第24話 ジントニック
「まあ!心愛さん、藪から棒に何を言い出すの!ふざけないでちょうだい!」
「母さん!悪いけど、今日は帰ってくれないか」
「そ、そんな。幸ちゃん、私はあなたの味方よ?」
「分かったから。でも、これは俺たちの問題だから」
「違います!嫁が出て行くなんて、榊原家の問題です!」
「いいから!二人で話をさせてくれないか?!」
この親にして、この子ありって言えるくらい、話し方や頑固な主張がそっくりだ。
義母はブツクサ言いながら、半ば幸太郎に追い出されるようにして帰って行った。
「この前の当てつけか?」
「違います」
「じゃあ、母への当てつけか?」
「そんなんじゃない。確かに子どものことを言われるのはショックだったけど、それはもう、慣れてるって言うか……」
「じゃあ、今さら何でだよ?」
「もう長い事、別居してて、結婚してることが不自然だと思わない?」
「思わないけど」
噛み合わない。会話が、ちっともしっくりこない。
「離婚して欲しい。この家のローンから解放して欲しいの」
「ローンを無くせば、離婚をしなくていいのか?」
「……気持ちが、もう……幸太郎に向いてないの……申し訳ないけど、お義母さんとも、もういい関係を保てるとは思えないし……」
「離婚は嫌だ」
言うと思った。彼らしいストレートで分かり易い物言いだ。
「私はやり直す気は無いから、考えといて」
泊まるつもりだったけど、一緒にはいられる気がしなくて、鞄を手に取る。
「不倫してるのか?」
「それはあなたでしょう?」
「妬いてるのか?」
「んなわけ……」
後ろから羽交い絞めにされる。
「やめてよ!」
ブラウスの襟首から手を入れられて、首が締め付けられる。
「痛いってば!やめてっ!」
スカートのウエストからブラウスの裾を引っぱり出され、幸太郎の右手がお腹を這ってくる。体を捩って逃げようとするけど、反対の手が首に巻き付いていて離れてくれない。
「嫌だってば!」
背中からのしかかってくる、重くて熱い身体。
持っていた鞄を下から頭の後ろに、思いっきり振り上げた。
「痛って……」
幸太郎の後頭部に当たったらしい。
息を切らしながら、玄関に急いで走る。
シャツの裾は出てるし、髪の毛はグチャグチャだけど、靴を履いて脱出できた。
「もぉ……なんなのよ……」
下りのエレベーターに乗りながら、シャツをスカートにしまう。後ろに束ねてた髪のゴムを外し、手櫛で整えて、もう一度括る。
カツカツカツカツ
ひたすらに何でもないことを考えながら歩く。思い出したら泣いてしまう。怖かった……今更ながら、自分の手が震えている事に気付いた。
***
終電の時刻が過ぎ、残る客は近くに住む常連だけになった。
「中田君、キリの良いところで上がって」
「はい」
もう来客はないだろうと、店の片付けを始めていた。
今、一瞬、ドアが開いたような気がしたが……
「いらっしゃいませ」
中田君が言った。
「今、開きましたよね?」
「ああ、そんな気がしたが」
二人で扉をじっと見つめる。
中田君が店内から扉を開けた。
「やっぱり。いらっしゃいませ」
最初は中田君が被って誰だか分からなかったが「まだ、大丈夫ですよ、どうぞ」そう言って中田君は、心愛さんを店内に案内した。
「何があったんですか?」
泣き出しそうな心愛さんを見て、胸が痛くなった。
こちらを見て、無言で涙をこぼす、心愛さん。
「いいから座って」
俺がそう言うと、中田君が気を利かせて、離れた席に座る常連との間に立ち壁になってくれた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
全く音を立てず、静かにぽたぽたと涙を落とす、心愛さん。どうしたらいい……?
「ジントニックです」
中田君の小さな声だ。
「こういう時は、思いっきり辛いジントニックに限ります」
「そうか?」
理屈は分からないが、中田君のお勧めなのだ。
店で一番のスパイシーなジンに、ライムを絞り、トニックウォーターでグラスを満たす。
「心愛さん」
止めどなく溢れる涙をどうする事もなく、心愛さんはジントニックに口をつけた。
半分ほど一気に飲んでしまう。
「ふぅ……美味しいです……」
心愛さんは鼻の詰まった声で言った。
「ですよね」
中田君が答えてくれた。
「ちょっと……嫌なことがあって……」
心愛さんはそう言って、中田君に笑いかけた。
「誰にでもありますよね」
中田君は常連客に背を向けたまま、心愛さんに近付き、ポケットからティッシュを渡した。
「どうもありがとう」
「ボクは、もう上がりなので、あとはマスターがお相手しますね。ごゆっくりどうぞ」
そう言って控室に消えた。
「大丈夫ですか?」
俺には泣いた女性に、どう接するべきかのノウハウがまるでない。すげぇな、中田君。
「はい。取り乱してすみませんでした」
とりあえず、涙はもう落ちてこなさそうなので、一安心する。
「「……」」
沈黙を共有できる人がいるんだな、と新しい気付きを得た気分だ。
何かしゃべらなきゃと思うのも、思わせるのも、苦痛だ。心愛さんにはそのどちらも感じない。黙ってジントニックを飲み終え、心愛さんは「ごちそうさまでした」と言って席を立った。
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