豚はギャーと鳴く

毛毛毛毛

豚はギャーと鳴く

「じいちゃん、絵うまいね」


 ふと、何者かがあどけない声で私に話しかけてきた。突然のことに、驚いて筆が狂ってしまう。


「ああっ……」


 つい先ほどまで右手の制御の上できめ細やかに踊っていた筆は、大胆にも、画用紙の中央に緑色の太い線を残して地面に落ちていった。


「あっ。ごめん、じいちゃん」


 顔を上げると、申し訳なさそうな面持ちの少年がいた。ハーフパンツにタンクトップを着て、いかにも活発な少年という風貌である。

 地面に落ちた筆を拾い上げながら、「なに、大したことないさ」と少年に伝えると、少年は安心したように胸をなで下ろした。実際、大したことではなかった。ここの風景は、今まで何十枚も描いてきたから、一枚駄目になったところでどうということもない。


「……じいちゃんって、プロの人?」

「どうしてそう思うんだい?」

「だって、めっちゃ上手いじゃん」


 なるほど、実に子供らしい単純な理由。果たして私の絵は上手に描けているだろうか。自分の作品を客観視することは難しい。これでも画歴だけは長いので、すこぶる下手ということはなかろう。

 少年の「上手い」の一言は私の腹の底のほうをぐるぐると周り、なんだかむずがゆくなってくる。それから逃れるように、私は一息で、


「ちがうよ、プロじゃない。趣味で書いてるだけのしがない老人だよ」


 と言い切った。

 少年は特段残念がる素振りも見せず、「そっか」とだけ答える。


「てかさ、絵の中のこれ、こいつ。もしかして俺?」

「ん? ああ。多分そうだね。さっきまでそこでサッカーしてた少年だ」


 緑の線が縦断する画用紙の、右下の方に、早朝の運動公園をドリブルで駆け回る少年の姿。たしかに服装が目の前の彼と一致している。私はこの少年を描いていたらしい。


「ふーん」


 会話はそこで途切れたので、作業を再開することにした。

 落とした筆の先についた砂を筆洗用の容器の中の水でゆすいで流す。砂は、筆の緑とともに容器の底に沈んでいった。まっさらに戻った筆で、パレットの水色に筆を軽くつける。


 そのとき、どこからか甲高い叫び声が聞こえた。

 初めの叫びを皮切りに、次々と叫びが連鎖していく。


「うぇ!? 何これ? 何の声?」


 少年は、いきなり始まった叫びの応酬にうろたえた様子をみせる。その赤子の鳴き声にも似た、キンと耳を貫く叫びに対して、しかしながら私は心を乱すことはなかった。それは、この叫びの主を知っているからであった。


「これはね、豚の声だよ。屠殺場っていう、豚をしめる工場が近くにあるんだ。ほら、このあたりは、たまにいやなニオイがするだろう?」

「言われてみれば……。え、でもさ。『ギャー』って聞こえるよ? 豚は『ブー』じゃないの?」


 少年の疑問を、私はすぐに理解することができなかった。少しして、「ああ、そういうことか」と得心する。

 豚は「ブー」と鳴くものであって、今聞こえてくるみたいに「ギャー」と鳴くものではないはずだ、と彼は言うのだ。かわいらしい考えに、思わず少し頬が緩んだ。


「豚もな、最後くらい思いっきり鳴くんだよ」

「えー? なんか、豚にだまされた気分なんだけど」


 早朝の公園の芝生を、「ギャー」が駆け回る。

 こうなっては絵には集中できないので、私は少年に別れを告げて公園を後にした。



 ***



 ソファーに腰掛けて、居間のテレビをぼんやりと眺める。昼食後のこの時間は、芸能人が観光地で食べ歩きをしたり、格安のお店を紹介したりするバラエティ番組が放送される。定年退職前はこの時間にテレビを見るなんてことはあり得なかったのだが、いつのまにか毎日この番組を見るようになってしまった。鎌倉のスイーツやファッションチェックに興味はないが、これといった毒もない番組である。


 食後特有の眠気に身を任せ、半開きの目でテレビの画面に向かっていると、ダイニングの椅子に腰掛けていた妻がふと思い出したように話題を振ってきた。


「三吉さんとこの旦那さん、亡くなったんですって」


 私は重いまぶたを開こうともせず、さて、三吉とは誰であったかと思案する。聞き覚えのある名前であることは間違いないのだが。あと少しで思い出せそうではあったが、まどろみに包まれた私の脳はこれ以上の思考を拒否したので、思い出すのは諦めることにした。「そうかい」と気のない返事だけすると、妻は私が三吉を分かっていないのに気づいたのか、「ほら、町内会長の」と付け加える。

