プロレスラー なるべきじゃなかった男の物語
疾風の刃
リングに降る雨
照明が滲んでいた。
麻布歩武(あざぶ・あゆむ)、五十六歳。
無名のマスクマン〈インディ・キッド〉。
老いた肉体に絆創膏とテーピングを貼りながら、今日もリングに立っている。
観客は数十人。拍手は湿っていて、誰も彼の名前を叫ばない。
――今日は、旗田啓(はただ・けい)の命日だ。
◇
旗田は大手団体の若手スターだった。
甘い顔立ちに優しい声、暴力が嫌いで、どこまでも真っすぐな男。
芸能事務所のスカウトも来ていた。
プロレスなんてやらなければ、死ぬこともなかった。
――にもかかわらず、リングに上げたのは俺だ。
十年前、体育館の隅で声をかけた。
「おい、坊主。体、いいな。やってみねぇか、プロレス。」
旗田は笑って答えた。
「いいっすよ。面白そうだし。」
軽いノリ。それだけだった。
その一言が、人生を終わらせた。
◇
後楽園ホール。
メインイベント。
技を受け損ね、旗田は首を折った。
観客の歓声が悲鳴に変わるまで、ほんの数秒。
セコンド席で見ていた俺は、ただ立ち尽くした。
動けなかった。
叫べなかった。
息をすることさえ、裏切りのように感じた。
それ以来、墓にも行っていない。
一周忌にも顔を出せなかった。
ファンから罵声を浴びるたびに、胸の奥が安堵した。
罰がほしかった。
◇
今日がデビュー戦の相手がロープを走る。
俺は避けずに受ける。
痛みがキャンバスに響く。
だが、リングに残るのは痛みだけじゃない。
血と汗と、狂った美しさだ。
旗田の笑顔が頭をよぎる。
練習の夜、旗田はよく言っていた。
「師匠、プロレスってドラマですよね。でも、ドラマなのに痛い。」
「痛いから本物なんだよ。」
そう答えた自分の声が、今は呪いのように耳に残る。
◇
試合の途中、俺はふと笑っていた。
観客には見えない。マスクの下の、醜い笑い。
旗田、お前はプロレスラーになるべきじゃなかった。
この世界で咲くべき華じゃなかった。
なのに俺は、お前を羨ましくてたまらない。
リングで死ぬ――それはレスラーの究極の夢だ。
……最低だ、俺は。
あの日、お前が死んで、俺は生きた。
それが悔しくて、どこか嬉しかった。
お前はリングで神になった。
俺はただ、そこに届かない凡人のままだ。
◇
試合が終わる。勝敗なんてどうでもいい。
マットに寝転び、照明の光を見上げる。
白い光が滲んで、まるで雨のようだった。
誰かが拍手した。
罵声かもしれない。
それでも、音があるうちは、生きていられる。
麻布歩武は、笑いながら呟いた。
「……プロレスは、狂ってるな。」
マットに落ちた汗が、静かに滲んでいった。
それは涙ではなく、血でもなく――
リングという墓標に降る、雨だった。
そして、マスクの奥で小さく呟く。
「旗田……お前は、そっちでもスターなのか? 羨ましいな。」
プロレスラー なるべきじゃなかった男の物語 疾風の刃 @Ninjayauba
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます