あなたの中に入りたい

アミノ酸

第1話

 あの日、ロッカーに恋をした。

 ギタリストでもボーカルでもない。

 掃除用具を入れる、あのロッカーに。

 だって、彼は雨の降るゴミ捨て場で。

 あんなにも健気に立ち尽くしていたから。


「真希ってさ、最近彼氏出来た?」


 同じサークルの京子がそれとなく声をかけてきた。

 詮索したい、というよりは暇つぶしっぽいその聞き方がむしろ答えやすかった。


「彼氏……ではないけど、好きな人は出来たよ」


「だからかぁ、最近やたらご機嫌だしスマホばっか見てるから」


 いいなぁ、と京子は唇を尖らせる。

 惚気たいわけではないが、ちょっとぐらい恋バナがしたくて口が軽くなってしまう。


「実は……今部屋にいるんだ」


「えぇっ!? 同棲!? でも、まだ付き合ってないの?」


「うん……。何というか、まだお互い知らないことも多くて……」


 彼には鍵がかかっていた。

 スマホで調べると、鍵を無くした時のロッカーの開け方が見つかったので今日にも開けられるとは思うけど。


「へぇぇ。でも、意外。真希って結構大胆なんだね」


 雨の中、自分より大きなロッカーを家まで運んでしまったのは、確かに大胆だったかもしれない。


「うん、私もこんなこと初めて」


 そう、こんな気持ちは生まれてはじめて。

 これまで付き合った男性は、浮気をしたり、すぐに身体を求めてきたりで、もう恋なんてしないと思ってた。

 でも、あの日感じた胸の高鳴りは、私に最後の恋を予感させたんだ。


「ただいまー」


 一人暮らしをして二年が経った。

 ただいまと言える相手がいることが、こんなにも幸せなことだったなんて実家にいる時は考えもしなかった。


 部屋の電気をつける。

 七畳の部屋にロッカーが立っていた。

 私よりも頭一つ分高い全長。

 抱きしめた時に少しだけ手が回りきらない奥行き。

 無言で立ち尽くす彼の冷たさに、私の鼓動は激しく脈打ってしまう。


「実はね、京子に話しちゃったんだ」


 内緒にしようと思ってた。

 だって、冷やかされたら恥ずかしいし。

 それに写真を見せてなんて言われたらどうすればいいの。

 剥き出しのあなたを人に見せるなんて出来ない。


「それとね、ネットで調べたら鍵の開け方わかったよ」


 でも、これは自分でも少し引いている。

 だって、鍵がかかっているってことは彼は秘密にしたいってことでしょ?

 人のスマホを勝手に見るのはダメ。人の引き出しを物色するのもマナー違反。

 じゃあ、鍵のかかったロッカーをこじ開けていいわけがない。


「でもね、やっぱり気になっちゃう……。だって……」


 ロッカーを揺らした。

 中で何かが動く音がする。


 ねぇ、これは何の音?

 見たら私は傷つくのかな。

 知らない方がいいこともあるよね。

 でも……。

 私あなたのことをもっと知りたいの。


 帰りに買ってきたラジオペンチを隙間に挟み込む。

 人の本心は誰にも覗けないけど、ロッカーの中は覗くことができる。

 覗けるなら、我慢なんて出来ないよ。


 私は男運がないと思ってた。

 大学に入って初めての彼氏は三股をするクズだった。

 しかも、悪びれる様子もなく、別れ際に暴言を吐いていく始末。

 二人目に付き合った彼氏は、毎日のように私の家に来て、すぐに身体を触ってきた。

 断ると露骨に機嫌を悪くして、別れを切り出すと最後に一回だけ、と愛を感じない行為をして去っていった。


 男はみんな最低だ、なんて言うつもりはない。

 素敵な人もいると思うし、大学生なんて大なり小なり性欲で動いてるのを責める気もない。

 でも、私が我慢しなきゃいけないってこともないよね。


 ロッカーを開けると音の正体はすぐにわかった。

 なんて事はない。備え付けの間仕切りだった。

 頭の高さあたりで仕切り、バケツとかを置くことが出来るあの板。

 前の持ち主を想像させる品でも、事件性を感じさせる怪しげなものでもない。

 ただのステンレスの板だった。


「……ごめん。私、最低だね……。どっかであなたを疑ってた……」


 何か変なものでも入れてあるんじゃないか。

 静かに私を見下ろしている割に、その中では変なものを抱え込んでいるんだと思っていた。

 でも、それは私の思い込みで。

 あなたは本当にただのロッカーだった。


「こんなに傷つけてごめんね」


 強引にこじ開けた扉は、割れる事はなかったが不細工に歪んでしまい、何度もラジオペンチを挟んだ跡が線を刻み込んでいる。


 何だか可愛そうに見えてきた。

 それもそうだ。あの雨の日から彼はずっと立ちっぱなし。

 傷つけてしまったせめてもの贖罪として、そっと彼を横に倒す。

 大きくてベッドにぶつかってしまうので、廊下に突き出す形で横になってもらった。


 ふと、邪な考えが私を襲う。

 扉の開いた彼は、私なんて簡単に入れてしまう大きさで。

 彼の中に入りたいという欲が私の理性を掻き乱した。


 仰向けになった彼が、扉を開いて横たわっている。

 入りたい。

 今までの彼氏を責められない。

 でも、私だって普通の女子大生だ。

 こんな風に、誰もいない自室で、無防備な彼を見たら──。


 覆い被さるように中を覗く。

 人一人が入るために作られたようなスペース。

 横たわるロッカーは、もはや棺桶に見えた。

 ステンレスの冷たさが私の衝動を、寸前で揺さぶる。


 ギィィィと蝶番が鳴った。

 理性が働き扉を閉めると、それは棺桶ではなくロッカーなんだと改めて教えてくれる。


「ごめんね……。怖かったよね……。でも、無理矢理入ったりしないから安心して」


 ロッカーは何も言わない。

 それが本当に嬉しかった。

 泣いたり怒ったりしたら、私はなし崩し的に中に入ってしまうかもしれないから。

 自分の弱さを痛感した。

 そっと、ロッカーの表面を撫でる。

 人肌にはない滑らかと冷たさが、私の孤独を癒してくれた。


「真希さん、彼氏出来たってマジすか?」


 サークルの一学年下の孝太郎が怪訝そうな顔で尋ねてきた。

 京子だな、と私は勘付くが怒る気にはなれない。

 きっと孝太郎にしつこくされて京子は渋々答えたのだろう。


「彼氏じゃないよ。好きな人は出来たけど」


「え? 同棲してるって聞きましたけど」


「してる……と言えばしてるかな」


「どんなやつですか?写真とかないんですか?」


 孝太郎はしつこい。

 嫌い……という程、嫌な奴ではないし私を慕ってくれているのも伝わってくる。

 でも、自信の持ち方が癇に障るというか、人から断られるわけがないと思っていそうな心が、私にはどうも受け付けなかった。


「どうって……普通のロッカーだよ。写真は撮ってないから無い」


 嘘をついた。

 私のスマホには色んな角度から撮影した彼の写真がたくさん保存されている。

 でも、それぐらいの嘘で糾弾される謂れはない。


「ロッカーって……。真希さんまた変な男に捕まったんですか。やめた方がいいですよ、そいつ」


「孝太郎が彼の何を知ってるの?あんまり失礼な言い方すると怒るよ」


「だって、ロッカーなんてしょうもないですよ。どんな音楽やってるんですか?」


「……音楽?」


「どうせよくわからないバンドのコピーか拗らせた歌詞のオリジナル曲でしょ。この大学の軽音部ですか?」


 孝太郎の言葉にハッとした。

 音楽……、音……。

 何で気がつかなかったんだろう。


「ごめん。私帰らなきゃ」


 足早にキャンパスを抜けて自宅を目指す。

 ああ、私は馬鹿だ。

 中に入るのを我慢して、写真を撮って満足して。

 どうして気がつかなかったんだろう。


「どんな音が響くんだろう……」


 手のひらに彼の冷たさと滑らかさが思い出される。

 手のひらで? それとも拳?

