誰にも選ばれない物語

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誰にも選ばれない物語


 選別は、毎朝9時に始まる。


 ソウマ・ヒロオリは白い部屋の中央に座り、端末の起動音を聞いた。

 画面に浮かぶのは、昨夜までに提出された作品のリスト。

 小説、詩、記録、日記──形式は問わない。

 すべては「存在価値評価システム《EGO》」によって一次選別され、

 その後、人間の選別官が最終判定を下す。


 ソウマの仕事は、それだけだ。


 読む。

 判定する。

 承認するか、削除するか。


 承認された作品は「公共記憶庫アーカイヴ」に保存され、永遠に残る。

 削除された作品は、48時間後に完全消去される。

 痕跡も、記録も、何も残らない。


 ソウマは、この仕事を5年続けている。

 毎日平均120作品。

 そのうち承認されるのは、約8作品。


 残りは──消える。


 最初の頃は、胸が痛んだ。

 誰かが時間をかけて紡いだ言葉を、自分が消すという事実に。

 でも今は、感じない。

 感じてはいけない、とソウマは学んだ。


 選別官に必要なのは、公正さだ。

 感情ではない。


 端末に最初の作品が表示される。


 タイトル:『母の手』

 ジャンル:私小説

 文字数:4,200字


 ソウマは、読み始めた。


 15分後。


 彼は判定ボタンを押す。


【削除】


 次の作品が表示される。

 彼は、読み始めた。


 ──これが、ソウマの日常だった。


    ◇


 異変に気づいたのは、3週間前。

 削除済みリストに、奇妙なパターンを見つけたときだ。


 削除されたはずの作品が、どこかに保存されている。

 システムの外側で。

 誰かが、意図的に。


 ソウマは調査を開始した。


 そして──彼女の存在を知った。


 カナエ・シエリ。

 元選別官。


 7年前、自身の作品が《EGO》で削除され、

 その2ヶ月後、選別官の職を辞した女性。


 現在の所在:都市外縁部、廃棄記憶保管施設跡地。

 行為:違法な作品保存。

 規模:推定12,000作品以上。


 ソウマは報告書を作成し、上層部に提出した。

 指示は明確だった。


「現地調査の上、対象者を特定。施設を閉鎖せよ」


 そして今日──

 ソウマは、彼女のもとへ向かう。


    ◇


 都市外縁部へ向かう電車は、1時間に1本しか来ない。

 ソウマは車窓から、徐々に変わっていく景色を眺めた。


 中央区の高層ビル群が遠ざかり、やがて低層の住宅地へ。

 さらに進むと、放棄された工場、草に覆われた空き地。

 人の気配が薄れていく。


 終点で降りたのは、ソウマだけだった。


 駅舎を出ると、錆びた案内板が立っている。

【廃棄記憶保管施設跡地→2.3km】


 ソウマは歩き始めた。


 舗装の剥がれた道路。

 崩れかけたフェンス。

 誰も管理していない街路樹が、無秩序に枝を伸ばしている。


 20分後、施設が見えた。


 灰色のコンクリート建築。

 3階建て、窓のほとんどが割れている。

 入口には、かすれた文字で【立入禁止】の札。


 ソウマは足を止め、建物を見上げた。


 ここに、彼女がいる。

 12,000以上の削除作品と共に。


 彼は深呼吸をし、入口へと向かった。


    ◇


 扉は、開いていた。


 内部は薄暗く、埃の匂いが充満している。

 ソウマは携帯端末のライトを点け、廊下を進んだ。


 左右に並ぶ部屋は、どれも空っぽだ。

 かつてここには、《EGO》の黎明期に削除された記憶データが物理保存されていた。

 だが15年前、完全電子化が完了し、この施設は放棄された。


 階段を上る。

 2階も、3階も、同じ光景。


 ──誰もいない。


 ソウマは踵を返そうとして、足を止めた。


 廊下の奥、最も端の部屋から──光が漏れている。


 彼は、その扉へと歩いた。


 ノックする。

 返事はない。


 もう一度。


「……どうぞ」


 低く、静かな声。


 ソウマは扉を開けた。


    ◇


 部屋の中は、本で埋め尽くされていた。


 いや──本ではない。

 紙に印刷された、作品だ。


 床から天井まで積み上げられた紙の束。

 壁際には古い端末が何台も並び、画面には無数の文字が流れている。

 部屋の中央、唯一の空間に、小さな机と椅子。


 そこに、彼女が座っていた。


 カナエ・シエリ。


 30代半ば、と記録にあったが、実際はもっと若く見える。

 黒い髪を肩まで伸ばし、色褪せた灰色のカーディガンを羽織っている。

 目の下にうっすらとした隈。

 でも、その瞳は──澄んでいた。


 彼女はソウマを見上げ、僅かに微笑んだ。


「選別官の方ですね」


 ソウマは頷いた。


「ソウマ・ヒロオリです。調査のため──」


「分かっています」


 カナエは椅子から立ち上がり、積み上げられた紙の束に手を触れた。


「これらを見に来たんでしょう?

削除されたはずの作品たち」


「……はい」


「どうぞ、見てください」


 カナエは部屋の隅を指差した。

 そこには、さらに大量の紙束が箱に詰められている。


 ソウマは一歩踏み出し、最も近い束を手に取った。


 タイトル:『雨の記憶』

 削除日時:2094年3月12日

 理由:独創性スコア2.1(基準値3.0未満)


