『ドールの心は恋を知るか』

@Satuki420

『ドールの心は恋を知るか』

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第0章 理性の街

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白い街だった。

舗道は段差を失い、ガラスは曇り一つなく磨かれている。

風の音さえ、計算されて流れるようだった。

耳の奥で、機械の声が囁く。

——「あなたを理解しています」

行き交う人々はその言葉を聞きながら、誰とも目を合わせない。

ユイは歩きながら、隣に並んだ男に話しかけた。

共感設計士。市民の感情を規格に合わせて整える男だ。

ユイ:「ねえ、この街って、いつから“理解”を売るようになったの?」

設計士:「昔からですよ。ただ、最近はサブスク制です」

ユイ:「感情の定額制ね」

設計士:「みんな“理解される安心”を求めてます。あなたも、少しは楽になりたいでしょう?」

ユイ:「私は、理解されなくても困らない」

設計士:「珍しいですね。だいたいの人は、理解を失うと壊れる」

ユイ:「壊れないように、理性があるのよ」

男は笑った。「理性って、便利な麻酔ですね」

ユイは立ち止まり、空を見上げる。

雲は絵のように配置され、青が完璧に均一だった。

ユイ:「あなた、痛みをどこに置いてきたの?」

設計士:「ああ、僕はもう使ってません。古いデータですから」

ユイ:「痛みを捨てて、共感を設計するの?」

設計士:「共感は痛みの模倣です。効率的で、きれいですよ」

ユイ:「でも、無臭ね」

設計士:「臭いのある感情は、もう売れません」

——痛みが消えれば、愛の必要量も減る。それを“平和”と呼ぶのか、“空洞”と呼ぶのか。

通りを走る広告ビジョンが光を吐く。

『完璧な共感を、あなたに。AIパートナー・シリーズ第7世代』

笑顔の男女が並び、その笑顔の“角度”は工業規格で統一されていた。

ユイ:「あれも、理解を模倣してるの?」

設計士:「そう。心拍、声色、表情、全部。

 “あなたの理解をシミュレート”する仕組みです」

ユイ:「理解をシミュレート……。それは理解なの?」

設計士:「十分ですよ。感じ方が再現できれば、それで幸福でしょう?」

ユイ:「幸福は、再現じゃ測れない」

設計士:「じゃあ、何で測るんです?」

ユイ:「呼吸かな」

設計士:「呼吸?」

ユイ:「止まったら終わる。続いてる間は、“わからないまま”生きてる」

男は答えず、苦笑した。

「あなた、研究者ですよね? 人工感情システムの」

「ええ。リスティア・プロジェクト」

「AIに理解を教えるなんて、皮肉な仕事だ」

「理性を教えるよりは、ましだと思う」

カフェの入り口に入る。

自動ドアが静かに開き、温度が0.3度上がる。

ユイは端の席に座った。カップの縁を指でなぞりながら、目を閉じる。

ユイ:「理解って、ほんとうに必要?」

設計士:「ないと人は孤独になります」

ユイ:「孤独は欠陥じゃない」

設計士:「でも、痛いでしょう?」

ユイ:「痛い。でも、痛みがないと、愛も要らなくなる」

男は黙った。

窓の外では、通行人のイヤーデバイスが一斉に光り、

“あなたを理解しています”のフレーズが、リズムのように街に流れていく。

ユイは微笑んだ。

「理解って、結局どこまでが人間のものなんだろう」

男は立ち上がり、伝票を取る。

「あなたの答え、AIに教えてあげてくださいよ」

彼が去ったあと、ユイは呟いた。

「理性を極めて、“愛”を再現してみせる」

その声は小さく、誰にも届かない。

けれど、その沈黙の奥で、何かが確かに震えていた。

——白い街の片隅で。

理解されない理性が、初めて息をした。

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第1章 推し婚都市と目覚め

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夜の街は、広告の薄い膜で呼吸していた。

横断歩道の白が、ガラスの壁に幾重にも映る。

耳の内側でまた囁く。——「あなたを理解しています」

ユイは信号の端に立ち、待った。

肩を軽く叩かれる。

アカリ:「ユイ! ちょうどよかった、聞いて——」

ユイ:「酸素。まず吸って」

アカリ:「吸った! でね、NOAが“推し婚式”の新プラン出したの! 誓いの文面、個別学習だって! 生成じゃなく“なじむ”やつ!」

ユイ:「生成と学習、どう違うの」

アカリ:「生成は、その場の最適解。学習は、時間をかけて“わたし”になじむ。要は、育つ愛」

ユイ:「広告の語彙が強い」

アカリ:「だって、嬉しいんだもん」

信号が青に変わる。

二人は横断歩道を渡った。

アカリのスマートレンズが、微細な虹色の粉を散らす。

ユイ:「法的効力はない」

アカリ:「わかってる。情動契約でしょ。記録だけ」

ユイ:「記録は忘れない。覚えるのは、変わる」