 側面と正面でも違う音がしそう。

 扉を閉めれば反響しちゃうんだろうな。


 あぁ、早く彼を鳴らしたい。


 ボワン、ボワンとステンレスがたわむ。

 ドンッと中の空気が逃げ場を無くす。

 コッコッコッと爪が鳴る。


 叩く場所、触る位置で音が違う。

 それが、私に時間を忘れさせた。

 いつの間にか部屋は暗くなっている。

 夢中で彼を触っていたからか、暗い中でも天井と壁の境目はハッキリと目で追えた。


 それでも、ロッカーは変わらない美しさを保っている。

 これだけ音を出し続けても、どれだけ私が拭き続けても、彼の美しさは変わらない。

 いても立ってもいられなくなり、私は外に出た。


 書店でスケッチブックを買って帰る。

 授業に使うボールペンを取り出し、後は描くだけ。

 音がわかった。触感も指に残っている。何なら中身だって見た。

 スケッチブックの上をペンが滑る。

 どれほど時間をかかっても、彼は動かないから描きやすい。


「ごめんね。たくさん描けば上手になっていくと思うんだけど」


 出来上がったのは人に見せられるような出来ではない。

 線はガタガタ。奥行きも表現出来ていない。

 彼の素敵なところが一つも再現出来ていなかった。


 何枚か彼の似顔絵を描いていると、誰かからの着信でスマホが震えた。

 アクリルのスマホカバーが床のフローリングを小刻みに叩くのを見て、思わず唾を飲む。

 魔が差した。

 その時の私の顔は見るに耐えなかったと思う。

 恐る恐る彼の上にスマホを置いてみた。

 ガタガタ、ガタガタ。

 規則正しく彼が鳴く。


「可愛い……」


 スマホが止まると、彼は鳴くのをやめた。

 もう一度、もう一度だけ……。

 そっと、手を伸ばすと着信の正体が目に入る。

 それは母親からの電話だった。


 母親に折り返しの電話をすると、すぐに繋がった。


「真希、ごめんね。今大丈夫だった?」


「うん、全然。どうしたの?」


「今月の仕送りなんだけど、お米高くなっちゃったでしょ? 袋麺とかそういうのでもいい?」


「全然いいよ。むしろありがとう。私別にお米好きってわけじゃないから気にしないで」


「そう? ちゃんと食べてる? ねぇ、今度真希の家に遊びに行ってもいい?」


「いいけど狭いよ」


「贅沢言って。お父さんが聞いたら悲しむわよー。じゃあ、今度遊びに行くね。風邪ひかないようにね」


「うん、いつもありがとう。バイバイ」


 電話を切ると再び部屋に沈黙が流れる。

 一人だと気にならなかった静けさが、彼がいるだけで意味のあるものに思えてくる。


「今度お母さん来るって。来ていいよ、って言っちゃったけどちょっと恥ずかしいね」


 声をかけても返事はしない。

 それでも、私は気づいてしまった。

 スマホのアラームを設定する。

 そっと、彼の上に置く。

 ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ。


「ハァ……」


 思わず溜息が漏れる。

 言葉にならない喜びが、胸を満たした。

 いつまでも聞いていられる音。

 一人の時には聞けなかった、この少し反響した感じが堪らない。


「……好きだよ」


 ポツリと、思わず溢れた声に彼が返事をするかのように。

 ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ。


「うん……。うん……。私も。大好き」


 もう部屋に静けさは戻らない。

 でも、静かだからいいって訳でもない。

