温泉

河村 恵

牛乳瓶のある風景

いつもの3人でやってきたのは、和風旅館の構えだった。

「思ったより高級そうだな」と佐助が心配そうに言った。

「普通に泊まれば4、5万はするらしいけど、日帰りは3000円だから心配ない」

俺が調べてきた情報を伝えると、若川が周りを見回して言った。

「へえ、世田谷にこんな立派な温泉があったんだな」

若い頃から登山やハイキングに行っていた俺たちも、今は50代の中年3人組になっていた。これでも3人とも医者の端くれである。

「足腰だけは丈夫で80まで登山ができる自信がある」といっていた若川がこんなことになるなんて、思ってもみなかった。

先週、若川の検査結果を俺と佐助で確認した。

3人とも医者だから、画像を見れば分かることだった。若川の余命は、1年ももたない。

検査前の確認書には宣告不要に丸がついていた。

「若川のやつ・・・」

「家族もいないし、最後まであいつらしく生かしてやりたいな。俺らで何かしてやれることはないか」

佐助と二人で話し合って、若川が好きだった温泉に連れてくることにした。一見元気そのものの若川を見ていると、まさか来年までもたないとは思えなかった。

オフシーズンの平日とあり、ほとんど貸切状態だった。

大浴場につかると若川が「ああ」と声を出した。

つられて俺と佐助も気持ちよく声を出した。

「温泉ってどうしてこんなにきもちいんだろう」若川が湯に身を沈めながら言った。

「普段はシャワーですませてんじゃないのか?」佐助が若川に尋ねた。

一人暮らしもしたことのない若川が妻に先立たれた時、心配した佐助はおせっかいにも若川に家事を教えに1週間通い詰めたことが懐かしい。

「風呂だけは毎日掃除して、お湯を張って、どっぷりつかってるさ」

若川が得意げに答える。

「そういえば、たまに俺が死んだらどうなるんだろうって考えることがある」若川が急に真面目な顔をした。

「おいおい、縁起悪いこと言うなよ」佐助が眉をひそめた。

「そうだよ」

俺も慌てて加勢してからしまったと思った。勘のいい若川はなにか異様な雰囲気を察してはいまいか。

「会社の若い子が、それこそ27くらいの子が、エンディングノート書いてるって言うんだよ。百円ショップに売ってるって教えてくれて、俺も買ってみたんだよ」

俺と佐助は顔を見合わせた。

「80まで登山するって言ってるようなお前には早いって」佐助が笑って言った。

(俺は自分が80まで生きられないことを知っていた)

「俺、一人だからさ、残すものなんもないけど、こんな俺でも生きてた証ってか、やっぱり誰かに覚えていてほしいって少しは思ってる。お前たちもボケたら俺のこと覚えてるやつ誰もいないから、ぼけるなよ」

若川が笑い、俺らの笑い声も響いた。

「お前たちの分も買ってあるから後で3人で書こうや」若川が言った。

「やなこった」佐助が手を振った。

他の客が入ってきて、話題もそれぞれの家族の愚痴や子どもの話へとスライドしていった。

湯を上がり、体を拭いた。

フロントで受け取ったビンの牛乳を3人で飲もうと、俺と若川がを佐助を待っていたときだった。

佐助の呻き声が聞こえた。

「佐助、おい、どうした?」

「うう」

佐助はうずくまっていた。

「おい、しっかりしろ」

「救急車を」佐助の声は弱々しかった。

それから記憶が途切れ途切れだった。

   *

「まさかこんなことになるとはな」

佐助の葬儀でも若川はピンピンしていた。会場に並べられた献花の白が、妙に眩しかった。

「虫の知らせがしたのかな、あいつ、この数ヶ月やけに優しかったよな。そう思わないか?」若川が俺の隣で呟いた。

俺は若川の秘密を知る唯一の友人になった。

最後まで、この秘密は隠し通そうと心に決めた。

「佐助のやつ、もしかしたら知ってたのかもな、お前もそうなんだろう」若川が俺を見た。

「なんのことだ?」俺は動揺を隠そうと目を逸らした。

「今だから言うけど、佐助がもう半年も持たないってわかってたんだ。肺の写真見せてもらったんだよ、本人には秘密で。でも奥さんが、本人には絶対に言わないで欲しいって俺に電話してきた」

「佐助が」

心臓が止まりそうになった。

「それと、お前の奥さん、いやこれは言えねえ」若川は口を閉ざした。

若川は誰かに呼ばれてその場を去った。

俺はスーツの内ポケットに手を入れた。そこには、あの日若川が買ってきたエンディングノートがあった。佐助の葬儀の朝、妻が黙って俺のカバンに入れていたものだ。

会場の片隅で、ページを開いた。

「覚えていてほしい人」の欄は、まだ白紙だった。

俺はペンを取り出し、迷わず二つの名前を書いた。

受付に置かれた牛乳瓶が三本、誰にも飲まれることなく、並んでいた光景を何度も夢に見る。

世田谷の温泉には、また行けるだろうか。

今度は二人で。いや、一人で。

湯に浸かった時の「ああ」という声が、まだ耳に残っている。

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温泉 河村 恵 @megumi-kawamura

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