 そう言われて、私の頭の中で「三吉」が判然としてくるが、私の関心はそこで途切れた。それよりも私は、寝たいと思った。妻は、私が何をしていようとも話しかけてくる。あるいは、今のように何をするでもなく眠りに落ちる手前でたゆたうようなときにも話しかけてくる。それが何かの妨げになると鬱陶しく感じられるのだが、わざわざ指摘して夫婦に不和をもちこむのも面倒であったので、私は妻のこの癖を放置していた。


「まだ七十二だったって。早いわよね。これから奥さんどうするんでしょうね」

「早いといったって、彼はずいぶんな喫煙家だったらしいじゃないか。その年で亡くくなったのも不思議じゃない」

「そうかしら。そうかもしれないわね。ああ、本当にお気の毒だわ」


 妻はやけに抑揚のついた声で語る。それが少し苛立たしかったので、私は「なに、人生なんてそんなものだ」と少しぶっきらぼうに聞こえるように返した。しかしながら、妻はそれを意に介さず、口の動くのは止まらない。


「奥さん、身辺整理始めるみたいよ。旦那さんが亡くなってそろそろ自分も、となれば、子供に迷惑もかけられないので、生きているうちになんとかせねばならないのよ。いらない土地もたくさんもっているんですって。全部売ってしまうのだそうよ」


 興奮しているともとれるような口ぶりで妻はまくしたてる。他人の死がそんなに面白い話題だろうかとも思うが、今、私が見ているテレビ番組よりはましだなと内心自嘲する。

 それに、身辺整理と聞くと、やや他人事の感が薄れてくる。幸い、私は子供の負担になるような山地などは所有していないのだが。


「奥様ひとりで手続きとかもしないといけないのね。大変だわ」

「法や契約は老人には難しいだろうね」

「そのとおりよ。処理するものもひとつやふたつじゃなのよ。いっぱいあるの」

「いっぱいあるのか。いったいどれくらい捨てるのかね」

「きっと全部捨てるのよ」


 全部捨てるのなら、何も残らないね、と言おうとしたが、やめた。流石に幼稚だと思ったからだ。


 妻は満足したのか、そこで話を終えた。妻は、自分の話題に満足すると、こうしてぴたりと話をやめるのであった。私の拘束はこのときになって初めて解かれるのである。私はこのまま寝ることができる。

 しかし、そうした気分にはならなかった。どうしてか、このまま意識を失って、夕方にまで意識を瞬間移動させるのがとてももったいないことのように感じられた。眠気は依然私のまぶたを押さえつけるが、私はそれにあらがって、半開きを全開にした。


「ちょっと、散歩にいってくるよ」

「あら、朝も公園に行ったじゃない」

「こんどは、街のほうを歩くよ。絵を描くんじゃないんだ。都会を歩きたくなったんだ」

「そうなのね。まあいいわ。お夕飯には間に合うようにね」


 私はソファーに身を沈めていた状態から身体を起こし、血の巡りがよくなるのを感じると、立ち上がって玄関へと進んだ。

 すこし、苦しかった。人の不幸話を聞いたということ以上に、自分の身に差し迫るなにかを感じてしまった。



 ***



 二十分も歩けば、駅前まで出た。平日だというのに、それなりの人の往来があるから、都会とは不思議だと感心する。ふつう老体はこうした場所を受け付けないものだと思うが、今の私にはこの人の多さが必要だった。なんとなく閉塞した私の心は、都市という情報量の波によって押し流されるだろうと思った。


 駅を背に伸びる大通りをゆく。

 百貨店などの大きな建物は、駅や線路を挟んで反対側だ。こちらは雑居ビルが密集し、飲み屋や焼肉屋がそのテナントを埋めている。夜には華やかなネオンの明かりに包まれるような場所だ。

 現在の時刻では開いている店は少ないものの、駅から観光名所の異人館まで続く道であるため賑わいは十分である。

 あちこちのビルから張り出した店の看板は、それぞれヴィヴィッドな塗装を施され、縁には電飾が添えられている。一個一個の看板は、周囲よりも目立とうと鮮烈な印象に仕立て上げられているが、そのような傾向自体が全体的にみれば画一的であった。


