短編小説|善良なる声

Popon

冒頭

ある楽曲をもとに広がった物語。

旋律に導かれるように、ページをめくるたび新しい景色が立ち上がる――それが「香味文学」です。



***


僕は、誰かを大きく幸せにできるような人間ではない。

それでも、ほんの少しなら誰かの心を温かくできると信じている。


今日も自宅からほど近い家電量販店に来た。

白い照明が並ぶ通路を歩きながら、働く人々を眺める。


店員に笑顔で会釈をするが、話しかけて仕事を止めるのは礼を欠くと思っている。

そうした小さな気遣いの積み重ねが、世界を少しだけ明るくするはずだ。


最近は、働く人の小さな失敗を晒して笑うような風潮が増えた。

SNSでは努力よりも過ちのほうが目立ち、カスタマーハラスメントという言葉まで生まれた。

そんな思いやりのない人間を見るたびに、胸がざらつく。


『この度は当店にご来店いただき、誠にありがとうございます。さらなるサービス向上のため、お客様の率直なご意見・ご要望などをお聞かせください』


僕にできることと言えば、せいぜいこの「お客様の声」のカードに日頃の店員に対する感謝の気持ちを綴るくらいだ。

いつも上質なペンを持参し、インク切れで手を煩わせるような真似はしない。

文字の濃淡や余白を整え、感謝の言葉をびっしりと書く。

内容は毎回変え、空いたスペースには内容に合ったイラストを添える。


そのとき、視界の先でカウンターに立つ小太りの男が目に入った。

店員と向かい合い、何かを話している。

店員の表情はこわばっている。

ああ、またクレームか──と僕は直感的に理解した。

こういう人間がいるから、善良な市民が傷つくのだ。






店員と話していた小太りの男の頭上に、淡い光が見えた。

目を凝らすと「30」という数字が、ぼんやりと浮かんでいる。

照明の映り込みかと思ったが、そうではない。

その数字は、まるでそこに貼りついているように揺れていた。


男の向かいには、店長らしき人物が立っている。

彼の頭には「10」の数字が見えた。

その数値を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

仕組みがまだ理解できていないが、人によってそれぞれ数字が割り振られているようだ。


店長はしばらく男と話していたが、やがて近くにいた女性店員を呼び寄せて対応を任せ、すぐそばの他の客のもとへ歩いていく。

その後ろ姿を目で追うと、頭上の数字が「9」…「8」…と静かに減っていった。


周囲を見渡すと、他の客や店員の頭上にも数字が浮かんでいる。

「42」「65」「78」。

レジで笑顔を見せる客の数字は「50」、清掃員の背中には「70」。

あたりを見渡しても誰も他人の頭上に目線をやっている人はいない。

どうやらこの不思議な光景を目にしているのは僕だけのようで、店内はいつも通りの静けさを保っている。


再び女性店員に目をやると、彼女の数字が「30」から「31」…「32」と少しずつ増えていた。

一方で、先ほど去って行った店長の数字は「8」…「7」と減っている。

数字は増減もするようだ。この数字は、いったい何を意味しているのだろう。


何かのきっかけで数字は増減するのだろうか?

二人の店員の行動を考えると、善い行いをすれば増え、悪い行いをすれば減る?

小太りの男に視線を戻すと、彼の数字は「30」のまま動かない。

だとしたら小太りの男の数字に変動がないのが納得できない。

僕はしばらくその背中を見つめ続けた。






小太りの男は、店員とのやり取りを終えるとそのまま店を出た。

会計をする様子もない。

僕は少し離れた棚の影からその背中を見送った。


男の頭上には、相変わらず「30」の数字が浮かんでいる。

減る気配がない。

あれほど店員を困らせたというのに、どうしてだ。

やはり、この数字は何かのきっかけでしか変化しないのかもしれない。


自動ドアが開き、外気が流れ込む。

白く照り返す歩道に、男の影が伸びた。

僕も間を置いてその後を追う。


男はポケットから飴のようなものを取り出し、口に放り込む。

そして包み紙を指先で丸めると、そのまま足元に落とした。


数字が「30」から「29」に減った。


胸の奥が軽く弾んだ。

やはりそうだ。悪いことをすれば減る。

この数値は人の行いを正確に映し出している。

僕の考えは間違っていなかった。


男は通りの先へ歩いていく。

その途中、小さな女の子に声をかけた。

何をしている?





***





※この作品は冒頭部分のみを掲載しています。


続きはnoteにて公開中です。


👉 noteで続きを読む:https://note.com/poponfurukata/n/n0010a55348fc

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