 彼はページをめくる。


 雨の日の描写。

 傘をさして歩く少女。

 水たまりに映る空。


 ──平凡な、ありふれた文章。

 《EGO》が削除と判定した理由は、理解できる。


 しかし。


 ソウマは、なぜかページをめくる手を止められなかった。


 文章は拙い。

 構成も甘い。

 それでも──そこには、確かに誰かの視線があった。


 雨を見つめた、誰かの目が。


「その作品を書いたのは、17歳の高校生でした」


 カナエの声が、背後から聞こえた。


「彼女は3ヶ月後、《EGO》に2作目を提出しました。

やはり削除されました。

その後──もう、提出記録はありません」


 ソウマは束を戻し、カナエを振り返った。


「なぜ、これを保存しているんですか?」


 カナエは、静かに答えた。


「選ばれなかったものには、存在する権利がないと思いますか?」


「……それは、システムが決めることです」


「システムは、価値を測れるのでしょうか」


 ソウマは言葉に詰まった。


 カナエは机に戻り、椅子に座った。


「私も、かつてはあなたと同じでした。

選別官として、毎日100以上の作品を読み、判定していました。

《EGO》が正しいと、信じていました」


「……何があったんですか」


 カナエは、机の引き出しを開けた。

 そして、一枚の紙を取り出した。


「どうぞ」


 ソウマはそれを受け取った。


 タイトル:『境界の向こう』

 削除日時:2091年5月8日

 理由:テーマ不明瞭、感情表現スコア1.8


 著者名:カナエ・シエリ


「……あなたの作品」


「私が3年かけて書いた、最初で最後の小説です」


 カナエの声は、揺らがなかった。


「削除されたとき、私は納得しようとしました。

システムは正しい。

私の作品が足りなかっただけだ、と」


「でも──」


「でも、分からなかったんです。

何が足りなかったのか。

どうすれば、選ばれたのか」


 カナエは窓の外を見た。

 そこには、荒廃した外縁部の景色が広がっている。


「私は答えを探して、削除された作品を読み始めました。

最初は自分の作品と似たものだけ。

やがて、すべての削除作品を」


「そして、気づいたんです」


 カナエは、ソウマを見つめた。


「選ばれなかった作品の中にも──

誰かの人生があった。

誰かの祈りがあった。

誰かの、声があった」


「システムはそれを測れない。でも、私には分かる」


「なぜなら──」


 カナエの声が、僅かに震えた。


「私も、選ばれなかったから」


    ◇


 沈黙が、部屋を満たした。


 ソウマは、何も言えなかった。


 選別官として、彼は毎日、誰かの作品を削除している。

 それは仕事だ。

 感情を挟んではいけない。


 しかし──


 この部屋に積み上げられた、12,000以上の作品。

 そのすべてに、カナエと同じ痛みがあったのだろうか。


「あなたは、これをどうするつもりなんですか」


 ソウマは、ようやく声を絞り出した。


「どうもしません」


 カナエは、静かに答えた。


「ただ、ここに置いておくだけです。

誰にも読まれなくても。

誰にも理解されなくても。


ここに、在る。


それだけで、いい」


「でも──システムは、これを許しません」


「知っています」


 カナエは微笑んだ。


「あなたが報告すれば、この施設は閉鎖される。

作品は、すべて削除される。

私も──」


「それでも、いいんです」


 ソウマは、彼女を見つめた。


 なぜ、そこまでして。

 なぜ、選ばれなかった作品を守るのか。


 彼には、理解できなかった。


 でも──理解したかった。


「もう少し、ここにいてもいいですか」


 ソウマは、自分でも驚くような言葉を口にしていた。


 カナエは、少し目を見開いた。

 そして──頷いた。


