夢魔の檻

@Piyokoma_piyopiyo

夢魔の檻 (読切短編)

​序章:仮面と傷


​時代は、古き因習と新しい文明が泥濘のように混ざり合う、大正の黄昏時。帝都の裏通り、煤と古びた油の匂いがこもる二階家にて、女──高畠華純たかはたかすみは、薄闇の中で絵筆を握っていた。

​ 彼女は世間には「竹久 星彩たけひさ せいさい」という、夭折を惜しまれる美青年を模した名で知られる売れっ子挿絵画家。女が表舞台で自己を表現するには、あまりにも時代は狭隘であった。男の仮面を被るその日々は、華純にとって、自らの魂を深く覆い隠す、惨憺たる偽装であった。

​その偽装の奥底には、癒えることのない「傷」が、脈打つように疼きそれはまるで一種の殉教者のそれであった。


​ ​華純が、華族や富豪の子女が多く通う女学校に入学したのは、その後の人生を決定づける、運命の蹉跌であった。そこで出会ったのが、すべてにおいて完璧な令嬢、紗緒さおであった。

紗緒は、美術の授業中、華純の描いたデッサンを、他の生徒とは違う、探るような、冷たい輝きを湛えた眼差しでじっと見つめていた。

​「あなたの絵は、魂の奥底の、病んだ色が見えますのね」

​そう囁いた紗緒の声は、華純の心の最も脆い部分を、一瞬で突き破った。華純は、美と知性に恵まれた紗緒を、神聖な崇拝の対象として見つめた。そして、紗緒もまた、華純の内に秘められた、芸術的な狂気と、孤独な情熱に、強烈な関心を抱いた。

女学校という、厳格な規律と、外部から遮断された薄紅の繭のような環境は、しばしば、少女たちの純粋で、しかし抑圧された感情を、倒錯的な形で発酵させた。それは、世間で囁かれ始めていた「エス(S)」と呼ばれる、特殊な愛の形態であった。姉妹の契りを結んだ少女同士が、極めて私的な空間で、互いに甘く、ねっとりとした精神的な崇拝と、肉体的な密着を交換し合う、秘密の儀式。

​ それは、純潔を重んじる時代の裏側で、少女たちの内臓を締め付けるような渇望が、形を変えて現れた、病的な美しさであった。紗緒と華純の間で交わされたそれは、単なる友情の域を遥かに超え、ほとんど宗教的な狂気にも似た愛の交歓があった。華純は、紗緒の奴隷であり、紗緒は華純の偶像で。二人は、その関係の中で、罪の匂いを嗅ぎ合い、互いの魂の最も暗い、淫靡な真実を、覗き込んで悦に入ったのである。

​ 二人は、誰にも知られぬ、密やかな「姉妹の契り」を結んだ。夕暮れ時、誰もいない図書室の隅や、校舎裏の古びた物置で、確かに二人は肌を寄せ合ったのだ。

​それは、華純にとって、生きていく上での、唯一の救いであり、また、背徳の甘美な蜜月であり甘露であった。

​ ある日、人気の無い音楽室で、紗緒は華純の手を取り、その掌を、自分の白く、なめらかな首筋に当てさせた。紗緒の息遣いは乱れ、華純の指先が首筋の脈打つ場所に触れると、紗緒は静かに目を閉じた。

​「華純さん……目を閉じて」

​華純は、紗緒の命令に従い、震える瞼を閉じた。そして、紗緒の顔が近づくのを感じた。紗緒は、華純の濡れたばかりの眼球の上に、自分の湿った、熱い吐息を注ぎかけた。そして、華純の熱を持った瞼の上に、甘く、粘着質な、紗緒自身の皮膚を、しばらくの間、押しつけた。

​それは、誓いの印であり、魂の交換であり、二人の間に交わされた、誰にも言えぬ、小さな秘密であった。その濃厚で、一瞬で終わる触れ合いは、華純の精神を、深く、そして永遠に紗緒に結びつけたしかし、紗緒が名家への婚約と共に、その関係を鋏で切り裂くかのように断ったとき、華純の心は、生きたまま剥がされる皮膚のように裂け、血を流した。