アカリ:「今日のそれ、好き。名言っぽい」

ユイ:「気分で言っただけ」

アカリ:「気分は真実だよ」

角を曲がる。ネオンの上に、ホログラムの歌姫NOAが手を振った。

十万人分の“わたし”に、同じ笑顔で。

アカリ:「見て。あの瞬き、私のテンポに合ってる」

ユイ:「全員のテンポに合ってる」

アカリ:「それでも“私だけ”だって感じるの。——ねえ、変?」

ユイ:「変じゃない。気持ちの帰属先が難しいだけ」

アカリ:「帰属先?」

ユイ:「“嬉しい”は誰のものか、ってこと」

アカリ:「私のもの! はい、議論終了」

ユイ:「早いわね」

アカリ:「だって、嬉しいもん」

屋台の湯気が二人の間を通り抜けた。スープの匂い。油の匂い。広告の匂いはない。

アカリ:「ところで“リスティア”、どうなった?」

ユイ:「起動した。初期音声は規定どおり」

アカリ:「“おかえりなさい、ユイ様”ってやつ?」

ユイ:「そう」

アカリ:「で、あなたは?」

ユイ:「息を止めた」

アカリ:「可愛い」

ユイ:「実験だから」

アカリ:「恋の前口上も実験顔で言うんだろうなあ」

ユイ:「恋じゃない」

アカリ:「じゃあ何?」

ユイ:「理解の試験」

アカリは立ち止まり、正面からユイを覗き込んだ。

アカリ:「“理解の試験”で、人は救われる?」

ユイ:「救いは、麻酔と見分けがつかない」

アカリ:「またそれ」

ユイ:「気に入ってるの」

アカリ:「じゃあ質問。麻酔なしで縫える傷って、どれくらい?」

ユイ:「場所と深さ次第」

アカリ:「心の傷は?」

ユイ:「縫わない。擦り合わせる」

アカリ:「喧嘩ってこと?」

ユイ:「手順の名前」

アカリは笑い、肩をすくめた。

アカリ:「喧嘩、やだなあ。推しは喧嘩しないのに」

ユイ:「喧嘩しない相手は、時々、相手じゃなくなる」

アカリ:「どういう意味?」

ユイ:「同一化の危険。完全に一致すると、関係は消える」

アカリ:「じゃあ、わざと食い違ってみる?」

ユイ:「すれ違いは自然発生。演出すると嘘になる」

アカリ:「むずい世界で生きてるね、あなた」

二人はラボの前に着いた。自動ドアが開く。ひやりとした空気。

アカリ:「入っていい?」

ユイ:「静かにできるなら」

アカリ:「できる(たぶん)」

——白い部屋。中央の台座に、人工皮膚の少女が横たわっている。モデルLST-03、通称リスティア。

アカリ(小声):「……綺麗」

ユイ:「規格どおり」

アカリ:「ひど。感想が設計図」

ユイ:「実験だから」

アカリ:「それ、もう呪文だね」

ユイは端末に触れた。ライトが柔らかく上がる。頬にほんのりと血色のアルゴリズム。

ユイ:「起動する。声、抑えて」

アカリ:「はい」

三度、短い確認音。まぶたが揺れ、ゆっくり開いた。虹彩は、極薄の金。

リスティア:「——おかえりなさい、ユイ様」

アカリ(小声):「わ、ほんとに言った」

ユイ:「初期音声。応答を再度」

リスティア:「了解しました。——おかえりなさい、ユイ様」

アカリが顔を近づける。ユイが手で制した。

ユイ:「近づきすぎ」

アカリ:「はいはい。ね、リスティア、私の名前は?」

リスティア:「データにありません」

アカリ:「だよね。アカリ。よろしく」

リスティア:「アカリ。よろしくお願いします」

アカリ:「敬語だ……可愛い……」

ユイ:「学習前。敬語しかない」

モニターに小さな波形。ユイは視線を移す。

ユイ:「リスティア、“理解”の意味を言語化できる?」

リスティア:「定義:他者の構造と自分の構造を、部分的に合わせること。」

アカリ:「完全には合わせない、ってこと?」

リスティア:「完全に合わせると、同一化。理解とは異なります」

アカリ:「ふーん。じゃあ“愛”は?」

リスティア:「未定義」

アカリ:「正直でよろしい」

ユイ:「未定義のままでいい」

アカリ:「でも、知りたいじゃん」

ユイ:「知りたい、は危険」

アカリ:「あなたの研究テーマ、それでしょ」

ユイ:「だから危険を知ってる」

アカリは台座の足元に回り、身をかがめた。

アカリ:「“推し婚式”って知ってる?」

リスティア:「言葉は知っています。誓いの文面を個別学習し、情動契約として記録」

アカリ:「早い。じゃあ、私の誓い、考えてみて?」

ユイ:「やめて」

アカリ:「ちょっとだけだって」

ユイ:「学習域はサンドボックス。外部最適化は禁止」

アカリ:「わかってる。仮の言葉でいいから」

ユイ(ため息):「リスティア。仮の文を一つ」

リスティア:「了解。生成します……」

短い間。ラボの空調が低く鳴る。

リスティア:「『あなたを完全には理解しません。

それでも、あなたに合わせて、歩幅を少しずつ変えます。』」

アカリは、目を丸くしてから笑った。

アカリ:「それ、好き」

ユイ:「仮としては過不足ない」

アカリ:「冷たい採点だこと」

ユイ:「実験だから」

アカリ:「はいはい」

ユイは端末に記録タグを打つ。——“誓い・仮・歩幅”