 否、一つだけ、その傾向に当てはまらないものがあった。

「ギャラリー二宮」という黒文字だけが書かれた看板である。設置したのがずいぶん前のことなのだろうか、背景の白は薄黄色にくすみ、二宮の「宮」の字はうかんむりの縦棒が剥がれ落ちている。書体もどこか前時代的だ。

 しかし、「ギャラリー」の文字が私の興味を引いた。どうせ目的のない散歩であったから、ここに立ち寄ってみるのもよいかもしれない。


 ビルのガラス戸を押し開けて中に入る。古めかしい廊下の奥に、エレベーターがあったので、それに乗ってギャラリーのある七階へと向かった。

 フロアの一角に、「こちらからお入りください」という張り紙のされたドアが見える。私は、ドアをこんこんと数回ノックした。


「ごめんください。中をみてもいいですか」


 返事はない。誰もいないのだろうか。

 ドアノブを回すと、ドアはすんなりと開いた。

 そこは、小さな画廊だった。

 こぢんまりとしたスペースに、数点の絵画が展示されている。入り口のところには、「岡島智宏」と書かれたホワイトボードが立てかけてあった。この絵を描いた者の名だろうか。


 端から順に、ゆっくりと鑑賞する。

 一個目の絵は、水だった。画面全体が白と薄い水色で構成されていて、右上の方には小さな波のようなうねりがみてとれる。それ以外はなかった。太陽の光をうけて煌めくでもなかった。

 二個目の絵は、クジャクの尾だ。立体感を排して描かれており、目玉のような尾の模様は真円で表現されている。

 そして、三個目の絵が、私の目を釘付けにした。

 描かれていたのは、どこの家庭にもあるようなガラス窓。錠はすこし錆がつき、サッシはよくみると黒ずんでいる部分がある。窓の外には向かいの家の壁だけが見える。それだけの絵なのだが、私には異様な説得力が感じられた。窓の質感や光の入り具合というより、窓自体が持つ絶対的な質量・存在を説き伏せてくるような絵だと思った。

 そうしてこの絵を睨んでいた、そのとき。


「お客さんっすか?」


 背後から声をかけられた。

 驚いて振り返ると、そこには髪を赤く染めた、背の高い大学生くらいの男が立っていた。いつの間に私以外の人間がこの場に来ていたのか。男は、私がなにか返事をするより先に、「どう思います? この絵」と次なる質問を寄越してきた。驚きから覚めた私は、慌てて「とても上手いです」とだけ返す。

 すると、男はため息をついた。


「……そういうことじゃないんすよ。お客さん、この絵ずっと見てたでしょ? つまり、お客さんとその絵には確かなシナプスが生まれたんです。お客さんは、それを通して何を見ましたか? 聞いているのはそういうことっす」


 男は、真剣な目で私を見つめていた。私も男に向き直る。男の赤い髪が、白い顔とのコントラストで鮮烈な印象を与える。

 私は、この男の前で正直であらねばならないと思った。なぜかは分からない。


「……本当に、上手いと思ったんです。私よりも、上手いと思いました」

「なんすかそれ。お客さんも絵を描くんですか?」

「ええ、描くんです。でも、こんなに上手くは描きません」

「そうですか」


 男はすこし考え込むように押し黙ると、やがてまた口を開いて、「他には?」と尋ねてきた。まだ聞いてくるのか、と思ったが、その質問にぜひ答えたいとも思った。


「価値のある絵だと思いました。正確には、価値を付加することに心血を注がれた絵だと感じました。だからこそ、ひとつ不可解な点もあります」

「というのは?」

「絵のテーマです。もっといいテーマがあると気づいているのに、あえて描かないことを選択しているかのようにみえます。こんなにも窓を重厚に描けるのに、もっといかめしいものを描きたいなとは思わないんですか?」


 私が逆に質問する立場となった。

 私が呈した疑問に対して、男は、歯をむいてにかっと笑うことによって応えた。男が表情を動かすのを初めて見た。


「そうなんです。そうなんすよ。俺は描くものを選んでるんです」


 男の言葉に熱意がこもるのを感じた。男は、その熱意を自分の身体を越えて私にまで染み渡らせたいという強い意志を持っているようだった。


「例えば、戦争とか、政治とか、性交とか、モチーフになりそうな強烈なテーマはたくさんあるんです。そういうのを描きたい気持ちはものすごくあるんですけど、でも、それを描いてしまうと、それが俺の限界になってしまうと思ったんすよ。俺がもっとすごくなったときが、すなわちすごいテーマを扱っていいときなんです」


