空気の音が好き。
さっぱりと澄む空気、ふわふわと流れる空気、じっとりと生ぬるい空気。
それらにはなんとなく個性があって、風になって私を通り過ぎていく。
そのせいなのかな。
いつも、どんより淀んでいるものが気になっちゃうんだ。
沈んだ空気を漂わせている子に声をかけると、自分が大きくなれる気がする。
いい子なんかじゃないって、わかってる。
でも、しょうがないじゃん。
放っておいたら、こっちの夢見が悪くなるんだから。
***
なでるのは好き。さわられるのは、きらい。
それは、私に限ったことじゃないのかもしれない。
「触るな」
筋肉質な男の子が倒れ伏して、私のことをにらんでいた。
「こんなの、大したことじゃねえ」
「でも、ほっとけないよ。泉くん、毎日頑張りすぎ」
「お前が俺の何を知ってんだ、沢沼」
普段はからっとして、バカみたいな話を大声でしている男子。
暑苦しくて、ちょっと苦手。
でも、部活で大声を出しているところは、嫌いじゃない。
「頑張ってるだけなら、止めないよ。でも、苦しそうなんだもん」
「なにがだよ」
「わかんないけど。なんだか泉くんって、一年生なのに先輩三人分くらい背負って動いてる感じがする」
「……しょうがねえだろ。ダサいザコにちゃんとやれっつっても、思い通りには動かねーんだ。なら、俺がその分やるしかねえ」
「気持ちはわかるけど」
「なら、いいだろ」
たまに、こういう人がいる。
明らかによどんだ方向に、突っ走っていく人。
私には、よくわかんないや。
***
中学校の頃は、私はみんなの人気者でいられた。
なんでもそこそこできたし、いい人って言ってもらえた。
だけど、上を見るときりがない。
「沢沼さん。さっきのスピーチ、面白かった」
凛とした、このクラスの女王様。
戸倉さんは、いつだって場の中心にいる。
「ありがと。でも、代表はやっぱり戸倉さんだねー」
「それは、好みの問題というか……」
「はっきり言って、人気投票だね。クラスの代表なら、人望バトルになるのは仕方ないんじゃないかな」
私の先回りした答えに、戸倉さんは困ったような顔をする。
この子が厄介なのは、優秀さを鼻にかけるでもなく、本当にいい子なのがわかることだ。嫉妬したりしたら、人として本当に負けちゃう気がする。
なにより、深入りして気に入ってしまうのが怖かった。それって、なんだか自分から脇役に落ちる感じがするし。
あーあ。
誰かこう、さっぱりさせてくれないかなあ。
***
学年一位。それは、天才の称号のようだった。
あの戸倉さんよりも上って、ちょっと信じられない。
でも、その男の子は小さく丸まって、とてもすごい人には見えなかった。
なにより、昔飼うのをあきらめたワンちゃんにちょっと似てた。
私は、彼からじんわりと沈んだ空気を感じた。
そういう子なら、こっちを傷つけたりしなくて安心だ。
泉くんみたいなタイプは、ちょっと怖い。
「おっはよー、薊矢くん」
「え、あ、うん。ええと」
「どうしたの? あ、名前憶えてない? 沢沼梓だよ。沢庵和尚の沢にー、底なし沼の沼に―、辛い木で梓。実際の梓の味は、知らないけどね」
「は、はい」
ツッコミ待ちの自己紹介を軽くスルーして、薊矢くんは顔を伏せた。
「せっかく近くの席になったんだからさ、仲良くしようよ。薊矢くんって、あんまり話してるとこ見ないからさ」
「……なに話せばいいか、わかんない」
「そうだなあ。あ、勉強すごいよね。塾とか行ってるの?」
「塾はこわいから、問題集とかで自習してる。昔は通ってたんだけど、ちょっとね」
「へー。じゃあ、休みとかなにしてるの? 部活は入ってなかったよね」
「ふ、普通だよ。なにもしてない」
なかなか盛り上がらないなあ。
うん、でもそんなに不快じゃない。普通にかわいくていい声してるし。
「さ、沢沼さんってさ。いい人、って感じするね」
「えー? そうかなあ」
「うん。泉くんに、声かけてたよね。ちょっと頑張りすぎて、浮いちゃったとき」
おどろいた。あんな失敗の様子、見られてたのか。
「僕には、ああいうことはできないから。素直に、すごいなって」
「そんなことないよー。むしろおせっかいって、中学のころよく言われてたなあ。クラスメイトなのに、お母さんかお姉ちゃんみたいだって」
「それは、誉め言葉だね」
「そう?」
「お母さんやお姉ちゃんが嫌いな人って、いないでしょ」
そんなことはないと思うけど。一応は、好意的に受け取っておこう。
薊矢くんの机を見つめていたら、ころんと鉛筆が出てきた。
なんだか、本当に弟くんみたいに思えてきた。