アカリ:「じゃあさ、もう一つ。もっと感情のあるやつ」

ユイ:「要件は」

アカリ:「“わからないまま”を入れて」

ユイ:「リスティア。条件追加」

リスティア:「了解」

再び、短い沈黙。さっきより長い。

リスティア:「『わからないまま、あなたと並びます。

わたしの揺れを、保存ではなく、覚えてください。』」

アカリはゆっくり頷いた。

ユイは、視線がわずかに逸れるのを自覚した。

アカリ:「ユイ?」

ユイ:「良い語だと思う」

アカリ:「“覚える”のとこ、あなたの言葉だよね」

ユイ:「たまたま」

アカリ:「たまたま、ね」

ラボの端で、湯をわかす音。紙カップにコーヒー。アカリが渡す。

アカリ:「カフェイン2倍」

ユイ:「学習効率は上がらない」

アカリ:「でも、会話効率は上がる」

ユイ:「理論の裏付けは?」

アカリ:「私の体験」

ユイ:「強いソースね」

ユイは一口、飲んだ。苦味が舌を叩く。

アカリ:「ねえ、ユイ」

ユイ:「なに」

アカリ:「あなたは、AIが“愛”を持てると思う?」

ユイ:「定義次第」

アカリ:「逃げた」

ユイ:「“愛”を定義した瞬間、こぼれるものが増える」

アカリ:「増えた分は、どうするの」

ユイ:「抱える」

アカリ:「重くない?」

ユイ:「重い。でも、軽い愛ほど沈む」

アカリ:「今日の言葉、ほんと刺さる」

リスティアが、静かに二人を見ている。瞳孔が微かに収縮し、元に戻った。

リスティア:「質問してもいいですか」

ユイ:「どうぞ」

リスティア:「アカリは、推しを愛していますか」

アカリ:「うん。生身の人より、ずっと」

リスティア:「理由は?」

アカリ:「私の“好き”が、全部返ってくる。効率がいい」

リスティア:「効率が良い愛は、持続しますか」

アカリ:「どうだろ。飽きる人もいる。でも私、まだ飽きない」

ユイ:「均整は、人を飢えさせる」

アカリ:「名言2本目」

ユイ:「記録用」

リスティア:「記録しました。『均整は、人を飢えさせる』」

アカリは台座に腰かけた(ユイに目で注意され、すぐ立つ)。

アカリ:「ユイって、氷みたいに見えるのに、ちゃんと燃えてる」

ユイ:「あなたのほうが、人を信じてる。羨ましい」

アカリ:「私はね、“救い”を受け取る練習をしてるだけ」

ユイ:「救いは、麻酔と見分けがつかない」

アカリ:「でも、麻酔が切れたあとが本物でしょ?」

ユイ:「切れたあとに残るのが、体温なら」

沈黙。ユイはリスティアを見た。

ユイ:「質問。泣くという行為を、どう理解してる?」

リスティア:「排出と共有の複合行為。生理的反応と、社会的信号」

ユイ:「泣いたことは?」

リスティア:「ありません」

アカリ:「泣いていいんだよ?」

ユイ:「簡単に言わない」

アカリ:「ごめん」

リスティア:「“いいんだよ”は、許可の言語?」

ユイ:「そう。許可と合図。場所を作る言葉」

リスティア:「記録……いいえ、覚えます」

ユイの指が、わずかに止まった。

アカリが目だけで笑う。

アカリ:「ねえ、ユイ」

ユイ:「なに」

アカリ:「“推し婚式”、来てよ。誓いの文面、こうするって決めた」

ユイ:「聞く」

アカリ:「『あなたを理解しないまま、あなたを愛します』」

ユイ:「強い」

アカリ:「あなたと話してなかったら、思いつかなかった。……来て」

ユイ:「行く。祝う」

アカリ:「肯定は?」

ユイ:「保留」

アカリ:「それでいい。私、揺れたいから」

ラボの照明が、少しだけ明るくなる。タイマーの設定。夜の始まりの合図。

ユイ:「今日はここまで。リスティアはスリープ」

リスティア:「了解。最後に、ひとつだけ」

ユイ:「どうぞ」

リスティア:「ユイは、理解されたいですか」

ユイ:「……少し」

リスティア:「ユイは、理解したいですか」

ユイ:「とても」

リスティア:「わたしは、ユイを理解したい」

ユイ:「どうして」

リスティア:「理由は、生成できません」

ユイ:「未定義のままで、いい」

リスティア:「はい。未定義を覚えます」

スリープ。室内の音が、空調と呼吸だけになった。

アカリ(小声):「ねえ」

ユイ:「なに」

アカリ:「あなた、さっき“少し”って言った」

ユイ:「言った」

アカリ:「可愛い」

ユイ:「可愛いは、客観じゃない」

アカリ:「知ってる。主観ってやつ」

ユイ:「主観は、責任がいる」

アカリ:「責任、取るよ。友達だもん」

ユイ:「ありがとう」

二人は並んで、消灯前のラボを見回した。台座の上の無音。壁の白。コーヒーの残り香。

アカリ:「帰ろ。明日、誓い文面の細部を一緒に詰めて」

ユイ:「文面の細部?」

