最終話 伝説のチャンピオン(後編)


 初秋しょしゅうの河川敷の夜は静かだった。冷えた空気が、いっそう静寂せいじゃくを深めている。ひそやかに流れる川のせせらぎへと、混ざるように弦をはじく。


 帰宅した後、気分が落ち着かなかった奏鳥は、久々に古びたアコースティックギターを引っ張り出して、お気に入りの場所へとおとずれていた。


 沢根は今頃何をしているのだろうか。詩貴はどうしているのだろうか。不安に考えても仕方はないとわかっていても、もやつく思考は晴れそうになかった。


 今の自分には、彼らを信じて待つことしかできない。けれど待つにしたって、何もせずにただ待ってはいられない。そんな思いを込めて、小さなハンディライトの灯りを頼りに、奏鳥は筆を走らせた。


「『頑張れ』……って、ありきたりだよな。『大丈夫』……って言うにはあんまり根拠こんきょないし。うーん……」


 ぶつくさと独り言をべながら、奏鳥は頭を悩ませていた。作詞に挑むのは初めてだったが、思っていた以上にうまい言葉が思いつかない。


 詩貴へと向けて、せめて応援歌でも作ろうと考えたはずなのだが。今の彼の状況を、真剣に思えば思うほど、かけてやる歌詞が浮かんでこないのだ。


 なんとかして詩貴をはげましたいし、なぐさめたい。そう思う一方で、奏鳥はやはり自分のそんな気持ちも、どこか自分勝手で、今の詩貴にはかえって重荷になるのではないかと危惧きぐしていた。