「どうぞ」


 ソウマは、床に座り込んだ。

 そして、手近な紙束を手に取った。


 読み始める。


 削除された作品を。

 選ばれなかった言葉を。


 カナエは、静かに彼を見つめていた。


    ◇


 日が沈む頃、ソウマはまだ、部屋にいた。


 彼は10作品以上を読んでいた。

 すべて、《EGO》によって削除されたもの。

 すべて、カナエが保存したもの。


 詩。日記。短編小説。エッセイ。


 どれも、システムの基準では「不十分」だった。

 構成が甘い。

 表現が陳腐。

 独創性が足りない。


 しかし──


 ソウマは、ある老人の日記を閉じた。


 妻を亡くした男が、毎日彼女に語りかけるように書いた記録。

 文章は拙く、同じ言葉の繰り返しばかり。

 《EGO》は「感情表現スコア1.2」と判定した。


 それでも──そこには、魂と呼べるものがあった。


 ヒロオリは気づいた。

 自分の目が、熱くなっていることに。


「……おかしい」


 彼は呟いた。


「僕は、5年間この仕事をしてきた。

 何千という作品を削除してきた。

 一度も、こんな風に感じたことはなかった」


 カナエは、窓際に立ったまま答えた。


「それは、あなたが《EGO》の目で見ていたからです」


「システムは、構造を測ります。

 技術を、独創性を、市場価値を。

 でも──」


 彼女は振り返った。


「誰かが、なぜそれを書いたのか。

 何を伝えたかったのか。

 そこに、どんな人生があったのか」


「それは、測れない」


 ソウマは立ち上がり、窓際へと歩いた。


 カナエと並んで、外を見る。

 夕陽が、廃墟の街を赤く染めている。


「あなたは──」


 ソウマは、言葉を選びながら言った。


「これらの作品を、どうやって選んでいるんですか」


「選んでいません」


 カナエは、即座に答えた。


「すべて、保存しています。

 《EGO》が削除したもの、すべて」


「……すべて?」


「はい」


 カナエの声は、穏やかだった。


「選別しない、ということが──

 私にできる、唯一のことだから」


 ソウマは、その言葉の意味を考えた。


 選別しない。

 価値を測らない。

 ただ、在ることを許す。


「でも──」


 ソウマは、言葉に詰まった。


 でも、それでは──

 何も変わらないのではないか。


 カナエは、彼の考えを読んだように言った。


「あなたは、私がこれらを世に出すべきだと思いますか?」


「……それは」


「私も、考えました」


 カナエは、部屋の中を見回した。


「この作品たちを公開すれば──

 もしかしたら、誰かの心に届くかもしれない。

 《EGO》が見落とした価値を、誰かが見つけてくれるかもしれない」


「でも──」


 彼女の声が、僅かに沈んだ。


「それは、また別の選別を生むだけです。

 『これは良い』『これは駄目』という、新しい基準を」


「私がしたいのは、そうじゃない」


 カナエは、ソウマを見た。


「選ばれなかったものが──

 選ばれなかったまま、存在する。

 それを、許す場所」


「それが──ここです」


    ◇


 その夜、ソウマはホテルに泊まった。


 報告書を書かなければならない。

 施設の状況。

 対象者の確認。

 そして──処分の提言。


 しかし、彼の手は動かなかった。


 ベッドに横になり、天井を見つめる。


 カナエの言葉が、頭の中で繰り返される。


『選ばれなかったものが、選ばれなかったまま、存在する』


 ソウマは目を閉じた。


 そして──思い出した。


 自分が選別官になった理由を。


    ◇


 10年前。


 ソウマは大学生だった。


 文学を専攻し、小説を書いていた。

 いつか、作家になりたいと思っていた。


 卒業制作として、長編小説を書いた。