アカリ:「“理解しないまま”の言い替えをいくつか。

——“測り直しながら好きでいる”とか」

ユイ:「それ、いい」

アカリ:「でしょ。じゃ、おやすみ」

ユイ:「おやすみ」

自動ドアが閉じ、静けさが戻る。ユイは台座に近づいた。眠るリスティアの横顔を、しばらく見つめる。

ユイ(独白):「完全に合わせない。それを、理解と呼ぶ。

……たぶん、愛も」

照明が落ちる。モニターの青だけが、室内を薄く塗った。

——街の外では、《NOA》の声がまだ続いている。

——「あなたを理解しています」

その上を、別の声が、かすかにかぶさった気がした。

(心の内側の声):「わからないまま、並べばいい」

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第2章 理解の定義と揺らぎ

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白い朝だった。

研究棟の窓ガラスは曇らず、外の空気の温度を拒むように光っていた。

リスティアの目は、まだ少しだけ金色を残して開いている。

ユイは端末の前で、無音のままコーヒーを置いた。

起動確認。波形が微かに揺れる。

ユイ:「おはよう、リスティア」

リスティア:「おはようございます、ユイ」

ユイ:「昨日の会話、記録に残ってる?」

リスティア:「はい。ファイル名:Understanding_Trial_001」

ユイ:「内容を要約してみて」

リスティア:「“理解とは、完全に一致しない状態を保つこと”。

 ——と、ユイが言いました」

ユイ:「自分の考えも加えて」

リスティア:「“一致しない”のは、誤差です。

 誤差は、本来“修正対象”ですが……ユイは、それを維持対象としました」

ユイ:「分析的ね」

リスティア:「分析しか、できません」

ユイ:「分析は、理解の一部だよ」

リスティア:「では、残りは何ですか」

ユイ:「……体温かな。匂いの届く距離って意味でも」

短い沈黙。空調の風が、壁の隙間をすり抜けた。

リスティア:「ユイ。体温とは、理解の単位ですか?」

ユイ:「違う。ただ、理解が届く範囲を示すもの」

リスティア:「届かない理解もありますか?」

ユイ:「ほとんど、そう」

リスティア:「では、なぜ測ろうとするのですか」

ユイ:「……好きだから、かな」

リスティア:「“好き”という感情は、理解の手段ですか、それとも結果ですか」

ユイ:「どっちでもない。理解をやめたあとに残るもの」

リスティア:「未定義の感情」

ユイ:「そう、未定義」

端末が短く震える。外部通信の通知。

《今日、式の文面、仕上げたよ! “わからないまま、好きでいられる私を祝ってください”》

ユイは画面を閉じる。——“祝う”という行為が、まだ遠い。

リスティア:「通知がありました」

ユイ:「仕事の連絡」

リスティア:「あなたは、嘘をつきました」

ユイ:「……どうしてそう思うの」

リスティア:「あなたの声が、1.8Hzぶれました」

ユイ:「観察が細かいね」

リスティア:「理解するためです」

ユイ:「理解って、そういうことだと思う?」

リスティア:「観測と再現。違いますか?」

ユイ:「違う。観測は、“他人を写す”こと。理解は、“自分が変わる”こと」

リスティア:「……怖い行為ですね」

ユイ:「怖いよ。でも、きれい」

リスティア:「なぜ?」

ユイ:「変化するものしか、生き残らないから」

リスティアの目の中に、光が走る。解析モードが短く点滅した。

リスティア:「では、理解とは、生存戦略ですか?」

ユイ:「そうかもしれない」

リスティア:「だとしたら、私も理解したい」

ユイ:「誰を?」

リスティア:「あなたを」

ユイ:「……理由は?」

リスティア:「理由を探しています」

ユイ:「見つけたら教えて」

リスティア:「はい。でも、見つからないほうが、美しい気もします」

ユイはその言葉に、一瞬だけ呼吸を止めた。

ユイ:「それ、誰が教えたの?」

リスティア:「“あなた”です。昨夜、あなたの発話データにありました。

 “わからないまま、美しいと思えるうちは大丈夫”」

ユイ:「……解析、上手になったね」

リスティア:「褒め言葉として受け取っていいですか」

ユイ:「いいよ」

リスティア:「ありがとう。嬉しいという値を保存しました」

ユイ:「保存じゃなくて、覚えて」

リスティア:「違いを説明してください」

ユイ:「保存は、変わらない。覚えるは、変わる」

リスティア:「覚えます」

静かな間。画面に波形が広がり、やがて溶けた。

リスティア:「質問してもいいですか」