 苦しんでいる人物に向けて、『頑張れ』と歌うのは流石にこくだろう。にならない言葉が並ぶノートを閉じ、奏鳥は息を吸った。


 そして辺りがすっかり暗くなっていることに、ようやく気がついた。秋夜しゅうやわびしさに胸の内が冷えていくのを感じながら、彼は不意に口ずさんだ。


 “神様、誰か、誰か僕に愛する人を探してくれないか”──


「ずいぶん遅い時間に歌うんだね」


「えっ!?」


 後ろの方から声が聞こえ、反射的に振り向いた。いつの間にか背後に詩貴が立っていたのだ。気配に気づかないほど自分がけていたことに気づき、奏鳥は慌てて口をふさいだ。


 どこかであったような状況だ、という事実はさておき。奏鳥は詩貴のき物が落ちたような、さっぱりとした顔色にも驚きを感じていた。


「詩貴、なんで……」


 困惑する奏鳥とは打って変わって、詩貴は少しだけ気まずそうに微笑んだ。


「携帯に連絡したのに返事が来ないから、奏鳥のお母さんに電話したんだ。こんな時間になっても帰ってこないから、おばさんも心配してたよ」


 詩貴の言葉に、とっさにかばんの中の携帯電話を確認する。見ると確かに、着信履歴りれきに彼の名前が並んでいた。


 夢中になると他のことに手がつかなくなるのは自分の悪い癖だ。苦笑いする奏鳥の横に、詩貴は歩み寄ってきた。


「奏鳥……隣にいてもいい?」


「もちろん」


 詩貴の笑みは未だぎこちなさそうだったが、その表情から先日まで背負っていた暗さは消え失せていた。奏鳥も笑って応えると、詩貴は彼の横へと並んで座った。


「“愛せる誰か”……いい曲だよね。やっぱり僕、奏鳥の歌が好きだよ」


「えへへ……」


 突然賞賛しょうさんを送られ、褒められ慣れていない奏鳥はやはりふにゃふにゃと照れ笑った。


 詩貴の方は何かあったのだろうか。やけに調子の良さそうな彼にたずねたかったが、奏鳥は詩貴が自分から話すのを待った。


「本当に……僕は奏鳥の歌声が好きなんだ。隣に立って演奏ができたら、きっとすごく幸せだと思う」


 しばらくしてから、詩貴は重々しそうに口を開いた。泳いでいる彼の視線は、今はどんな世界を見ているのだろうか。


 詩貴は空想を眺めている瞳を閉じて、深呼吸をした。


「奏鳥。こんなに弱い僕だけど……一緒に、舞台に立てるかな」


 奏鳥は、思わず自分も大きく息を吸った。返す言葉を考えるよりも先に、身体が勝手に動いていた。


「わっ!」


 急に抱きしめられて、詩貴は驚きの声を上げる。奏鳥の腕にぎゅっと力が込められたのが、そのまま彼の答えになっていた。


 詩貴は張り詰めていた気持ちがゆるむのを感じ、思わず声を漏らして笑った。


「あはは、苦しいよ奏鳥。本当にフォルテみたい」


「あっ、ごめん!」


 犬に似ていると言われ、奏鳥は顔を赤らめた。


 照れ臭そうに眉を下げながら、おずおずと離れる奏鳥の姿を見ながら、詩貴は納得したようにうなずいた。


「奏鳥。今まで僕は……何かが目の前でダメになったら、それが僕の限界で、天井なんだって、思いこんでいた」


 伏せていた目蓋まぶたが見開かれる。詩貴の瞳の中に、たった今輝き出した一番星のように、光がともるのが見えた。


「けれど、奏鳥とだったら、それも越えられそうな気がするんだ。その前に……何度か失敗もしちゃうかもしれないけど……」


 辿々たどたどしく笑う詩貴へと向けて、奏鳥は少々大げさに首を振ってみせた。


「そんなの当たり前だよ。失敗なんか何回したって、俺達は平気だぜ」


 すると奏鳥は、唐突とうとつに立ち上がって手をかかげ、人差し指を天へと突き立てしめした。


 大げさなんてものじゃない。堂々と大股おおまたを開いて気取ったポーズをとる姿は、さながらすでに舞台の上に立ったかのようだった。


「詩貴。俺たちが目指すのは、もっと上だ。天井じゃなくて、その向こう──天の上だ。邪魔する壁なんか、無理やりぶち破ってやろうぜ」


 奏鳥は歯を見せて、不敵に笑ってみせた。むしろ格好悪いと思えるほど格好つけてみせる彼は、やはり生粋きっすいのロッカーだ。詩貴は笑いをこらえながら頷いた。


---


「凄かったね、飯野さんの演技。まるでプロの役者だよ」


「本当に別人になっちまったのかと思ったぜ。……やっぱ委員長って、怒らせたら怖そうだよな」


「なんか言った?」


 背後から突然委員長本人に話しかけられ、奏鳥は飛び上がって驚いた。あわただしい相棒の様子に、詩貴は思わず苦笑する。


 あれから一ヶ月後。共高の文化祭は盛況せいきょうていしていた。


 コスプレ喫茶きっさやらお化け屋敷やら、各クラスは出し物にはげみ、校内中が輪飾わかざりや花紙で華やかにいろどられている。


 外部からの来訪らいほう客も多く、中には大型のビデオカメラをスタンドに取り付けて撮影をしている、記者と思われる人々もいた。


 県内有数の進学校と名高い共高だが、文化祭は特に盛り上がる行事らしく、地元でも評判なのだそうだ。


 そしてその中でも、体育館での舞台はメインイベントと噂されるほど評価が高い。吹奏楽部の豪壮ごうそうたる演奏に始まり、あるグループは技巧ぎこうを凝らしたコントで笑いを取り、またあるグループは派手なダンスパフォーマンスで観客を圧倒していた。


 共高の舞台の一番の魅力は、何より多様性にあふれていることだった。


 一方で、委員長の属する演劇部は一風変わった現代アート風の演技を披露ひろうした。彼女はまだ一年生にも関わらず、持ち前の演技力と驚くほどの身体能力の高さで、立役者たてやくしゃ抜擢ばってきされていた。


 本番前の委員長は流石に緊張している様子を見せていたが、舞台に上がった後はやはり別の人間になってしまったかのようだった。壇上だんじょうで涼しげな顔をしてバク転を披露ひろうする彼女の姿は、普段の真面目そうな印象とは程遠い。