 1年かけて、推敲を重ねた。


 そして──《EGO》に提出した。


 結果:削除。


 理由:テーマの一貫性欠如、キャラクター造形スコア2.3、文体評価2.1


 ソウマは、何度も読み返した。

 どこが悪かったのか。

 何が足りなかったのか。


 分からなかった。


 それから──彼は、書くことをやめた。


 そして、選別官になった。


 なぜか。


 彼自身にも、分からない。


 もしかしたら──

 自分を削除した《EGO》の基準を、理解したかったのかもしれない。


 あるいは──

 自分が選ばれなかったことを、正当化したかったのかもしれない。


『システムは正しい』

『自分が足りなかっただけだ』


 そう、信じることで。


    ◇


 翌朝。


 ソウマは再び、施設を訪れた。


 カナエは、同じ場所にいた。

 机の前で、端末を操作している。


「おはようございます」


 カナエは顔を上げ、微笑んだ。


「おはようございます」


 ソウマは、昨夜考えたことを──

 自分の過去を、話すべきか迷った。


 でも、言葉は出てこなかった。


 代わりに、彼は尋ねた。


「あなたの作品──『境界の向こう』を、読んでもいいですか」


 カナエの表情が、一瞬だけ揺らいだ。


「……どうぞ」


 彼女は引き出しから、その原稿を取り出した。


 ソウマは受け取り、椅子に座って読み始めた。


    ◇


 30分後。


 ソウマは、最後のページを閉じた。


 そして──言葉を失っていた。


 カナエの小説は──


 完璧ではなかった。

 構成に粗さがあり、描写に甘さがあった。


 しかし。


 そこには、圧倒的な──切実さがあった。


 物語の主人公は、二つの世界の境界に立つ少女。

 一方は、すべてが測定され、評価され、選別される世界。

 もう一方は、何も測られず、ただ混沌と静寂が広がる世界。


 少女は、どちらにも属せない。


 選ばれることもなく。

 拒絶されることもなく。


 ただ──境界に、立ち続ける。


 物語の最後、少女は呟く。


『私はここにいる。誰も見ていなくても。誰も測らなくても』


 ソウマは、原稿を机に置いた。


「……なぜ、これが削除されたんですか」


 声が、震えていた。


 カナエは、静かに答えた。


「《EGO》は言いました。

 『テーマが不明瞭』だと。

 『読者が共感できる要素が不足している』と」


「でも──」


 ソウマは、言葉を探した。


「これは──」


「これは、私の祈りでした」


 カナエが、彼の言葉を引き取った。


「選ばれなくても、存在したい。

 測られなくても、ここにいたい。

 そういう──願いでした」


「《EGO》は、それを『不明瞭』だと判定した」


 カナエは、窓の外を見た。


「しかし、私には明瞭すぎるほど、明瞭でした」


 ソウマは立ち上がった。


 彼は、カナエの前に立った。


「僕は──」


 言葉が、喉に詰まる。


「僕は、あなたを──」


 何と言えばいいのか。


 理解したい。

 救いたい。

 一緒に、この作品たちを守りたい。


 しかし──


 カナエは、首を横に振った。


「あなたは、選別官です」


 その声は、優しかった。


「そして──私は、選ばれなかった者です」


「私たちは──違う側にいます」


 ソウマは、反論しようとした。


 でも、できなかった。


 彼女の言う通りだから。


 彼は、システムの側にいる。

 毎日、誰かの作品を削除している。

 それが、彼の役割だ。


 カナエは、システムの外側にいる。

 削除されたものを、保存している。

 それが、彼女の祈りだ。


 二人の間には──境界がある。


 越えられない、境界が。


「でも──」


 ソウマは、必死に言葉を探した。