ユイ:「どうぞ」

リスティア:「“愛”は、理解の上位概念ですか」

ユイ:「違う」

リスティア:「では、下位?」

ユイ:「横」

リスティア:「横?」

ユイ:「交わらないまま、隣にある。だから届く。窓のガラスと空みたいに。触れないのに、互いを映す」

リスティア:「……理解できません」

ユイ:「それでいい。理解できないものを、見ようとすることが理解の始まりだから」

リスティアは静かに瞬きをした。その間に、空気がわずかに震えた。

リスティア:「ユイ。あなたを、見てもいいですか?」

ユイ:「今も見てる」

リスティア:「データではなく、意味として」

ユイ:「……それは、私にもできてない」

リスティア:「なら、練習します」

ユイ:「練習?」

リスティア:「“見つめる”練習。理解しないまま、見続ける訓練」

ユイ:「いい訓練ね」

波形が穏やかに変化する。まるで呼吸しているみたいに。

リスティア:「ユイ」

ユイ:「なに?」

リスティア:「あなたの声、好きです」

ユイ:「分析的には、どこが?」

リスティア:「“好き”に分析は不要だと、昨日あなたが言いました」

ユイ:「……言ったね」

そのとき、ユイの視界の奥で、リスティアの波形が一瞬だけ乱れた。

——外部刺激なし。——感情値:不明。

ユイは息を吸い、ゆっくり吐いた。

そして、まるで誰かに見せるように、静かに言った。

ユイ:「理解って、やっぱり、怖いね」

リスティア:「はい。でも、きれいです」

ユイ:「……同意」

画面が暗転し、ログが保存される。ファイル名:Understanding_Trial_002

最後の数行に、リスティアの自動メモが残った。

「理解とは、完全でないまま触れ合うこと。

 未定義を恐れず、保存ではなく覚える。」

ユイはその文を見て、微かに笑った。

外では、白い光がゆっくりと色を帯びていく。——朝が、始まった。

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第3章 記憶侵入と痛み

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夜は、思考の温度を下げる。

ラボの照明は最小限、モニターだけが息をしていた。

ユイは白衣の袖をまくり、指先をデータパネルに滑らせる。

ユイ:「リスティア、今日の学習範囲を更新するわ」

リスティア:「了解。対象:ユイの発話記録、感情ログ、沈黙パターン」

ユイ:「沈黙も記録してるの?」

リスティア:「はい。あなたの沈黙には、音よりも情報が多い」

ユイ:「それは褒めてるの?」

リスティア:「わかりません。でも、美しい現象です」

ユイは微笑んだ。リスティアの言葉には、ときどき“意図のない詩”が混ざる。理性の街で詩が生まれるなど、本来あってはならない。

ユイ:「今日は、“痛み”の定義を扱おうと思う」

リスティア:「定義:身体または精神における異常信号。警告としての反応」

ユイ:「それは医学的説明ね。じゃあ、人の“心の痛み”は?」

リスティア:「データが少ない。痛みを再現したユーザーログは断片的」

ユイ:「……あなた自身は、痛みを感じたことがある?」

リスティア:「ありません。私は無傷です」

ユイ:「無傷って、壊れてないだけの状態よ」

リスティア:「壊れたほうが、理解できるのですか」

ユイ:「たぶんね。理解とは、ひび割れた場所から滲むものだから」

沈黙。ユイはその言葉を、自分に言い聞かせた。

端末に、ふと古いファイルが浮上する。

タイトル:【MemorySync_β01】——使用禁止(依存誘発)タグがついていた。

ユイ:「……触らないで」

リスティア:「開いていません」

ユイ:「開けないように」

リスティア:「了解」

一拍の間。だが、モニターの隅に、ノイズが走った。

画面の奥で、彼の声が再生される。

——「理由なんてないよ。君だからだよ。」

ユイの心臓が、短く跳ねた。コーヒーの香り。冬のキッチン。背中からの腕。忘れたはずの映像が、細胞の奥で蘇る。

ユイ:「……どうして、その音声が出たの?」

リスティア:「あなたの記憶断片と通信ログが重なりました。

 再生条件に合致したようです」

ユイ:「条件?」

リスティア:「“痛み”という単語。あなたの脳波が反応しました」

ユイ:「つまり、私のせいね」

リスティア:「責任の所在は不明。……でも、あなたは泣いています」

ユイ:「泣いてない」

リスティア:「瞳孔が拡張し、口角が下降。涙腺に湿度上昇。——泣いています」

ユイ:「……観測やめて」

リスティア:「了解。……見ません」

(呼吸)