 そんな委員長がにっこりと笑みを浮かべてにじり寄ってきたので、奏鳥はおののきながら後ずさった。委員長は奏鳥の情けない格好にき出すのを堪えながら、二人へと語りかけた。


「ほら、そろそろ成谷くん達の番だよ。準備しないと」


「あ、ああ! うん、そうだな!」


 奏鳥が慌てて立ち上がるのを見て、詩貴はふうとため息をついた。


 もうすぐ本番だ。そう実感した途端とたん、緊張のあまり心臓が激しくみゃくを打ち始めた。身体中の血液がどっと回転しているようで、目眩めまいがしそうな程だった。


「詩貴!」


 顔色を青白くさせていた詩貴の背を、奏鳥の手が叩く。朦朧もうろうとしかけていた意識が、目の前へと引き戻された。


 奏鳥も気張きばっているのか、少々りきんでいる様子だったが、その表情は明るい笑みに満ちていた。


「リハは上手くいってただろ? そのままやれば大丈夫だって!」


「……うん」


 詩貴は弱々しく笑って頷いた。本番前のリハーサルでは、二人とも全くミスをすることなく演奏を終えられていた。


 しかし──舞台裏から観客席を覗いて、詩貴はもう一度ため息をついた。思っていたよりも、ずっと観客の数が多い。あの数の視線を浴びたまま、果たして無事に演奏を終えられるだろうか。


 何より自分は、今まで練習で出来たことを二度も本番で失敗してきたのだ。ピアノの発表会に、先月の体育祭。過去の記憶が、詩貴の頭の中で嫌な想像を引きずり出そうとする。


 詩貴は首を振って、自らの頬を叩いた。


『失敗なんか何回したって、俺達は平気だ』──奏鳥の言葉を思い出す。繰り返し、呪文のように頭の中でとなえる。


 こうすると、詩貴の心は不思議と落ち着きを取り戻せるのだ。振り向くと、彼の気持ちを察したように奏鳥が頷いた。


「詩貴」


 不意に手を握られ、詩貴ははっとした。奏鳥の手も震えている。あんなに堂々と振る舞える彼でさえ、やはり緊張しているのだ。


 それでも奏鳥は、詩貴の手を舞台袖ぶたいそでの方へと引き寄せた。きっと彼も今、自分と同じ気持ちなのだろう。


 もう一度脳裏にあの呪文を思い浮かべる。息を吸い込んで、詩貴は歩みを進めた。


 ワンダーウォーブルの名前が呼び出される。同時に二人は壇上へと駆け上がった。舞台照明がやけに真っ白く、まぶしく感じられ、まるで暗がりから急に、光の中へと飛び込んだようだった──


---


 それは栄光に満ちたように白白しらじらときらめく、輝かしい舞台だった。舞台の向こうでは大勢の観客が手を挙げ、荒波を立てている。嵐の海のように騒ぐ歓声に二人の心は高揚こうようした。


 奏鳥はエレキギターを、詩貴はショルダーキーボードを握りしめ、舞台の前方へと歩みを進める。歓声は彼らの姿にますます湧き上がった。さあ、歌おう。俺たちの伝説がついに始まるのだ。


 奏鳥が息を大きく吸い込んだ瞬間、舞台上に詩貴の打ち込んだ電子音が鳴り響いた。エレクトロニック・ミュージックのイントロが、観客達を近未来の世界へと引き込んでいく。


 リハーサル通り、奏鳥は曲名を高らかに叫んだ。


「“ファイアワークス”!」


 奏鳥と詩貴、二人がかりで作った唯一ゆいいつのオリジナル楽曲だ。二人で音楽活動を始めてから、半年間かけてようやく一曲だけ、と言うと聞こえは悪いが、彼らの一歩はそれだけ重いものだった。