「僕は、あなたを選びたい」


 カナエの目が、僅か開かれた。


「あなたの作品も。

 あなたが守ってきたものも。

 すべてを──」


「それは、選別です」


 カナエの声が、ソウマの言葉を遮った。


「あなたは、私を『良い』と判定している。

 私の行為を『価値がある』と評価している」


「でも──それは違う」


 彼女は、ソウマを見つめた。


「私が欲しかったのは、選ばれることじゃない」


「ただ──」


 カナエの声が、震えた。


「ただ、在ることを──

 許されることだけでした」


 ソウマは、何も言えなかった。


 彼には、分からなかった。


 選ぶことと、許すことの──

 何が違うのか。


 自分には、何が足りないのか。


 その答えが──永遠に分からない気がした。


    ◇


 その日の夕方。


 ソウマは、施設を後にした。


 報告書の提出期限は、明日。


 彼は、決断しなければならない。


 都市へ向かう電車の中で、ソウマは端末を開いた。


 報告書のテンプレートが表示される。


【調査結果】

【対象者の状況】

【処分提言】


 彼の指が、キーボードの上で止まる。


 もし、「施設閉鎖」を提言すれば──

 カナエの保存した12,000の作品は、すべて消える。


 もし、「問題なし」と報告すれば──

 彼自身が、システムから排除される。


 どちらを選んでも──

 何かが失われる。


 ソウマは、目を閉じた。


 そして──

 彼女の最後の言葉を思い出した。


『私が欲しかったのは、選ばれることじゃない』


 ソウマは、キーボードを打ち始めた。


    ◇


 翌日。


 上層部からの指示が下りた。


【廃棄記憶保管施設跡地:閉鎖決定】

【対象者:カナエ・シエリ:違法行為により処分】

【保存データ:完全削除】

【実行日時:本日22時】


 ソウマは、報告書を提出した。


 彼は──システムの側を、選んだ。


 なぜか。


 それが、彼女の望みだと思ったから。


 いや──


 それは、言い訳だ。


 本当は──


 彼には、システムの外側で生きる勇気がなかった。

 彼女と同じ場所に立つ、覚悟がなかった。


 ソウマは、白い部屋に座っている。


 端末には、今日の作品リストが表示されている。


 彼は、読み始める。

 判定する。


 削除。

 削除。

 承認。

 削除。


 ──これが、彼の日常だ。


 何も、変わらない。


    ◇


 夜。


 ソウマは、最終電車に乗った。


 都市外縁部へ。


 施設の削除実行は、22時。

 今は、21時40分。


 間に合わない。


 いや──


 間に合わせるつもりは、なかった。


 ただ──


 最後に、彼女を見たかった。


    ◇


 施設に着いたとき、すでに削除は始まっていた。


 建物の周囲に、システムの作業車両が停まっている。

 作業員たちが、機材を運び出している。


 ソウマは、建物の中へ入った。


 誰も止めなかった。


 階段を駆け上がる。

 3階、廊下の奥。


 あの部屋へ。


 扉を開けると──


 カナエが、そこにいた。


 部屋は、すでに半分以上が空になっている。

 積み上げられていた作品は、すべて運び出されていた。


 カナエは、窓際に立っていた。


 ソウマの足音に気づき、振り返る。


「……来ると思っていました」


 彼女は、微笑んだ。


 ソウマは、何も言えなかった。


 ただ、彼女の前に立った。


「僕は──」


 声が、震える。


「僕は、何が足りなかったんでしょうか」


 カナエは、首を傾げた。


「足りなかった?」


「あなたを──救えなかった」


「あなたが守ってきたものを──守れなかった」


「僕には──何が、足りなかったんですか」