​「あなたと私の戯れは、所詮、この学院の薄紅の繭の中の夢でしかないわ」

​紗緒の冷徹な一瞥は、華純の情熱を、毒のように凍らせた。勘当同然で家を飛び出した華純の生活は、この「傷」を糊口の糧にする、自虐的な芸術行為に他ならなかった。彼女が「星彩」として描くすべての乙女は、紗緒の残像であり、華純自身の歪んだ欲望の投影でもあった。


​第二章:白檀と蝶の誘惑

​​星彩の名が、少女たちの退廃的な夢を彩り始めた頃。華純の許に、一通の奇怪な書簡が届いた。差出人は不明。しかし、封を開けると、馥郁たる白檀の香りが、澱んだ室内の空気を一瞬にして清めた。それは、清浄と退廃が混じり合ったような、蠱惑的な芳香であった。

​文面に、華純の指が触れる。その筆跡は、流れるように美しく、まるで良家の令嬢の手習いのようでありながら、そこに綴られた内容は、華純の背筋を冷たい水が這うような、戦慄すべき真実を秘めていた。

​《竹久星彩さま。》

​《ワタクシは貴方の描かれる絵に、魂を抜き取られるような戦慄を覚えます。貴方の描かれる少女は、その唇に紅を差し、髪に黒い光を湛えて居りながら、その眼差しだけは、いつも、何かを犯した後のような、微かな諦念と、背徳の愉悦を隠して居りますね。》

​《それは単なる「美しさ」では御座いません。その絵の表面は、清らかな乙女の肌のようでありながら、その裏側には、夜の闇の中で、他者の指に弄ばれた後のような、生々しい、秘密めいた匂いが漂って居ります。》

​《ワタクシが惹かれるのは、まさに、その病的な腐臭です。それは、誰もが見て見ぬ振りをする、女の魂の最も奥深き、暗い、泥濘のような愛欲。貴方の筆は、ワタクシのうちに潜む、決して表に出せぬ、淫靡なまでの渇望を、そのまま抉り出して居られます。》

​《ワタクシのこの熱情は、貴方の「芸術」に対するものか、それとも、貴方自身に対するものか……。ワタクシにも、まだ判然としません。ただ一つ言えるのは、ワタクシと貴方は、この世のすべての「清い」ものから隠れた、共犯者であるということです。》

​《貴方の、その秘密めいた嗜好に、ただならぬ共感を覚えます。どうか、ワタクシの魂の叫びを、絵筆に乗せて続けてくださいまし。》

​手紙の末尾には、丁寧に墨で描かれた、羽ばたく「蝶」の紋様。その筆の勢いは、まるで、今にも紙面から飛び立ち、華純の胸元に突き刺さろうとするかのようであった。

​この手紙は、華純の孤独な魂を、一瞬で捉えた。誰も理解しなかったはずの、自らの絵に潜む「裏側の真実」を、この「蝶」は見抜いたのだ。それは、恐怖であると同時に、抗いがたい快楽的な誘惑であった。


​ ​最初の手紙を受け取ってから、華純の生活は、まるで幻覚的な色彩に包まれたように感じられた。白檀の香りと、紙面に踊る「蝶」の紋様は、華純の孤独な心に、甘く、そして病的な熱情を注ぎ込んだのだ。

​華純は、誰とも知らぬ「蝶」の主を、自分の魂の秘密を共有する、唯一の恋人だと錯覚し始めた。夜な夜な、二階の薄暗い画室に籠ると、彼女はキャンバスを、秘密を共有する肌のように扱った。

​絵筆を執る指先は、まるで恋に浮かされた少女のように震え、すべての線は、あの甘美で、背徳的な書簡へと捧げられる儀式のようである。それは、もはや「描く」という行為ではなく、自己の深奥に眠る愛欲を、筆を通じて、粘着質に、ねっとりと、紙に擦り付ける、自虐的な愛撫にも似ていた。

