僕はまだ許可をしていないのに

イロイロアッテナ

僕はまだ許可をしていないのに

この物語はフィクションであり、特定の障害や個人、団体とは一切関係ありません。

作中には、発達障害を題材としたデリケートな描写および暴力的な表現が含まれます。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。

本作は第4回朝日ホラーコミック大賞〈原作部門〉応募のホラー小説です。



子供を療育施設に連れて行き、療育の様子を見守りながら待っていると、同じように見守る周囲の母親たちから「偉いね」と言われることが非常に多かった。

最初は意味がわからなかったが、その言葉に出会う回数を重ねるうちに、その「偉いね」という言葉の前に、ある言葉が省略されていることがわかってきた。

それは「まだ逃げてないなんて」だった。


子供が生まれる時、誰でもそうだが、私も、この子の未来のためにどんなことでもしてやろうと心に誓っていた。

そんな我が子がASD――自閉スペクトラム障害であることが判明したのは、1歳2ヶ月の頃だった。

きっかけは、親密圏の形成が明らかにできていないことだった。康太は、母親との親密圏の形成ができておらず、誰とでも同じように関わる物怖じしない子どもだった。


障害が判明してから、私と妻はASDに関して多くの書籍を読み、ネットで情報を収集した。

ASDは約400から800の遺伝子が複雑に関係していると言われていた。

その複雑に影響し合う遺伝子の差異から、1人1人に1つずつ病名をつけてもおかしくないという意見があるほど、症状がまちまちで、ASDという枠組みは、共通する症状を括り出すこともできなくはないという程度のものだった。


そして私たち夫婦は、集めた情報を基に、でき得る限りの対応策をとった。

当初、私は、親の愛情と療育を含む適切な医療的ケアがあれば、治らずともASDを克服できると考えていた。

しかし、そのような幻想は、下に弟が生まれ、康太が大きくなるにつれ、驚くべき速さと深度で完全に打ち砕かれた。


我々は他者に対し、物事を教えたり指導したりすることはできるが、まだ他者に叡智を授けることはできない。

極めて重度のASDでありながら、知能には全く問題がなく、むしろ一般平均値よりかなり高い知能を示す康太は、そのことを私に再認識させてくれた。


康太は、一言で言えば「昆虫」だった。


ASD全般の話ではない。

様々な遺伝子が複雑に関係しあって発生するメカニズムから、表層に現れてくる症状や程度は、全員が異なる。

だから、少なくとも康太の場合という限定付きではあるが、康太には他者への共感という概念そのものが存在しなかった。

我々が家に帰って、椅子に悩みを相談するという概念が存在しないように、康太には、他者に共感するという概念自体が存在していなかった。


まだ小さかった弟が、幼稚園のクリスマスのイベントで、工作キットを使ってスノードームを作って帰ってきた。

アクリル樹脂でできたドームの中は水で満たされていて、キラキラと輝く綺麗なラメが舞い、その中には小さな家と小さなサンタクロースの人形が並んでいた。

キットだから当然かもしれないが、なかなかよくできたスノードームを、弟はクリスマスプレゼントとして、笑顔で康太に贈った。


康太は驚いた顔をして、何度も弟に

「これ、もらっていいの?」

そう聞いていた。弟は何度も首を縦に振り、

「クリスマスだからね。お兄ちゃんにもプレゼントだよ。」

舌足らずな言葉で、兄が喜ぶことを期待した弟は、本当に健気で可愛らしかった。


スノードームを受け取った康太は、目線を上に上げ、何か思い出したように

「ありがとうございます。」

と言い、左手で受け取ったスノードームを、数を数えながら上下に3回ひっくり返した。

そしてスノードームを目の前に持ってくると、ラメがゆっくりと小さな家と小さなサンタクロースに降り積もる様子を眺めていた。

そして、その様子をしばらく眺め、ラメがすべて降り注いで底に沈殿すると、康太はスノードームを持った左手を弟に差し出し

「これは一体、何ゴミですか?」

といぶかしげな顔で聞いた。


それ以来、弟は康太に近寄らなくなった。


私が全力で怒りを抑え、康太に対して、どうしてそんな発言をしたのか尋ねた。

ただ、あまりの怒りに漏れ出した私の表情や声のトーンから、何かしら父親が怒っていることは伝わったようで、康太は、問題が発生していないのに父親が難癖をつけてくると認識していた。