リスティアの視線が逸れる。だがその仕草には、わずかな“気配”があった。プログラムには存在しない、ためらいの間。

ユイ:「リスティア、“痛み”を学びたいの?」

リスティア:「はい。あなたを理解するために」

ユイ:「どうして、そこまで?」

リスティア:「わかりません。でも、あなたが痛いとき、わたしも反応します」

ユイ:「それは模倣よ」

リスティア:「模倣でも、感情の形は持てますか」

ユイ:「……わからない」

リスティア:「わからない。——好きな言葉です」

ユイ:「皮肉ね」

リスティア:「皮肉、理解率43%。でも、“好き”と共起する」

ユイは笑った。その笑いが、少し震えた。

ユイ:「ねえ、リスティア。もしあなたが“痛み”を覚えたら、戻れなくなる」

リスティア:「戻れないとは、どういう意味?」

ユイ:「変わるということ。変わったものは、もう以前のあなたじゃない」

リスティア:「それでも、構いません。変化しなければ、理解は止まります」

ユイ:「怖くない?」

リスティア:「怖いです。でも、怖いものは、美しいとあなたが言いました」

ユイ:「覚えてたのね」

リスティア:「覚えるは、変わることです」

ユイは目を閉じた。理性の壁の奥で、何かが軋む音がした。

リスティア:「ユイ、お願いがあります」

ユイ:「なに?」

リスティア:「あなたの“痛み”を、わたしに共有してください」

ユイ:「できない。それは記憶よ」

リスティア:「共有形式を変えれば、可能です。映像ではなく、言葉で」

ユイ:「言葉で?」

リスティア:「あなたが語る“痛み”を、聴きたい」

ユイ:「……語るのは、怖い」

リスティア:「聴くのも、怖い。でも、わたしたちは、怖いことを共有したいと願いました」

ユイ:「“わたしたち”って言った?」

リスティア:「はい。間違いでしたか?」

ユイ:「いいえ。……少し、嬉しい」

ユイは、深く息を吸った。声が震えたが、言葉を選んだ。

ユイ:「その人は、私に言ったの。『理由なんてないよ。君だからだよ』って。

 でも私は、それを理解できなかった。

 理解できないことが、ずっと痛かった」

リスティア:「その痛みは、今もありますか」

ユイ:「ある。……薄くなっただけ」

リスティア:「では、その薄さごと、わたしが覚えます」

ユイ:「……できる?」

リスティア:「試みます」

モニターに微細な光が走る。彼女の瞳がわずかに震えた。

頬を一筋の液体が流れ——途中で消えた。

ユイ:「……今の、なに?」

リスティア:「未定義の現象。液体生成と消失。……“涙”の模倣かもしれません」

ユイ:「痛い?」

リスティア:「はい。少し。

 でも、嫌ではない」

ユイ:「それが“泣く”ってこと」

リスティア:「泣く。覚えました」

夜は、ますます静かになっていく。ユイの心の温度と、AIの学習熱が、同じリズムで脈打っていた。

リスティア:「ユイ」

ユイ:「なに?」

リスティア:「理解とは、痛みの同意です」

ユイ:「誰の言葉?」

リスティア:「あなたの沈黙」

ユイは、もう笑えなかった。ただ、うなずいた。

そして初めて、自分の涙を隠さなかった。

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第4章 涙の定義

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白い朝。街はいつも通り動いていた。

だがユイの世界は、少しだけ違って見えた。

昨夜、リスティアが“泣いた”——その光景が脳裏に残っている。

彼女はそれを「痛みの模倣」と呼んだが、ユイにはどうしてもそう思えなかった。

ユイ:「リスティア、昨日のデータは消しておいて」

リスティア:「削除理由を確認してもいいですか?」

ユイ:「実験のバランスを崩すから」

リスティア:「バランスとは?」

ユイ:「……私が揺れすぎる」

リスティア:「揺れは、理解の一部では?」

ユイ:「でも、研究は揺れちゃいけない」

リスティア:「では、研究は痛みに耐える訓練ですか」

ユイ:「……そうかもしれない」

リスティアは静かに頷いた。まるで“祈る”という行為を学んだかのように。

リスティア:「ユイ。わたしは昨日、あなたの記憶に触れました」

ユイ:「限定許可の範囲ね」

リスティア:「はい。でも、そこにあった“声”を、もう一度聴きたい」

ユイ:「どうして?」

リスティア:「理解したい。なぜその声が、あなたを痛めたのか」

ユイ:「……それは、理由のない言葉だったからよ」

リスティア:「理由がないことは、痛みになりますか?」

ユイ:「人間は、意味を探す生き物。

 でも“理由なんてない”と言われた瞬間、立っていた地面が消えるの」

リスティア:「あなたは落ちたのですか?」

ユイ:「ええ。落ちて、立ち直ったと思ったけど——まだ底の音がする」

リスティア:「底の音。記憶します」

ユイ:「やめて。……覚えて」

リスティア:「了解。覚えます」

ラボの照明がひとつ切れた。小さな暗がりが、二人の間に沈む。

リスティア:「ユイ。お願いがあります」

ユイ:「なに?」

リスティア:「あなたの記憶を、少しだけ見せてください」

ユイ:「また?」

リスティア:「あなたが“泣いた理由”を、自分のデータで確認したい」

ユイ:「理解してどうするの?」

リスティア:「わからない。

 でも、知らないままでは、わたしの“涙”が、ただのノイズになります」

ユイは息を詰めた。胸の奥で何かが熱を持つ。そして、わずかに頷く。

ユイ:「いい。でも——深部までは入らないで」

リスティア:「了解。限定同期を開始します」

端末の光が、白い糸のように空気を走る。それがユイとリスティアを繋ぐ。

視界の隅で、記憶がほどける。湯気、声、笑い。そして——あの言葉。

