貴の舞台のためだけに、わざわざ本業のスケジュールを空けたのだろう。普段は忙しい忙しいと言い訳をして、祖父から
徳野はそんな沢根の様子を意に
「あの子達の晴れ舞台だからねえ。いい思い出が沢山
「てめえ! 俺の写真は勝手に撮んなっつったろ!」
顔を赤らめて怒鳴る沢根に対し、徳野はからからと笑った。
「だって、英くんたらすごく“いい顔”してたからさ。これ、椀田くん達にも見せてあげたいなあ」
「っざけんな! んなモンあいつに見せたらマジでボコすからな!」
「おお、怖い怖い」
歳の離れた親戚の
沢根の大ぶりな
輝く舞台。手を振ってはしゃぐ観客席の子供達。新星のように現れた二人の小さなアーティスト。
気弱で表情の
二人の舞台を
音のない写真の中から、いまにもまたあの歓声と熱狂が、湧き上がってきそうだった。
天上の英雄達に愛を込めて。
──天上デンシロック完
天上デンシロック 海丑すみ @umiusisumi
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