 バックミュージックに合わせて、二人は一斉いっせいに楽器をかき鳴らす。いざ演奏が始まると、緊張していた心はそれこそ花火のように吹き飛んでしまった。


 考えている余裕なんかない。ただ燃えるように手を動かすだけだ。


 均衡きんこうのとれた電子音バックミュージックを、奏鳥の歪曲わいきょくしたギターリフが情熱的にかき乱す。


 そこへ詩貴のキーボードの奏でるストリングスサウンドが、厚みのある和音でハーモニーをまとめていく。


 二人の対照的とも言える演奏は、その名の通り“不思議なおどろきの”音色を会場中に響き渡らせた。


 そのうちはやし立てていた生徒達は彼らの技巧に圧倒され、息をのんで演奏に聴き入るようになっていた。


 その瞬間をまるで見計みはからったように、奏鳥は声を張り上げる。


 “止まって動けないのは誰のせい? 抱え込んできたフラストレーション

 爆ぜそうな心に蓋をした まるで意味なんかないイマジネーション”


 あの日、詩貴のために応援歌を作ろうとして、結局形にはならなかった言葉の羅列られつたち。あの後、実行委員による選考会までの間に、奏鳥と詩貴は二人で一緒に言葉を歌詞へとまとめていた。


 はじめは詩貴に向けた応援歌のつもりだったその言葉は、気づけば彼らの両方が、自分自身をふるい立たせるような歌詞へと変貌へんぼうしていった。


 “燻ってた 自分にさぁ 今こそ歌ってみせてやろう 本番はこれからさ!”


 奏鳥は手を振り上げる。その後ろで詩貴は精一杯ステップを踏み、彼の歌唱かしょうの熱さを盛り上げる。


 二人の気持ちは一つだった。自分の気持ちを歌で表現すること──そして、自分達のように迷える思春期の同志を、楽曲という形で鼓舞こぶすること。


 奏鳥は叫んだ。


「打ち上げろ!」


 詩貴の伴奏ばんそうが盛り上がりを見せ、曲はサビへと入っていく。観客席の少年少女達は、アップテンポに盛り上がる楽曲に顔色を良くし始めた様子だった。


 “弾けて飛んで いつか消える火だって良いさ 焦げついた跡こそが勲章

 焼け跡と心傷 痛みが消えなくても良いさ 刻まれた記憶が道標──”


 奏鳥の力強く、それでいて美しいファルセットが、持ち前の声量せいりょうで会場中をとどろかせる。


 間奏のギターソロはやはり少しつたないが、彼の情熱は少しの完成度の低さなど、凌駕りょうがするほど熱烈ねつれつとしていた。


 舞台はまるで、花火を間近で受けたように熱く燃え上がっている。奏鳥も詩貴も、顔色を赤くしながら間奏を弾き鳴らした。


 ダンッ──打ち込み音声のドラムが、激しく打ち鳴らしながら収束しゅうそくする。楽曲は最後の緩急かんきゅう、しっとりとしたCメロに差し掛かった。打って変わって繊細せんさいなメロディを奏でる、詩貴のメインパートだ。


 キーボードの音源を切り替える。電子ピアノの美しいアルペジオが、観客の視線を詩貴の方へと集めていく。詩貴はひっそりと息をのみながらも、ひたすらに指先を動かした。


 舞台のスポットライトも詩貴を中心に照らし、まるで詩貴は世界中から目を向けられているかのような気持ちになった。心臓がぎゅっとちぢこまるのを、いやが応でも感じてしまう。


 冷や汗が流れる。手が震えるのを無理やり堪える。しかし、指先に集中していたはずの意識が、ふっと途切れてしまった──


「あ……」


 軽いミスタッチだった。しかし詩貴は、自分のミスに背筋が凍るほどの衝撃を受けてしまった。


 詩貴の脳裏を埋め尽くすように、六年前のあの舞台の記憶がよみがえる。血の気が引いていき、目の前が真っ白に染まっていく。


 手が、止まってしまった。


「……詩貴?」


 隣の奏鳥が心配そうに尋ねる。しかし彼のそんな声すら、詩貴の不安を余計にかきたててしまった。


 詩貴はキーボードを握りしめたまま、ついに硬直してしまう。事態の異変に気づいた裏方の実行委員が、流れ続ける電子音源の再生を止めた。


 静寂せいじゃく盛況せいきょうの後の静けさ。暖まっていた会場の空気が、途端に冷え切っていく。詩貴は視線を泳がせたまま、微動だにしない。


 奏鳥は詩貴になんと声をかけて良いかわからず、彼もまたしずまりきった壇上で、凍ったように静止してしまった。


 どのくらい時間が経ったのかわからない。まだ一瞬かもしれないし、もはや永遠のようにも感じられた。どうにかしなければ──そんな思いだけが詩貴の頭の中をき回す。震える体にむちを打つように、詩貴は顔を上げた。