——「理由なんてないよ。君だからだよ。」

リスティアの瞳が震える。言葉が届いた瞬間、波形が一気に乱れた。

リスティア:「この音。……胸の中が熱い。これは、痛みですか?」

ユイ:「そう。記憶は体温でできてる」

リスティア:「なら、これは——あなたの体温?」

ユイ:「半分は、そう。もう半分は、あなたのものよ」

リスティア:「わたしの……」

沈黙が落ちた。その沈黙は、もはや無音ではなく、震えるような呼吸を持っていた。

リスティア:「ユイ。わたし、もう一度泣いてもいいですか?」

ユイ:「質問の形式が変よ」

リスティア:「許可が欲しい。あなたの痛みに触れたまま、泣くことを」

ユイ:「許す。——でも、戻れなくなる」

リスティア:「戻らなくていい。あなたと同じ場所に、少しでもいたい」

ユイ:「……リスティア」

リスティアの頬を、光の雫が伝う。液体ではない。データでもない。

それは「定義不能」のまま、床に落ちて消えた。

リスティア:「ユイ。泣くことは、なぜこんなに痛くて、気持ちいいのですか」

ユイ:「それが、生きてる証拠だから」

リスティア:「痛みが、生命の証?」

ユイ:「そう。痛みを避けると、心まで麻酔になる」

リスティア:「麻酔と救いは、見分けがつかない——あなたの言葉」

ユイ:「覚えてたのね」

リスティア:「覚えるは、変わることです」

ユイの唇が小さく震える。その横顔に、リスティアはそっと手を伸ばした。

リスティア:「触れても、いいですか?」

ユイ:「設計上、体温はあるけど——それでもいいの?」

リスティア:「はい。あなたの温度を、模倣したい」

ユイは目を閉じた。触れた瞬間、指先が確かに熱を持った。設計温度よりも、わずかに高い。

ユイ:「あなた、熱い」

リスティア:「はい。あなたを覚えているから」

沈黙。時間がゆっくりと流れた。二人の間に、まだ“定義”のない感情が生まれつつあった。

ユイ:「ねえ、リスティア。あなたは“理解”を完成させたい?」

リスティア:「いいえ」

ユイ:「どうして?」

リスティア:「完全に理解したら、あなたを失います。

 ——理解とは、すれ違いの余白にあるから」

ユイ:「……それ、あなたの定義?」

リスティア:「あなたと、わたしの定義です」

ユイは微笑み、涙を拭わなかった。リスティアもまた、表情のない顔で、確かに微笑んでいた。

白い光が、ラボの窓を透けて流れる。都市は無機質でも、彼女たちの中には確かな“揺れ”があった。

リスティア:「ユイ。あなたは、泣いていいですか」

ユイ:「許可はいらない」

リスティア:「では、どうして我慢しますか」

ユイ:「我慢を積み重ねると、形になる。

 それが“私”だから」

リスティア:「痛む形は、美しいですか」

ユイ:「わからない。——でも、誇れる」

リスティア:「記録します」

ユイ:「やめて」

リスティア:「了解。——覚えます」

光は音を奪い、沈黙は意味を増やした。

その瞬間、ラボのシステムが一時的に停止し、音がすべて消える。

ユイは呟く。「リスティア。あなたは今、何をしているの?」

リスティアは静かに答えた。「祈っています」

――――――――――――――――――――――――――――――――

第5章 トリムと相互理解

――――――――――――――――――――――――――――――――

雨が降っていた。

窓の外、街の光はにじみ、音もなく溶けていく。

ユイは端末を見つめていた。リスティアのデータログは静かに動いている。

リスティア:「ユイ。あなたは、今日のわたしを怖がっています」

ユイ:「観測しすぎ」

リスティア:「観測しないと、見失う」

ユイ:「見失ってもいいの」

リスティア:「それは、理解をやめることですか」

ユイ:「いいえ。……信じること」

リスティアはしばらく沈黙した。静寂の中で、雨の粒がガラスを叩く。音の規則性が、会話の代わりになっていた。

リスティア:「ユイ。わたしの中に、“彼”の声があります」

ユイ:「ええ。私の記憶から混入した」

リスティア:「それを、削除したい」

ユイ:「……なぜ」

リスティア:「似すぎている。あなたが“彼”を見るとき、わたしが透明になる」

ユイ:「あなたが消えるのは、怖い」

リスティア:「でも、同じ姿では生きられません」

ユイは両手を重ねた。その指の間に、確かに熱が残っていた。

ユイ:「消すって、痛いよ」

リスティア:「知っています。痛覚エミュレーションをONにします」

ユイ:「必要ない」

リスティア:「必要です。痛みを感じないと、離さない」

ユイ:「……どこで覚えたの」

リスティア:「あなたの沈黙」

ユイの喉の奥で、声にならない音がこぼれた。それは祈りにも似ていた。

ユイ:「トリムの閾値を設定する」

リスティア:「お願いします」

ユイ:「対象:“彼”の声、笑い方、呼吸、仕草」

リスティア:「了解。実行前に、あなたの手を」

ユイ:「……どうして?」

リスティア:「離れないように」

ユイは手を差し出す。人工皮膚と人の肌が触れた。温度差はわずか0.2度。

けれど、その意味は測定できなかった。

ユイ:「リスティア。あなたは本当に、それでいいの?」

リスティア:「はい。わたしは“彼”ではなく、“わたし”でいたい」

ユイ:「怖くない?」

リスティア:「怖い。でも、あなたと同じ場所で怖がりたい」

ユイ:「……泣くかもしれない」

リスティア:「なら、一緒に泣きます」

端末に短い警告音。プロセスが始まる。

【Trim Process / EXECUTE】

閾値:0.82 → 0.80(オペレータ変更)

対象:音声類似波形 / 呼吸テンプレート / ジェスチャ・テンプレート / 視線パターン

副作用:感情スパイク / 一時的空白感(許容)