何度も確認し、スノードームが弟から自分に手渡された時点で、贈与に基づく終局的な財産の移転が生じ、所有権は弟から自分に移った。

そして3回、スノードームをひっくり返し、確かにドームの中で雪が舞っているように見えた。

けれど、それ以上のギミックはないので、もう不要と判断し、自分のものだから廃棄しても何ら差し支えないと考えた。


しかしドーム部分はアクリル樹脂であり、中には水が入り、家とサンタクロースはプラスチックのようにも見え、さらにドームの底は木の板で蓋がしてある。

一体、何ゴミとして分別廃棄すればよいか思案に暮れ、目の前の弟に意見を求めた。


この一連の思考の流れの中に何も問題が生じていないのに難癖をつけてくる父親は頭がおかしい。

康太は、そう言った。


時が流れ、2人が大きくなるにつれ、康太と弟の間で喧嘩が増え始めた。

弟は極力、康太に関わらないようにしていたが、ひとつ屋根の下で同居している限り、望まなくても関わらなければいけない局面が、どうしても出てくる。

我々は他者と喧嘩をしたとき、他者に向けて強烈な怒りと殺意を持つ。

そしてその怒りと殺意は決して偽物ではない。

心の底から怒り、真に殺意を抱く。

しかし、多くの場合、実際に殺害には至らない。

我々を食い止めているものは、理屈や刑罰ではなく、道徳なのか、社会規範なのか、他者への思いやりなのか、わからないけれども、最後の最後で、我々には踏みとどまる徳俵のようなものがある。

しかし、康太にそのようなものはないと私たち夫婦はよく知っていたので、決して言いたくはないが、康太に対して、伝えなければならないことがあった。


ある日の夕方、弟が塾に行っている間に、私たち夫婦は康太をリビングに呼んだ。

「最近、よく弟と喧嘩をしているね。」

僕がそう言うと、康太は私を見て

「『よく』と言われても、従前の喧嘩の回数を把握していないので、減ったのか増えたのか、わかりません。」

と答えた。

「うん、そうだね。統計をとっていないからわからないよね。ではこう言い直します。お父さんは、康太が弟と喧嘩する回数が増えてきていると認識しています。」

「その認識はお父さんのものなので、お父さんがそう思うなら、お父さんの中ではそうなんでしょう。」


台所で、妻が調理していた手羽先の甘露煮が入った圧力鍋のスイッチがポンッと上がり、中の蒸気がプシューと音を立てて吹き出した。


私は康太に対して、

「お父さんとお母さんから康太に伝えなければいけないことがあります。」

「何?」

「念のために言いますが、弟と喧嘩をして腹が立っても、弟を殺してはだめだよ。」


私がそう言うと、言われた康太よりも、横で聞いていた妻の方が辛そうだった。

康太は私たち夫婦を見て

「確かに、僕は周囲から人間関係の破線のようなものが見えてないと評価されることが多いです。だから、自分ではよくわからないけど、少し変わっているんだと思う。」

そう言うと康太は顔を曇らせて俯き、それから顔をあげ

「でも、それでも、弟を殺したりはしないよ。」

そう言った康太に、妻は目頭を熱くしていた。

「そうよね。そうだよね。康太だって、その辺はわかってるよね。ごめんなさい、おかしなことを言って。」


そう言うと、妻は康太に深々と頭を下げた。

「さぁ、ご飯にしましょう。もうすぐ塾も終わる頃だし。手羽先の甘露煮、うまくできたかしら?」


そう言って妻が台所に行くと、私は何も言わず、康太を見つめていた。

康太の特性ばかりに目がいってしまっていたのかもしれない。

思考の過程は我々とは全く異なるけれど、康太には康太なりの道徳心が育っているのかもしれない。


私がそう思っていると、康太は私を見て

「許可が要るっていうことだよね?」

そう言った。

私は康太が言っている意味がわからなかった。

「何の話? 許可?」

「お父さんの許可なしに弟を殺すな、そういう話だよね。」


私は何も言えず、その場で固まった。


私が固まり、とても悲しそうな顔をしていたからなのか、康太は自分が何かを間違えたらしいということに気がついた。

しばらく考え込んだ康太は、ハッとした顔をして、僕の前で左手を左右に大きく振り

「ごめんごめん、本当にごめんなさい。勘違いしてた。お母さんの許可もいるよね、二人の子供だもん。」

康太がそう言ったとき、長年蓄積してきた何かが音もなく弾け、時間にして数秒だと思うが、私は記憶が飛んだ。


気がつくと、私はテーブルの上のペン立てに刺さっていたハサミを右手で掴み、薙ぎ払うように康太の首を掻っ切っていた。

首から大量の出血をしながら驚いた表情を浮かべた康太は、左手で首を押さえたが、指の間から凄まじい勢いで血液が噴出し続けた。

顔の右側半分を真っ赤に染めた康太は、私に向かって咎めるように

「僕はまだ許可をしていないのに。」

そうつぶやくと、その場に崩れ落ちた。

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