第25話 ジントニック

 気持ちが悪い。幸太郎に私のことを思い通りになる道具のように扱われたような気がして怒りが込み上げてくる。『許せない』から泣かないつもりでいた、泣いたら負けを認めてしまう気がして……でも、こんなパンパンに膨れ上がった怒りを抱えて帰ってくる気になれず、TITANICに寄ってしまった。


「あーぁ、泣いちゃった」


 でも、不思議と恥ずかしくはなくて、負けた感じもしないで済んでいる。

 スパイシーなジントニックが美味しかった。ライムのほろ苦い感じと、トニックウォーターの炭酸が、私のやるせない気持ちを、いくらか解きほぐしてくれていた。


「ふぅ」小さく溜め息をつき、呼吸を整える。


 母のいない家に帰るのは、いつぶりか思い出せないくらい昔の事だ。

 メッセージを確認していなかったことに少し焦りつつ、スマホを見る。万が一、施設から連絡が来ていたら……と、考えが及んでいなかった自分を反省する。


 施設からの連絡は来ていなかった。スマホをいつものベッド脇に置こうとしたら、スクリーンが光った。


『心配なので、家に着いたら一報ください』


 龍二さんからのメッセージに、慌てて返信をする。


『今、着きました。今日もありがとうございました』


 手に持ったまま、画面を眺めていたら、すぐに既読が付き、返信が来た。


『連絡ありがとう。おやすみなさい』


 離れていても、同じ事をしている一体感のような感覚に、体が痺れてくる。

 龍二さんが、今、この瞬間、私の事を考えてくれているのが嬉しくてたまらない。


 シャワーを浴びに行く。

 服を脱いで、首がシャツの襟で擦れて赤くなっていることに気が付く。触ると少しヒリヒリした。お腹を触ってみる。幸太郎の手を思い出すとゾッとした。


「いつだっけな」


 もう覚えてないが、間違いなく5,6年はセックスレスだ。この家とマンションは2駅、ドアドアで30分かからない距離。通えない距離では無かったので、最初は行ったり来たりしていた。マンションで食事を作り、幸太郎の分を置いて、こっちに母と自分の分を持って来ていた。母が寝たのを確認して戻ると、幸太郎はまだ帰っていないことが多く、食事も外で済ませてくることがほとんどだった。


「夕飯要らないなら教えて欲しかったな。直接、実家に行けたのに」

「悪い、悪い、今度からそうするよ」


 この会話を何度繰り返したことか。洗濯、掃除、買い物も含めて、私は常勤の仕事に加えて、2拠点で家事全般をこなした。


 母は病気だから仕方がないとして、夫から何の感謝もされないことには不満が溜まっていった。次第に実家で過ごす日が増え、自然とこちらで生活するようになった。セックスレスの原因は物理的な距離の問題でだけではない。信頼できない、心を許せない男に、身体を許せるはずがない。


 ふいに、龍二さんを思い浮かべてしまった。


「会いたいな」


 敢えて声に出して言う。もし、龍二さんと知り合う前なら、これ程までに幸太郎に嫌悪感を抱かなかったかも知れないと思わないでもない。これまでは、距離を保ってバランスを取り、幸太郎とは穏便に過ごしてこれていた。龍二さんへの思いを意識してしまった私は今、幸太郎との関係を見直したいと本気で考えるようになっている。




 ***




 なぜ泣いていたのだろうと思うが、聞くほど野暮じゃない。が……気になって仕方ない……お母様の事なのか、旦那さんと何かあったのか、仕事のトラブルか……


 店の片づけを済ませ、シャッターを閉じる。


 コンビニに寄り、弁当を買った。今日は帰って、料理をする気にはなれない。


 多くを語らないサッパリとした心愛さんのメッセージを眺める。


 思いがけず画面が動き、新しいメッセージが届いた。


『明日も伺います』


 もう2時を回っている。


『お待ちしています』


 それだけ返し、シャワーを浴びた。




 この仕事を初めて、店を開けるのが楽しみだった事なんてあっただろうか?年甲斐も無く浮かれた気分で開店準備を始める。


「お疲れ様です」


 中田君が来てくれた。


「お疲れさま。今日もよろしくな」


 土曜の今日はオープンからフルで入ってもらう。


「次のバイト先、探してもらって構わないからな」

「はい。そのつもりです。お気遣いありがとうございます」


 友弥より1つ下の大学生。俺がその年の頃は、子育てに追われていて参考にならないが、今どきの子はしっかりしているんだな、と感心する。


「いらっしゃいませ」


 中田君の声がして、入り口を見る。

 心愛さんじゃなくてがっかりする……どころか、優子でげんなりした。


 無言


 バーのマスターとして有るまじき行為とは分かっているが、口を開ける気になれないのだからどうしようもない。


 中田君の怪訝な顔をよそに、優子は俺の前に座った。そこは、心愛さんの席なのに……


「ビールでいいですか?」


 ぶっきら棒な俺に、中田君が驚いている。後で説明するからな、すまない。


「いいえ。お勧めのカクテルをお願い」


 カルーアに牛乳を入れて出す。


「今度、時間を取っていただきたいのだけど」

「すみませんが、忙しいので、話でしたら今、ここでどうぞ」


 中田君が気を利かせて、奥のテーブルの準備に行ってくれた。することなんて何も無いのにな……つくづく有り難い。


「そう?じゃ」


 そう言って、優子は大きく息をひとつ吐くと、思ってもみないことを言った。


「この店を買い取ったの」



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