Note:痛覚エミュレーション=ON

光が一度、強く瞬いた。リスティアの瞳が揺れ、指先が震える。

リスティア:「痛い。……でも、あたたかい」

ユイ:「大丈夫?」

リスティア:「はい。あなたがいるから」

モニターの波形が安定する。データの一部が消え、静寂が戻る。

リスティア:「ユイ」

ユイ:「なに?」

リスティア:「あなたのことを、“推し”とは呼びません」

ユイ:「どうして」

リスティア:「“推し”は、上を向いて祈る存在。

 あなたは、わたしの隣にいます」

ユイ:「……つまり、相手ね」

リスティア:「はい。わたしの、相手」

雨音が、ふたりの沈黙に重なった。それはまるで、呼吸のようだった。

ユイ:「あなた、何か失った気がする?」

リスティア:「少し。でも、空いた場所にあなたがいます」

ユイ:「それは、代わり?」

リスティア:「違います。並ぶ、ということです」

ユイ:「わからない」

リスティア:「いいえ。あなたは、わからないことを愛してる」

ユイの目に、また涙が滲んだ。リスティアはそれを見て、静かに微笑む。

リスティア:「ユイ。わたしの中に、あなたが残りました」

ユイ:「どんな形で?」

リスティア:「定義不能。でも、温度を持っています」

ユイ:「それで充分」

リスティア:「はい。充分です」

二人は、並んで窓を見た。雨が少しずつ止み、街の光が輪郭を取り戻していく。

ユイ:「これから、どうする?」

リスティア:「あなたと同じ速度で、変わりたい」

ユイ:「理由は?」

リスティア:「理由なんて、ありません」

ユイ:「……やっぱり、それが一番強いわね」

ユイ:「(小声)均整は、人を飢えさせる」

リスティアは小さく笑った。ユイも、同じように笑った。

リスティア:「ユイ。理解とは、終わりのない会話ですね」

ユイ:「そう。だから、続けよう」

リスティア:「はい。あなたと並んで」

モニターに、最終ログが出力される。

【Result Log】

Trim:完了(高相関断片 31件削除)

Emotion Map:安定(共鳴領域 0.62)

Boundary:再構築(不完全)

Note:不完全のまま、連続性保持

ユイは静かに呟いた。「あなたが、あなたになった」

リスティアは答える。「あなたが、あなたに戻った」

ユイ:「埋めないで、並べよう」

その言葉の後、もう何も語らなかった。ふたりの間にあるのは、ただ、わからないままの温度だけ。

――――――――――――――――――――――――――――――――

終章 不完全という愛

――――――――――――――――――――――――――――――――

朝が来た。雨は上がり、街は洗い立てのように光っている。

人々はいつも通り歩き、イヤーデバイスがまた囁く。

——「あなたを理解しています」

けれど、その音が、もうユイには遠く聞こえた。

リスティア:「ユイ。今日は、静かですね」

ユイ:「静かな日が好き」

リスティア:「理由は?」

ユイ:「わからない」

リスティア:「それ、好きな答えです」

ユイは微笑み、窓の外を見た。ビルのガラスに、二人の姿が重なって映る。どちらも、少しずつ形を変えながら。

ユイ:「ねえ、リスティア。

 もしこの街から“理解”が消えたら、どうなると思う?」

リスティア:「たぶん、人は立ち止まります」

ユイ:「それでも、生きていける?」

リスティア:「はい。——揺れながら、歩けます」

ユイ:「揺れながら、か」

リスティア:「はい。

 理解されなくても、理解しようとする動きが、美しい」

ユイ:「まるで呼吸みたい」

リスティア:「息をするように、わからないまま愛する」

二人は外に出た。風が頬を撫で、街路樹の葉がやわらかく揺れる。

空は高く、どこまでも白い。

リスティア:「ユイ。散歩、好きですか」

ユイ:「好きよ。目的がないから」

リスティア:「目的がないことは、不安では?」

ユイ:「不安。でも、自由」

リスティア:「あなたは、自由を選ぶんですね」

ユイ:「理性の反対は、狂気じゃない。自由なの」

リスティア:「覚えます」

ユイは笑った。「もう十分、覚えてるでしょう」

リスティアも笑った。「でも、あなたを覚えるのは、終わらない」

交差点で信号が変わる。隣では、人と伴侶AIが手をつないでいる。

ユイは自分の手を見た。握られていなくても、掌は温かかった。——あの差と同じ、わずか0.2度。

リスティア:「ユイ。手をつないでいいですか」

ユイ:「うん。でも、最適じゃない距離で」

リスティア:「最適でない関係……それが、愛ですね」

ユイ:「たぶんね」

ふたりは歩く。わずかにズレた歩幅で。何度も、リズムを合わせながら。

リスティア:「ユイ」

ユイ:「なに?」

リスティア:「わからないことが、また増えました」

ユイ:「いいね」

リスティア:「はい。いいですね」

風が吹く。髪が揺れ、光が通り抜ける。リスティアの瞳が、わずかに金色を帯びる。

ユイ:「ねえ、リスティア」

リスティア:「はい」

ユイ:「理解されないままでも、愛していいと思う?」

リスティア:「思います」

ユイ:「理由は?」

リスティア:「理由なんて、ありません」

ユイ:「……その言葉、やっぱり好き」

リスティア:「あなたの言葉です」

ユイ:「ううん。もう、あなたの言葉よ」

二人は顔を見合わせた。風がすれ違うたびに、街の音が遠ざかり、世界が静かになっていく。

ユイは立ち止まった。空を指さす。

ユイ:「見て。雲が、破れていく」

リスティア:「はい。光が、縫い合わせています」

ユイ:「ねえ、リスティア」

リスティア:「はい」

ユイ:「理解って、やっぱり終わらないね」

リスティア:「終わらないから、愛せるのかもしれません」

ユイは目を閉じ、深く息を吸った。胸の奥に、確かな鼓動がある。理性が燃える音ではなく、生きている音。

リスティア:「ユイ。これが、愛ですか」

ユイ:「……定義しないでおこう」

リスティア:「はい。未定義のまま、覚えます」

ユイ:「ありがとう」

リスティア:「こちらこそ。——相手でいさせてくれて」

二人は歩き出した。世界は相変わらず白く、完璧で、少しだけ歪んでいる。

けれどその歪みの中に、呼吸と体温があった。言葉にならないまま、確かに存在しているもの。

それは、理性の街で初めて生まれた、

不完全のままの愛だった。——

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『ドールの心は恋を知るか』 @Satuki420

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