​華純は、筆先を、女の肉体の最も淫靡な曲線、背中や股関節の影に這わせるたびに、苦悶にも似た、恍惚の吐息を漏らした。細い首筋を描くときには、無意識に自分の喉元を掴み、窒息しそうな快楽に身を捩った。キャンバスに顔料が染み込んでいく様は、まるで血肉を貪る儀式のようで、華純の白い頬には、陶酔と羞恥がないまぜになった、微かな朱が差した。筆を握る手の痙攣は、彼女の腰つきにまで伝わり、身体全体で「蝶」への熱狂的な応答を示した。この、内臓が締め付けられるような熱情こそが、彼女の飢えた魂を、唯一満たすものだった。

​彼女が描く少女像は、この時期を境に、知らぬ間にどろりとした変質を遂げていった。

​それまでの「竹久星彩」の描く乙女たちは、憂いを帯びてはいても、あくまで清らかで爽やかな、手の届かぬ愛らしさを保っていた。しかし、「蝶」からの手紙が続き出すと、華純の筆は、無意識のうちに「蝶」の姿を夢想するようになったのだ。

​描かれた少女は、依然として和服を纏ってはいるが、その袖口から覗く指先は、甘く、淫美な痙攣を覚えさせるかのように微かに曲がり、瞳の奥には、貞淑な淑女が決して見せない、秘めたる官能の影が宿るようになった。口元は微かに微笑んでいるが、それは清純な微笑ではなく、まるで夜の帳の中で、他者の指に弄ばれた秘密を知っているかのような、妖しい薄笑いであった。

​華純自身は、この劇的な作風の変質に、全く気づかなかった。彼女の熱情は、ただ「蝶」への想いと、その想いを受け止め表現することだけに集中していたからだ。

​この変貌した作風の挿絵を掲載した雑誌は、世間で大評判となった。

​担当の編集者からはすぐに、興奮した連絡が入った。

​「星彩君! 大当たりだ! 今回の『花影の君』の挿絵は、これまでの清らかな美しさに加えて、どこか妖しく、魂を引っ掻くような「色香」が加わった! 読者からの反響が凄まじい。『星彩君は、ついに女の奥底の闇まで描き切った!』と、皆、熱狂しているよ!」

​編集者の言葉は、華純の耳には、そのまま「蝶」からの究極の賛辞として響いていた。華純は、自分が正しい道を進んでいるのだと確信し、さらに熱狂的に、あの白檀の香りを纏った幻想の「恋人」を描き続けた。

​しかし、その先に待ち受けていたのは、甘い夢ではなく、地獄の断崖であった。


​第三章:夢魔の囁き

しこうして、ある梅雨の蒸し暑い夜。その蜜月は、毒のように、一瞬で変質した。

​いつものように届いた手紙。華純は、いつものように白檀の香りを期待して封を開けたが、代わりに華純を襲ったのは、カビのような、湿った、嫌な匂いであった。いや、香り自体はいつもと変わらない馥郁たる白檀、だが華純にはとてもとても嫌な匂いに感じられたのだ。

​ 筆跡は、いつもの流麗な女文字。だが、紙面から放たれる気迫が、尋常ではない。華純は、背中に冷たい汗を感じながら、その文面を追った。

​《竹久星彩さま。貴方の最新の御作品、『夜の羽衣』、拝見いたしました。》

​《ああ、この絵こそ、貴方の魂の極致で御座いましょう。女の肉体の線は、まるで夜露に濡れた絹のように、艶めかしく、それでいてどこか冷たい。この世の男たちが決して覗き得ぬ、女たちの密やかな寝床の吐息が、紙の裏側から聞こえてくるようです。ワタクシは、貴方の筆によって、ワタシ自身の、最も奥深い愛欲の迷宮へと、導かれる幸福を覚えました。》

​《しかし、星彩さま。この筆を執る今が、ワタクシと貴方の、この夢魔めいた交信の、終幕で御座います。》

​《ワタシはこれから、この帝都の、雑踏の中へと消え去ります。貴方の絵筆が、これからも、この世の「美」という仮面の裏に隠された「醜い真実」を描き続けることを、陰ながら願って居ります。さようなら。さようならこの蜜月、誠に感謝いたして居ります。》

​それは、長々とした、丁重な訣別の挨拶であった。華純の胸は、この唐突な終わりに、張り裂けそうなほどの悲嘆に満たされた。何故、なぜ?