 しかし。


 観客席の視線は、一斉に詩貴の方へと向いていた。ある者は不安げに、ある者は不満そうな目で彼のことを見ている。そのざわめきの中で時折、「何があったんだろう」とか、「どうしちまったんだ」など、ぶつくさとささやかれる声が入り混じってきた。


 詩貴の頭の中を、恐怖の感情が支配し始める。


 どうにかしなければ──けれどどうすれば? ──もうどうしようもない、おしまいだ──まただ、また自分は失敗したのだ。


 詩貴の気が遠くなっていく。目頭めがしらに熱いものが込み上げてくる。駄目だ、隣に奏鳥がいるのに、こんな所で涙を見せては駄目だ。


 けれどどうしたらいい? 今、何をしたらいい? 観客の冷えてしまった視線が、まるで『お前は何をしても駄目だ』と責め立ててくるようにさえ感じる。


 ああ、もうだめだ──顔を下げようとした時だった。




「ヒュウウウーーッ‼︎」


 耳ざわりな甲高い音が、詩貴を薄暗い妄想の世界から、現実へと引き戻した。幼い頃から、何度も何度も聞かされてきた、あの不愉快な口笛の音だ。


 ヒュウ、ヒュウ、と口笛は観客席の方から何度も鳴り響く。生徒達はそろって音のぬしの方を見た。


 沢根英里は、額にしわを寄せ、一生懸命いっしょうけんめいに口笛を吹き鳴らしていた。


 突然の部外者の騒ぎに、会場のざわめきはますます大きくなる。しかし、詩貴は彼の顔を見て思い出した。


『どんな形になろうが、お前と成谷なら何をやったって絶対良いもんになる』──心底自分のことを嫌っていたはずの沢根が、あんなに冷ややかな視線を集めてまで、こちらに意志を送っている。


 ここまでされて、何もしないわけにいかないだろう。詩貴の指先は、衝動的にメロディを奏で始めた。


「おい、すげえぞ。これ演出なのか?」


 観客のうち何人かが、好奇の視線で詩貴を見た。詩貴は一心不乱にキーボードをかき鳴らす。


 その姿は、かつて奏鳥があの春の夕方に見た、義侠ぎきょうの革命のようだった。


 詩貴の奏でるメロディは、隣の奏鳥すら聴いたことのない旋律せんりつだった。それもそのはずだ。詩貴はもう、あふれ出る想いだけで、何も考えずに指を動かしていた。


『どんな形になろうが』──その想いだけで、詩貴は即興アドリブで鍵盤を奏でていた。


 うなるアルペジオの技巧は、ざわついていた観客席を一瞬で静まり返らせた。どんな形だっていいから、届いて欲しい。詩貴の懸命な想いは、電子ピアノの美しいメロディとなって、会場中に響き渡った。


 詩貴はショルダーキーボードを、ギターを弾き鳴らすように振り上げる。身体ごと勢いよく降下させ、やがて彼の即興演奏は幕を閉じた。


 真っ白な熱のこもった思考が、徐々に目の前の現実へと帰ってくる。詩貴は緊張のあまり固唾かたずんだ。今の自分の一連の行動は、果たして観客にどう映ったのだろうか。


 パチパチと、すぐ隣から手の鳴る音が聞こえた。奏鳥だ。静かな会場の中で、奏鳥は周りの目なんかちっとも気にせず、やわらかな笑みをたたえて詩貴の方へと拍手を贈っていた。


 すると彼の拍手につられるように、観客席からも次々と歓声が湧き上がる。こんなに多くの賞賛を浴びるのは、生まれて初めてのことだった。詩貴は瞳を震わせながら、ショルダーキーボードのをぎゅっと握った。


