初夏の秘密

桐麻

初夏の秘密

 太陽の光が網戸をすり抜け、部屋に差し込む。制服に袖を通し、私は家を飛び出した。六月になり衣替えしたばかりで、夏服ではまだ朝は肌寒いはずだというのに、既にもう夏の気配が漂っている。最寄りの駅までは、湿った風が路地を抜ける道を歩いていく。


 今日も、少しだけ早起きした。電車が来るまでホームで待つのが好きになり、そうするようになってしばらく経った。


 初めて、少しだけ早起きすると思い立った日、少しだけ世界の彩りが変わったのだ。


 海沿いを走るローカル線は、時間帯によっては乗客もまばらだ。ホームに滑り込んできた二両編成の電車に乗り込むと、私はいつものように先頭車両へ向かった。


 車両の中央にある吊り革を掴み、ふうと息をつく。

 すでに車内は少し蒸し暑い。窓の外に目をやると、抜けるような鮮やかな青空が広がっていた。線路のすぐ脇には、きらきらと光る海が広がっている。


 座席は空いているが、こうして立っているのには幾つか理由がある。開いた上げ下げ窓から受ける風が心地よかったし、少しでも運動量を増すことで足が引き締まるかな、なんて考えたり。また、時には途中で混むこともある。週に何度か見かける、恐らく早出の通勤者や定期通院のお年寄り。だんだんと馴染んでいく顔。そんな時に、一々立って譲り、その乗客が先に下りれば、また座って――そう繰り返すのが煩わしくなったこともあった。


 ふと、車両の先頭側の隅に目をやった。

 馴染んでいく顔の一つ。


 そこに立っていたのは、私と同じ学校の制服を着た男子高校生だった。彼は乗務員室側の壁に背を預け、腕を組んで窓にもたれかかり、顔を傾けてじっと外を眺めている。彼の横顔は、まぶしい光に照らされ、少しだけ影が落ちていた。


 私は、彼が気になっている。初めて少しだけ早起きした日から、ずっと。


 話したことはないけれど、彼の姿を見かけるたびに、私の鼓動は少しだけ速くなる。

 それはただ心が弾むのとは違った。以前なら眠気が残り気怠い朝の時間だったはずだ。だからか、胸がざわつくことがなんとなく居心地が悪くもあって。電車の揺れとは無関係に、足元が不安定な場所に迷い込んでしまったみたいだ。


 私はまた、ちらりと彼の方を見た。彼は相変わらず窓の外の海を眺めていて、こちらに気づく様子はない。いつも白いイヤホンをしていて、何かに聞き入っているようだった。それは音楽かもしれないし、勉強のためかもしれない。


 車内には、レールを鳴らす音や波の音にも聞こえるノイズ。彼の髪と、白いイヤホンケーブルが、窓から吹き込む風に、ふわりと揺れた。


 電車が次の駅に滑り込む。ドアが開くと、何人かの乗客が乗り込んできた。車内はそこそこ混みあい、彼を視界から隠してしまう。それでも、彼の存在を意識せずにはいられなかった。


 今日も姿を見れた。

 それだけで満足で、私の心は、窓の外の青空のように輝き始める。



 ◇



 暑さの増した朝、その日は少し違っていた。

 横目に彼を伺い見るたびに、気持ちが波立つ。この不安定な朝こそが、当たり前になりつつあった。

 なぜだろう、私はそんないつもの日々から抜け出したくなっていたのだ。


 彼を横目に見た一瞬に、太陽が胸の奥を照り付けるようにじりじりと焼いた。

 風で零れた髪が顔に張り付くような気がして、指で何度も払う。

 きっとこれは蒸し暑さのせい――そんな風に思い込もうとしたけれど、息が詰まるようで、耐え難かった。


 彼から目を背けても、窓の外にあるのは、同じくらい強い煌めき。

 その目が眩むような青が、ゆっくりと目の前で止まる。

 ふいに、私は、考えるよりも速く後部ドアから飛び降りていた。


 背後で、重い音が遠ざかっていく。


 白い駅名標の向こうには、そう広くはないけれど海と砂浜が見渡せるホームに、足をおろしていた。


「わぁ、やっちゃった」


 両腕を広げて伸びをする。


「さぼり?」


 思いがけずかけられた声に、飛び上がった。

 驚きで左手を向いたまま、体が固まる。


 イヤホンを片側だけ外している、彼だ。


「なんで」


 心臓が止まるかと思った胸を押さえ、どうにか言葉を絞り出した。


「急に降りるから」


 それは、私が降りるのを見て、先頭側のドアから降りてきたということだ。彼の言葉には多くの意味が込められていた。彼の目も、私を追っていた。そう理解すると、頬が熱くなってくる。


「えっ! いや、その急用でっ?」


 明らかにまずいところを見られたといった態度が隠せず、なぜか言い訳のような言葉を連ねてしまい、ますます顔が熱くなってしどろもどろになってしまう。


「なにもない場所に?」


 彼は海を見た。

 つられて、私もそちらを向く。


 二人は、距離を離したまま、沈黙がおり、立ち尽くす。照りつけるような青に呑まれていくようだった。

 特に何もない平穏な日々の、その一日に過ぎないはずだった。それでも、積もるものはあったのだろうか。蓄積した疲労が溶け出していくようで、強張った精神は、泡のようにほどけて消えていく。


「あーあ、次は一時間後だ」


 彼の別段残念がってもいない声音。そこで我に返った。

 自分が遅刻するだけのはずだった。

 どう考えても私のせいだと思うと、申し訳なくなってくる。


「あの、ごめん?」


 彼は小さく噴き出すと、顔をあげ、私に手を差し出した。


「暇だし、見に行こう」


 砂浜へ降りる階段へと視線を向ける。

 無意識に、本当にまるで何も考えることなく、手を差し伸べていた。

 彼の指先に触れる。気温とは別の温かさが肌に絡んだ。そのまま手を繋ぐと歩き出していた。


 そして、あの溺れそうだった胸苦しさが嘘のように消えて、ようやくほっと息がつけたような気がした。


 さくさくとした砂の感触。寄せては引く波と乾いた砂の狭間を歩きながら、たわいもない話と笑い声が、さざ波に混ざり合った。


 私たちの小さな、初夏の秘密。

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