生後3ページ

@rawa

生後3ページ

ぴぴぴぴ。ぴぴぴぴ。ぴぴぴぴ。

遠慮がちなアラームの音が、私を夢から朝に繋ぐ。


「……んむ」


スマホを落として寝てしまったらしい。

手からこぼれた端末が転がり、ぴりぴりする腕がけだるい。


日差しの匂い。

用意された布団の、タオルケットのふわふわした感触が好き。

私を優しく守ってくれる、この温度が好き。


画面には、古本屋で撮った本の写真。

装丁も地味で、どうして手に取ったのかも覚えていない。

でも、開いたそのページの一行に、心を奪われた。

買わなかったことが、ずっと心残りだった。


それから、大学でその本に再会してから半年。

その人の作品を全て読んだ。もう読むものがない。

次の作品を待つしかない。


……待つだけじゃ、足りなくなった。


※※※


先輩は、もう仕事に出掛けたのだろうか。

昨日の休みには、買い物に付き合ってもらった。

あんな風に頼りない人でも、隣を歩いてくれれば人に絡まれることはない。

それに、私のつまらない趣味に同じ歩幅で歩いてくれる人は希少だ。

気を遣わなくて良い。気を遣われなくて良い。

それは本棚の前のように、居心地の良い場所だ。


冷蔵庫には、帰りに買ってもらったフルーツの盛り合わせ。

てらてらとプラスチックが汗をかく。

まだ私のフルーツが主食なんていう、妖精さんみたいな設定を信じているのか。

それとも、そういう遊びだとわかって付き合ってくれるのか。

カバンからカロリーメイトを取り出し、もしゃもしゃと栄養補給する。


先輩とは、大学の文芸サークルで知り合った。

好きな作家が同じだと気づいたのは、彼の文章を読んでから。

言葉の選び方、間の取り方が似ていた。


卒業して社会人になっても、先輩は性懲りもなく創作を続けていた。

その姿勢が、私は好きだった。

よく話すようになったのは、先輩の卒業後。


先輩は、たぶん私のことを意識している。

でも、手を出してくることはない。

わかっているから、私は安心して甘えられる。


※※※


今日の講義は午後から。

プリントアウトした先輩の新作を広げて、「読者」を再開する。


無機質なコピー用紙をめくる。鉛筆で追いかける。

私に見える世界のメモを、うめこんでいく。


私は読むことには自信がある。

半日で10冊読める。もちろん、1冊を深く読むこともできる。

愛嬌にも自信がある。趣味の集まりで姫扱いされなかったことがないから、ご厚意に甘えて暇潰しの本をたくさん紹介してもらっていた。


でも、オリジナルの話を書いたことはない。書く必要がなかった。

あの作家の作品を読めば、満たされた。

先輩の作品を読めば、十分だった。


……いつから、足りなくなったんだろう。


※※※


大学ノートを開く。

鉛筆を走らせる。


あの作家の文体が頭にある。

先輩の言葉の選び方が、指に残っている。


でも、私の言葉が出てこない。


空が、薄黄色から水色に変わる。

水色は気づくと藍になり、赤色をまぶし、紺になる。

17時を告げる音楽放送。

月と星と電灯が、ひとつずつ灯っていく。


書いて、消して、書いて、消して。

ぐちゃぐちゃになったノートと消しゴムのかけらが、私の一日を溶かしていく。


こんなに、遠いのか。

読者と作者の距離。

こんなに本を読んできたのに。


くやしい。

でも、ここで逃げるのは、もっと気にくわない。


※※※


「……おーい、生きてる?」

「……」

「風邪引くぞ、本の虫」

「…」

「目覚めろ、かわいい妖精ちゃーん」

「……ん。どうしたの」

ルームメイトが帰ってきたらしい。

本当は少し前に起きていたけど、いろんなボキャブラリーで呼ばれることを楽しんでみた。

「こっちの台詞だよ。なに書斎に埋もれてんの。もう夜だよ」

「寝かしといて……」

「そうはいかない。美容に悪いでしょ、相棒。どうしたどうした」


私はぼんやりと寝ぼけて、同居人に体を預ける。

もふりと全身を柔らかく包まれる。化粧とほのかな汗の匂い。

彼女の指が髪を撫でる。少しだけ、呼吸が楽になる。

このタオルケットみたいな安心感と、撫でてくれる指先の優しさが嫌いじゃない。

甘えることが相手のメリットになる程度には可愛く生まれて良かったな、なんて少しずるく思う。


この子は、二次創作の世界でお金を稼いでいる。

私もたまに彼女のコスプレや売り子で付き合って、おこぼれをもらっている。

彼女にとっての創作は、金に糸目をつけない狂人相手の商売の種。


スポーツが得意な彼女と、勉強が得意な私。

長身でかっこいい彼女と、小柄でかわいい私。

現実のお金が好きな彼女と、理想の言葉が好きな私。

なにもかも合わないけれど、譲れない信念の角度がずれているから一緒にいられる。


「私、頭いいはずなのに」

「そうは見えない寝癖。髪と顔洗って寝なさい」

「ねえ、私、読書量足りないかな」

「あんたが足りなきゃ誰が足りるのよ」

「なのに、3ページしか書けなかった」

「……え? 書いてんの? あんたが?」