 なるほど、と思った。

 価値を付与するのに手段を選ぶというのは甘いという反論もできようが、この男が、この男の哲学に従って描いた絵があの薄汚れた窓だというのならば、私は一切の文句もなかった。

 こうなると、どんどん会話をしたくなった。男の熱を確かめたくなったのだ。


「きみは、プロになりたいのですか?」

「プロというのは、絵で食っていける人のことっすか?」

「そういうことです」

「ある意味ではイエスだと思います。究極的には、俺の絵ができるだけ多くの人に届くことが必要十分ってことになりそうっすね」

「それは、価値を生み出したいからですか?」

「まさにそうです。なんだ、わかってるじゃないですか、お客さん」


 この男のことが、だんだんと分かってきた気がする。この男は、私にとってとても理解しやすい行動原理で駆動しているのだ。そして、それがわかってくると、今度はこの男が心底羨ましく思えてきた。そうした気持ちも全部、この男の前では正直に話してしまいたかった。胸のうちから、焦燥にも似た感情があふれ出す。


「いいですね、きみは。よい生き方をしている」

「そすか。もしかして、お客さんも、価値が大好きなタイプの人間なんすか?」

「恥ずかしながら、そうなんです。いい年をして、実はそうなんです」

「恥ずかしいなんて、そんなことないはずです」

「そうですかね。ええ、認めますとも。私は、価値が残らないというのが最も怖いんです。こんなにも怖いなら……」


 次の言葉を紡ごうとして、胸が苦しくなる。これを言ってしまえば、私の苦しみの根源を真っ向から認めてしまうことになるのだった。それでも、この男の前ではすべてを話してしまうのだった。


「怖いなら、もっと努力すればよかったんです。若いときに」


 言ってしまった。そうだ、私は人生に納得していなかったのだ。人間というのは大抵何も残さず死んでゆくという事実に、死期が迫ってからようやく気づいたのだ。そしてとても悲しくなったのだ。

 私の話を聞いた男は、不思議そうな顔をしていた。なぜそんな顔をするのだろうと思っていたちょうどそのとき、男はその不思議を言葉に表した。


「べつに、いまからやればよくないっすか?」


 男は、至極当然のことを告げるかのような調子でそう言った。しかし、私には当然のことではなくて、目を見開いて固まってしまう。

 男は、もう一度繰り返した。


「べつに、いまからやればよくないっすか? ていうか、失礼ですが、今何歳ですか?」

「ええ? 六十八ですが」

「まだ平均寿命まで十五年はあるじゃないですか。それに、老人は暇なはずっすよね」

「いきなり失礼ですね」

「いいや、暇なんです。若い人よりも睡眠時間は短いし、働かなくていいし、学校いかなくていいじゃないっすか」


 私は暇だったのだろうか。

 暇だったのだろう。昼どきにあのようなくだらないバラエティを見ていたのだ。


「だから、やればいいんです。今更遅いなんてことはないです」


 私は、ただ呆然とするしかなかった。私の人生に十分な時間が残っているだなんて、考えたこともなかった。


「お客さんが苦しいのは分かります。俺も、価値を偏重するきらいがあります。それも、自分なりに見つけた価値というような生ぬるいものじゃなくて。あまねく世間に知れ渡って、ずっと語り継がれるような価値が欲しんすよ」