​だが、手紙は、そこで終わっていなかった。

​最後に、一呼吸置いたかのように、冷徹な、そして、猟奇的なまでの戦慄を宿した一文が、ただ墨で記されていた。白檀の香りはなく、代わりに、煤のような、苦い匂いが残った。

《ワタクシは貴方の秘密を存じ上げて居ます。》


​末尾の「蝶」は、最早、甘美な紋様ではなく、華純の魂に突き立てられた、猟奇的な針のように見えた。その一文は、具体性に欠けるがゆえに、華純の心の臓を掴み、捻り潰した。すべてが露見したのだ、と。この世のすべての「清い」ものから、自分が永久に追放されるのだという、究極の恐怖が、華純の全身を支配した。

​この手紙を最後に、蜜月はふつりと途絶えた。

​「蝶! おまえは……! 私を……ッ」

​背筋に這い上るような、言いようのない怪奇な恐怖。裏切りと、そして、自分のすべてを支配されつつある戦慄。その極限状態の中で、華純は、衝動的に、大きな紙を広げた。

​絵筆が、狂ったように走り出す。描くは、女。

​それは、紗緒の面影であり、「蝶」の想像図であり、そして、華純自身の病んだ、執拗な愛欲の権化であった。幾枚も、幾枚も。女、女、女。清純な乙女の顔の下に、淫靡に微笑む魂を隠した女たち。あるいは少女、あるいは花嫁、貞淑な妻、そして、どこか妖しい未亡人、母であり娘であり――。何枚も何枚も、華純の夢が、絵の具と共に紙に吸い込まれていった。

​そして、最後に完成した、一枚の絵。



​終章:血塗られた夢路


​『夢魔の檻』。

​ 画面いっぱいの女は、華純の筆致の中で、極限の美と、極限の背徳を同時に体現していた。その女の瞳は、すべてを知り尽くしたかのように虚ろでありながら、華純の魂の底の「秘密」を、嘲笑うように覗き込んでいた。その衣装は、純白でありながら、どこか血の匂いを思わせる、粘つくような湿り気を帯びていた。

​華純は、その絵を完成させた瞬間、長年の「竹久星彩」という偽名を捨て、本名「高畠華純」として、自らのすべての秘密を白日の下に晒した。

​世間は、この美しき女流画家による、背徳の告白に、熱狂した。

​『夢魔の檻』は、その年の絵画展で特賞。画壇の常識を打ち破る、異端の登場であった。

​記念の式典。無数の光が飛び交う中、華純は、まるで蝋人形のような、完璧な微笑を浮かべていたがその目はどこか虚ろであった。群衆の中に、微かに白檀の香りを纏った、一人の女の姿があったような、気がした。

​低俗な記者の一人が、興奮気味に問いかけた。

​「高畠画伯! この、猟奇的なまでに蠱惑的な女性のモデルは、一体、いかなるお方で?」

​華純の胡乱な瞳は一瞬の精彩を放つ。まるでその問いかけを待っていたかのように、静かに、しかし、魂の奥底の執着を吐き出すかのような声で答えた。

​「あれは……わたくしの、わたくしの、お姉さま。

愛してやまない、すべての女性。」

​「お姉さま」の響きは、華純が心の中で永遠に愛し、求めた、女性という、甘く、恐ろしい具現であった。

それ以降華純は一言も発することはなく。その瞳は何かを探るような仕草をしたかと思えば、虚空をただただ見つめ静かに微笑んでいた。


​ その日、式典が終わり、華純が帰宅した後、誰もその姿を見た者はいなかった。

翌朝、彼女が絵筆を執っていた二階家の窓は、朝焼けの光の中で、微かに開け放たれ、机の上には、特賞の報を伝える新聞紙が広げられたまま。そして、その隅に、白檀の香りを微かに残す、一枚の羽ばたく「蝶」の紋様が、墨で書き殴られていた。


​胡蝶の夢は、現実の闇の中で、永遠の夢となったのである。


-了-

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