「半日で10冊読めるのに、3ページしか書けなかった。ずっと浅い。納得いかない」


キラリと同居人の目が光った。

「書けばいいじゃん。内容なんてどうでもいい。あんたが書くってことが大事なんだよ」

良い話みたいに聞こえるが、同居人はもっと現実的な感情をしている。

「私をアイドル売りする気?」

「当たり前じゃん。他人の話なんか、誰も本気で聞かないし読まない。でも、可愛い女の子の話なら形だけでも聞く人がいる。それは価値だよ」

思わず小さく笑った。この人は、本当にこうだ。


「私自身の価値はわかってるけど」

「うん、そこは相変わらずね」

「でも、私が大切にしているものの価値も、認めてほしい」

「……良いものは良いって言うよ。とりあえず着替えな。考えすぎ」

それもそうか。


ふと、まだ一日を終わらせたくないと思った。

少しだけ身なりを整えて、ふわふわのスカーフを巻いた。

「ちょっと、顔出してくるね。鍵持ってるから、先に寝てて」

「え、いや、深夜だよ?」

「うん。でも多分、あの人は書いてる」


※※※


夜の道を歩く。

街灯の下で風がまわり、遠くで小さな音楽が鳴っていた。

冷たいドアは、何の抵抗もなくあいた。


電気がこうこうとついた部屋。

かちゃかちゃとパソコンを打つ音。

まったく気付いていない。鍵もやっぱり空いていたし、無用心にもほどがある。


背中に回り、声をかけた。

「にゃん」

びくっとした先輩の背筋は、私よりも猫みたいだった。


「…お前か。なんだよ、急に」

「頑張るあなた様のもとに、妖精さんが現れました」

芝居がかった誘惑。ため息をつく彼から、疲れとちょっとした安らぎが伝わる。

この人、この警戒心の薄さで本当に社会生活できてるんだろうか。

私でなくても、どうせいつか悪い女の子に騙されてそうだ。


「本題です。書きました」

ノートを差し出す。 唐突だ。なんの相談もしていない。

だけど、先輩はなにも聞かなかった。

少し眠そうな目でノートを受け取り、ゆっくりとページをめくった。


書きかけの、なんでもない話だ。

パソコン画面に映る先輩のエディタは、既に30ページを越えていた。

買い物や仕事の間に積み重ねたそれらに、私はまったく届かない。


いつものいたずらだと思われるだろうな。

あ、どうしよう。

そんなことを考えてたらなんだか、ひっぱたいて消えてしまいたくなってきた。

でも、もし私可愛さに傑作の書き出しだなんて言われたら……

それはそれで、見くびるなと怒ってしまいそうだ。


やけに長い時間が過ぎた。

夜って、どうしてこんなに止まっているのだろう。


「懐かしいな」

先輩の最初の言葉は、罵倒でもお世辞でもなかった。

「僕も最初はこんな感じだった。全然進まないんだよな」

「私があなたと同じ、ですか。ギリギリ卒業できた先輩が、この私と」

「放っとけ。卒業すれば良いんだ。お前みたいな特待生とは違う」

ついいつもの調子で、憎まれ口をたたいてしまった。

今日は完全に私のわがままだというのに。

まあいいや、叩きやすい先輩が悪いことにしてしまおう。


「…すみません。それで、先輩はどうやって解決したんですか」

「解決は、たぶんしてない。今でも。でも、細かいことを気にしないことだ。底なし沼みたいなもので、立ち止まると永遠に終わらないもんだ。書かなきゃ、何も始まらない。逆に言えば、書ききればどんなものでも価値はある」

「……あなたも、私が顔出しして握手券とかつければ内容に関係なく売れると思いますか」

「いきなりなに言ってんだお前!?……ええと、そうじゃなくてさ。設定がちぐはぐでも良い。言葉が間違ってても良い。途中で時間軸がわからなくなっても良い。まず、ひとつ作るんだ。それが、ひとつ、ふたつ、気付いたら勝手に増えてくる。そのうち、書いてなきゃ落ち着かなくなるから」


書いてなきゃ落ち着かなくなる。

そっか。それで良いんだ。


「……きっかけは、聞かないんですね」

「うん、わかるから」

ずっと、自分から作ることができずにいた。そんな私が、初めて持ってきたノート。

特別なドラマがあったわけじゃなく、ゆっくり、ゆっくりたまったものが今日あふれた。

もしかしたら、先輩のはじまりも『こんな感じ』だったのかもしれない。


冷たい蛍光灯と夜はさっきより優しくて、でもほんの少しだけ寂しかった。

そのまま帰ろうとして、私はふと立ち止まり、振り返る。


「ねえ、褒めてください。なんでもいいですから」

いつも通りの、私たちの距離。妖精のいたずらみたいな、かわいいわがまま。


少し考えて、先輩は笑った。

「よく頑張ったな。お疲れさま」


※※※


鉛筆の跡が、まだ指に残っている。

先輩の優しさも、耳に残っている。


世界は私に寛容だ。

タオルケットもルームメイトも、それから一応先輩もくれた。

そして私の本棚には、読みきれないほどの本がある。

でも、それだけじゃ足りないから、私は今日という日を過ごした。


たった3ページの産声。

ひとまずは、それで十分だと思えた。

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