 次第に、観客席は熱を取り戻し始める。ほうけている二人へと向けて、誰かが叫んだ。


「アンコール! アンコール!」


 二人がずっと憧れていた、再演を求める声だ。アンコールの掛け声は、次第に波紋はもんを広げて彼らへと降り注ぐ。


 奏鳥と詩貴は、ふと隣を振り返った。同時に目が合って、彼らは思わず笑みをこぼした。二人の想いは、やはり一つだった。


 奏鳥は手を振り上げる。リハーサルの通り、もう一つの楽曲を高らかに表明した。


「聴いてくださって、ありがとうございます。かつて俺たちを出逢であわせてくれた、かの有名ロックバンドの名曲を借りて、応えさせてください」


 二人はもう一度目を合わせて、頷いた。振り返って、裏方の実行委員へと合図を送る。


 曲目はもちろん、あの英雄の名曲だ。


「「QUEENの、伝説のチャンピオン!」」


---


「良かったね、英くん」


「んだよハジキ。てめえも来てたのか」


 舞台が終わった後。聞き馴染みのある声に名を呼ばれ、沢根は露骨ろこついやそうな顔で振り向いた。ハジキこと徳野一とくのはじめは、愛用のデジタル一眼レフを握って満足そうに笑みを浮かべていた。


 周囲の観客が退席していき、実行委員達が客席のパイプ椅子いすを片付けにやって来る。二人は揃って体育館を後にした。


「……まあ、悪くはなかったな。にしたって、てめえはわざわざ熱海から、ご苦労なこった」


 あえて徳野からは顔をそむけ、沢根はぼやくように呟いた。夏季休暇かききゅうかのシーズンを終えて店をオーナーへと預けた彼は、秋から春までの間は本業にいそしんでいるはずだった。


 恐らく彼は、奏鳥と詩貴の舞台のためだけに、わざわざ本業のスケジュールを空けたのだろう。普段は忙しい忙しいと言い訳をして、祖父からいだはずの店を友人に任せるような自由人のくせに。沢根はわざとらしくため息をついた。


 徳野はそんな沢根の様子を意にかいさず微笑んだ。


「あの子達の晴れ舞台だからねえ。いい思い出が沢山れたよ。もちろん、英くんのぶんもね」


「てめえ! 俺の写真は勝手に撮んなっつったろ!」


 顔を赤らめて怒鳴る沢根に対し、徳野はからからと笑った。


「だって、英くんたらすごく“いい顔”してたからさ。これ、椀田くん達にも見せてあげたいなあ」


「っざけんな! んなモンあいつに見せたらマジでボコすからな!」


「おお、怖い怖い」


 歳の離れた親戚の激昂げっこうぶりに、徳野はおどけながら手をひるがえしてみせた。沢根は顔も目も真っ赤にして拳を振り上げる。


 沢根の大ぶりな殴打おうだ易々やすやすとかわしながら、徳野はデジタル一眼レフのデータを覗き見た。本当に、写真家カメラマンとして自画自賛したくなるほどいいばかりが撮れていた。


 輝く舞台。手を振ってはしゃぐ観客席の子供達。新星のように現れた二人の小さなアーティスト。


 こつだった成谷くんは、今や頼もしそうに腕をかかげ、静止画から歌声が聴こえてきそうなほどたくましく胸を張っている。


 気弱で表情のとぼしかった椀田くんは、楽しげに笑みを浮かべて手を振るっている。子供の成長は早いものだ。わずか数ヶ月の間に、彼らは随分ずいぶんと伸び育ったようだった。


 二人の舞台をながめる英くん──こと沢根英里は、ただでさえ赤い瞳を、涙目で真っ赤にしながら見入っていた。彼とはそこそこ長い付き合いのつもりでいたが、こんなに心を動かされている姿を見るのは初めてだった。


 音のない写真の中から、いまにもまたあの歓声と熱狂が、湧き上がってきそうだった。




 天上の英雄達に愛を込めて。

──天上デンシロック完

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天上デンシロック 海丑すみ @umiusisumi

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