プロレスラー なるべきじゃなかった男の物語

疾風の刃

リングに降る雨



照明が滲んでいた。

麻布歩武(あざぶ・あゆむ)、五十六歳。

無名のマスクマン〈インディ・キッド〉。

老いた肉体に絆創膏とテーピングを貼りながら、今日もリングに立っている。

観客は数十人。拍手は湿っていて、誰も彼の名前を叫ばない。


――今日は、旗田啓(はただ・けい)の命日だ。



旗田は大手団体の若手スターだった。

甘い顔立ちに優しい声、暴力が嫌いで、どこまでも真っすぐな男。

芸能事務所のスカウトも来ていた。

プロレスなんてやらなければ、死ぬこともなかった。

――にもかかわらず、リングに上げたのは俺だ。


十年前、体育館の隅で声をかけた。

「おい、坊主。体、いいな。やってみねぇか、プロレス。」

旗田は笑って答えた。

「いいっすよ。面白そうだし。」


軽いノリ。それだけだった。

その一言が、人生を終わらせた。



後楽園ホール。

メインイベント。

技を受け損ね、旗田は首を折った。

観客の歓声が悲鳴に変わるまで、ほんの数秒。

セコンド席で見ていた俺は、ただ立ち尽くした。

動けなかった。

叫べなかった。

息をすることさえ、裏切りのように感じた。


それ以来、墓にも行っていない。

一周忌にも顔を出せなかった。

ファンから罵声を浴びるたびに、胸の奥が安堵した。

罰がほしかった。



今日がデビュー戦の相手がロープを走る。

俺は避けずに受ける。

痛みがキャンバスに響く。

だが、リングに残るのは痛みだけじゃない。

血と汗と、狂った美しさだ。


旗田の笑顔が頭をよぎる。

練習の夜、旗田はよく言っていた。

「師匠、プロレスってドラマですよね。でも、ドラマなのに痛い。」

「痛いから本物なんだよ。」

そう答えた自分の声が、今は呪いのように耳に残る。



試合の途中、俺はふと笑っていた。

観客には見えない。マスクの下の、醜い笑い。


旗田、お前はプロレスラーになるべきじゃなかった。

この世界で咲くべき華じゃなかった。

なのに俺は、お前を羨ましくてたまらない。

リングで死ぬ――それはレスラーの究極の夢だ。

……最低だ、俺は。


あの日、お前が死んで、俺は生きた。

それが悔しくて、どこか嬉しかった。

お前はリングで神になった。

俺はただ、そこに届かない凡人のままだ。



試合が終わる。勝敗なんてどうでもいい。

マットに寝転び、照明の光を見上げる。

白い光が滲んで、まるで雨のようだった。


誰かが拍手した。

罵声かもしれない。

それでも、音があるうちは、生きていられる。


麻布歩武は、笑いながら呟いた。


「……プロレスは、狂ってるな。」


マットに落ちた汗が、静かに滲んでいった。

それは涙ではなく、血でもなく――

リングという墓標に降る、雨だった。


そして、マスクの奥で小さく呟く。


「旗田……お前は、そっちでもスターなのか? 羨ましいな。」

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プロレスラー なるべきじゃなかった男の物語 疾風の刃 @Ninjayauba

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