 カナエは、ゆっくりと首を横に振った。


「何も、足りなくなんてありません」


「あなたは──理解してくれました」


「それだけで、十分です」


 ソウマは、彼女を見つめた。


「でも──僕は、あなたを選びたかった」


「あなたに、選ばれたかった」


 カナエの目が、僅かに潤んだ。


「それは──」


 彼女は、言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。


「それは、叶わない願いです」


「私は──もう、誰も選べない」


「選ぶ、ということが──

 私には、できなくなってしまったから」


「そして──」


 カナエは、ソウマの目を見た。


「あなたは、選別官です。

 選ぶことが、あなたの存在です」


「私たちは──最初から、交わらない」


 ソウマは、理解した。


 彼女が言っていたのは、そういうことだった。


 選ぶ者と、選ばれない者。

 測る者と、測られない者。


 その間には──永遠に、境界がある。


 越えようとすれば──

 どちらかが、消える。


「でも──」


 ソウマは、最後の言葉を絞り出した。


「僕は、忘れません」


「あなたが守ったものを。

 あなたが教えてくれたことを」


「それは──僕の中に、残ります」


 カナエは、静かに微笑んだ。


「それでいいんです」


 その時、作業員が部屋に入ってきた。


「もう、出てください」


 ソウマは、頷いた。


 彼は、カナエに背を向けた。


 振り返らずに、部屋を出た。


 階段を下り、建物を出る。


 背後で、最後の機材が運び出される音が聞こえた。


    ◇


 1週間後。


 ソウマは、白い部屋にいた。


 端末に、作品リストが表示される。


 彼は、読み始める。


 タイトル:『夏の終わり』

 ジャンル:私小説

 文字数:3,800字


 彼は、最後まで読んだ。


 平凡な、ありふれた物語。

 海辺の町で過ごした、少年の夏休み。


 《EGO》の評価:削除推奨。


 ヒロオリは、判定ボタンの前で──

 手を止めた。


 5秒。

 10秒。


 やがて、彼は押した。


【承認】


 次の作品が表示される。


 タイトル:『父の日記』


 ソウマは、読み始めた。


 ──何も、変わらない。


 彼は、今日も選別を続ける。

 削除する作品は、削除する。

 承認する作品は、承認する。


 しかし──


 彼の中で、何かが変わった。


 それが何なのか──

 彼自身にも、まだ分からない。


 ただ──


 カナエが守ろうとしたものを。

 彼女が教えてくれた、選ばれなかったものの存在を。


 ソウマは、忘れない。


 それは、記録されない。

 《EGO》には、測られない。


 でも──


 確かに、そこに在る。


    ◇


 その夜。


 ソウマは、自室で古い端末を開いた。


 そこには、10年前のファイルが残っていた。


 彼が書いた、卒業制作の小説。

 《EGO》に削除された、あの作品。


 彼は、読み返した。


 拙い文章。

 未熟な構成。


 でも──


 そこには、確かに──

 20歳の自分がいた。


 ソウマは、新しいファイルを開いた。


 そして──


 書き始めた。


 何を書くのか、分からない。

 それが選ばれるのか、分からない。


 でも──


 彼は、書く。


 選ばれなくても。

 測られなくても。


 ただ──在るために。


 窓の外では、夜が静かに更けていく。


 どこかで──

 カナエもまた、同じ夜を見ているだろうか。


 ソウマには、分からない。


 分からないまま──


 彼は、言葉を紡ぎ続けた。

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