「ふーん。高校生で鉛筆使ってるの、珍しいね」
「す、捨てるのも、なかなかできなくて」
もじもじと、薊矢くんは居心地悪そうにする。別に悪いことなんかしてないのに。
「勿体ないもんね。でも美術とか製図とか、使える場所はあるでしょ」
「うん。早く、使い切りたいんだけど。まだ10本くらい残ってるんだ」
「……使い切れないなら、ひとつ貸してくれる?」
「え?」
「私のペンか何かと交換でいいよー。薊矢くんの鉛筆とか、ご利益ありそうだし」
「べ、別に、普通にあげるよ」
「わかってないなあ。貸して、ってところが重要なの。借りるってことは、いつか返す必要ができるわけだからね」
「そんなものかなあ」
私のダブっていた蛍光ペンをおずおずと手に取り、薊矢くんはもじもじとつぶやいた。
***
「……よお。沢沼」
「あ、泉くんお疲れー。今日は部活ないの?」
「俺がいないほうが、うまくやってるっぽいんだよな」
「……ふーん?」
「俺がいると、空気が重苦しくなるんだってよ。ヒーローのつもりだったけど、どうやら悪役になっちまってた」
「ガチすぎたのかもね。もっと本気でやってる、クラブチームか何かに入ったほうがいいよ」
「そうだな。考えるわ」
そう言いながら、考えているようには見えなかった。
部活動という形に、何か思い入れがあったのかもしれない。あるいは、一度決めた場所から逃げることが嫌なのだろうか。
「ダセえ」
小さくつぶやいた声は、珍しくかわいらしくて私の手元まで降りてきた気がした。
「ううん。泉くんは、ダサくないよ。ダサいのは、みんな」
「……適当なこと言うな」
「泉くんの中でなにがあったのか、私は知らないけどさ。頑張ってる人が、ダサいはずない。自分が合わない場所とか、楽しくない場所なんて、別に逃げてもいいんだよ。だって、きみの体を守れるのはきみだけなんだもん」
私は、戸倉さんという存在を見て、クラスの中心になることをあきらめた。
本当は泉くんじゃなくて、そんな自分を擁護したかっただけなのかもしれない。
それでも。
「サンキュ」
偽善だって、誰かを救えるならいいじゃない。
***
その日の夢には、泉くんと薊矢くんが出てきた。
泉くんが魔物か何かに捨て身で突っ込んで大けがしたところを、私と薊矢くんが介抱する。
『介抱って、デートみたいだね』
寝静まった泉くんを見ながら、夢の中の薊矢くんをからかってそんなことを言った。
すると薊矢くんは、かあっと赤くなって私の手を握ってきた。
『わ』
『……梓おねえちゃん』
その声にきゅんとして、ぽかぽかした。
『おねえちゃんに、鉛筆、あげる』
その言葉に返そうとしたら、もう朝になっていた。
***
薊矢くんの鉛筆には、知らない名前が書かれていた。
『久瀬菜摘』。昔の友達だろうか。
「人からもらったものなんだ。だから、捨てると呪われそうで」
「ごめんね。そんなものを勝手に取って」
「ううん。いいんだ。早く手放したかったから、沢沼さんには感謝してる」
沢沼さんだなんて、余所行きだなあ。
夢の中みたいに、甘えてくれていいのに。
「じゃあ、しばらく借りちゃってもいい?」
「うん。ていうか、あげるよ」
「じゃ、お言葉に甘えて末永くお借りしまーす。でさ。久瀬さんって、中学の友達?」
「……クゼ?」
キンと、空気が冷え込む。
さっきまで、人からもらったとかさんざん話をしていたのに。
『ボクは、ナッチャンなんてシラナイヨ。ごっこなんて、シラナイヨ』
いきなり、宇宙人のような声を出してきた。
「……薊矢、くん?」
「ん? 沢沼さん、何か言った?」
とぼけているわけでは、なさそうだった。
だけど、目の奥に、さっきの宇宙人のような声と同じ危険なよどみが残っていた。
「ううん。なんでもない」
「そっか。ごめん、急にボーっとしちゃって」
どうやら、この子にはまだ私の知らない面白いところがたくさんある。
「やっぱり、薊矢くんって面白いね。こう、いじりがいがあるっていうか」
「おもちゃみたいに言わないでよ」
「ごめんごめん。そんなつもりじゃないんだけど」
ふふ、しょうがないなあ。
今すぐモフモフしてあげたい気もするけど。
きみが大きくなるまでは、梓お姉ちゃんがちゃんと守ってあげるからね。
***
それから、私は毎日日記をつけるようになった。
久瀬菜摘の鉛筆を、少しずつすりつぶすために。
私が、薊矢くんにおはようって言ったときの空気と、もじもじと答える彼の声を残すために。
深夜ラジオが始まる前の、夜の空気は澄んでいる。
そこには私と日記帳と、憎らしいお守りだけがある。