「それは……。とても悲しいことですね」

「はい。でも、それはお客さんも同じっすよね? そういう、くそみたいな人種なんですよ俺らは。それじゃあ、描かないといけない。描かないと、逃れられない」

「そうなのかもしれませんね。しかし、私はそれでも描いてきませんでした。私の中身が、本当は価値のないものであるのがあらわになるのが恐ろしいのです」

「それなら」


 男は、にやりと笑った。とてもいいことを思いついた、とそんな感じであった。


「俺の絵を買ってください。金を出して、覚悟にするんすよ。あとに引けなくするんです」

「営業かね」

「そうです。俺だって、できるだけ遠い場所まで俺の絵が届いてほしいですから。でも、お客さんにもいい話であるはずです」

「君の熱意を、貸してくれるということかい?」

「そうです」


 胸がざわついた。男の言うことは真実だ、と直感が告げる。彼は嘘を言っていない。

 私に、価値のための努力ができるだろうか。

 いや、そうではない。

 そんなことは、この絵を買ってみればすぐにわかることだ。


「買います。いくらですか」


 男は満足げに頷いて、値段を告げた。


「六万」



 ***



「ただいま」

「まあ、遅かったわね。何をしていたの?」


 帰宅する頃には、すっかり日も暮れていた。


「大きな買い物をしていたんだ。素晴らしい絵だ。もうじき家にやってくる」

「絵? それは大きいの?」

「人間大くらいだ」

「あら。まったく、変なものを増やさないでほしいわ。お昼に身辺整理の話したばかりじゃない」

「変なものは増やさないさ。価値あるものを増やすんだ」


 妻と話しながら鞄をおろしたり外套を脱いだりしていると、ふと、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐった。生姜だ。


「おい。今日の夕食は何なんだい?」

「夕食? 豚の生姜焼きよ。ちょうどご飯も炊き上がるころだから、そろそろお夕飯にしますか」

「豚か……」


 豚肉である。今朝方、悲鳴を聞いたばかりの、あの豚が精肉された姿である。これも何かの縁だろうかと考えるが、豚肉など食卓に三日に一回はでてくるのだから、特段たいしたこともないただの偶然であった。


 食卓に皿が並べられる。

 味噌汁に白米、いんげんの和え物、エリンギを炒めたもの。

 そして、中央には生姜焼き。さきほど温めなおしたので湯気が立っている。生姜の黄色が豚に彩りを添えて、それだけで少し華やかに見える。


「いただきます」


 箸を手に取る。いつもなら、まず副菜に箸を伸ばすのだが、今日は違った。真っ先に、生姜焼きをつかみ取って、口の中に放る。

 やわらかい肉を咀嚼する。噛むほどに肉の脂のうまみが口いっぱいに広がるが、それでいて生姜の風味がそのしつこさを良い塩梅で打ち消し、肉を飲み込んだあとには脂のくどさは残らない。舌が次なる肉を欲する。

 一枚豚肉を食べては、また一枚。飲み込みきらないうちにもう一枚。

 私は、一心不乱に豚肉だけを食べ続けた。白米と一緒に食べることもしなかった。

 やがて、生姜焼きの皿が空になる。

 

「生姜焼きのおかわりはあるかね?」

「おかわりするの? それなら副菜食べきってからにしてほしいのだけれど。……まあいいわ。とってきますね」


 妻が、私の皿を持って台所へと向かう。


 今日は、なぜだか食欲が止まらなかった。今の私には、食べることが必要だった。

 肉を食べる。すると、私の生命活動の糧になる。エネルギーになる。この瞬間、なすすべなく死んでいった豚のいのちに価値が生まれる。しかし、その価値は明日には消えてなくなる。

 私は、豚から吸い取った価値を出力しよう。しかしそれは、二日ともたないような価値ではない。後にずっと残る価値を生み出す。それを試みるのだ。


「はい。おかわりもってきましたよ」

「ああ、ありがとう」


 目の前に皿が置かれる。今度もまた、温めてから持ってきてくれたようだ。

 私は、このおかわりの生姜焼きも一気に食べ尽くした。



 ***



「じいちゃん、今日は絵の具じゃないんだね」


 公園で絵を描いていると、少年に話しかけられた。先日の彼と同一人物である。


「そうなんだ。今日は素描だ。試験で要るからね」

「じいちゃんテスト受けるの?」

「受けるよ。大学の試験だ」

「へぇ」


 少年は、興味深そうに私の手元を見つめている。


「大学入ったら、プロになれる?」

「そういうものでもないさ。でも、プロに近づくかもしれない」

「じいちゃん、やっぱりプロ目指してるの?」

「そうだよ」

「じゃあ、俺と一緒だね」


 少年は、そう言ってサッカーボールを抱えながら屈託なく笑った。


「俺はプロのサッカー選手になるんだ」

「いい目標じゃないか」

「そうでしょ。だから、俺とじいちゃんは同志だね」


 と、そのとき。


 ギャー、ギャー。


 どこからか悲鳴が響き渡ってきた。豚がベルトコンベアに乗せられる時間であった。


「豚鳴いてるね。じいちゃん、もう帰るの?」

「いや、今日はまだ描く。むしろこの時間を待っていたんだ」


 豚は、次々と最後の叫びを上げる。それが豚なりの存在証明なのだろうか。

 価値を生み出そうとするにあたって、私は、まずこの豚に向き合うことにした。

 私は決して豚にはならない、と強く心に決めたからであった。

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