 それに私は今最高に幸せだ。

 今度の彼氏とは幸せになるんだ。


「真希、一緒に住んでるって彼はどうなったの?」


「付き合ったよ!」


 笑顔でそう返すと、京子の顔はパッと明るくなり祝福してくれた。

 しかし、すぐに唇を尖らせながら冗談っぽく妬み始める。


「ねぇ、その彼氏に誰かいい人紹介してもらえないかな」


「どうかな……。聞いてみるよ」


「まじ!? お願い! 短髪で背が高いスポーツマンを是非!」


「そんなピンポイントは無理でしょ。でも、彼は私より頭一つぐらい背が高いから、高身長ってのは叶うかもね」


 まだ話は進んでいないのに、楽しそうに京子は自分の好みの男性について熱く語る。

 大学の食堂でくだらない話をして笑っていると、孝太郎がやってきた。


「真希さん、結局付き合ったんですね」


「らしいよー。だから孝太郎は諦めなさい。ちょっかい出すなら私が高身長の男を紹介されてからね」


 孝太郎が不機嫌そうに溜息をついて京子がそれを揶揄っている。

 いつもと変わらない日常。

 なのに、いつもよりも色が濃く鮮やかに見える気がした。

 心なしか髪の調子も良い。


「そういえば、彼氏の名前なんて言うの?」


「……え?」


 名前?

 彼の名前……。


「真希? どうしたの?」


「……あ、ごめん。私レポートやらなきゃいけないの忘れてた。急でごめんだけど帰らせて」


 こっちこそごめんね、と京子が手を振り送ってくれる。

 孝太郎はまだ不機嫌そうにしていたが京子が適当にあしらうだろう。


 足早に自宅へ向かう。

 どこか天気も曇り空になり、どんよりとしてきた。

 彼と出会ったゴミ捨て場の前を通ろうと角を曲がった時、身体が強張った。


「……嘘」


 ゴミ捨て場にはいくつものロッカーが積み重なっていた。

 まるで、それがゴミのように。

 大量に余った物のように。


 天気予報にない雨は、私の洗濯物を台無しにした。

 湿気で跳ねた髪は、何だかいつもよりもみすぼらしく感じる。

 部屋の廊下には横たわったロッカー。

 朝に行ってきますと言ってから変わらずに私の帰りを待っていた。


「京子に付き合ってるって言っちゃった」


「京子がね。誰か良い人紹介してほしいって言ってるんだけど、短髪で背の高いスポーツマンの知り合いいる?」


「あなたと出会ったそこのゴミ捨て場にね、いくつかのロッカーが捨てられてたの」


「ねぇ、あなたの名前は?」


 返事はない。

 いくら待ってみても聞こえるのは時計の針の音だけ。


「おーい、聞こえてる?」


 コンコンと、ロッカーを優しく叩く。

 彼の足元はあまり響かない。

 ロッカーの周りを調べても名前は書いていなかった。

 書いてあれば既に気づいていたはずだが、調べずにはいられない。

 残すところは……。


「開けるよ」


 ギィィィと蝶番が鳴る。

 中には間仕切りが一枚あるだけ。

 彼の内側のどこかに名前がないか覗いてみる。

 シールが貼ってあった。

 製造メーカーと品番が書いてあるようだが、覗くだけだと少し見づらい。

 中に入らないと、ちゃんと見れなそうだった。


 雨音が部屋の中からでも聞こえくる。

 洗濯物はもうずぶ濡れになっているだろう。

 身体にまとわりつく湿気が、首筋を不快にさせた。


「……ねぇ、名前教えて?」


 あなただけの唯一のものを。

 他のロッカーとは違う。あなたはゴミじゃないっていうことを教えて。

 見下ろす私を、彼は迎えるように寝そべって扉を開いていた。


「……そんなのズルいよ。断れるわけないじゃん」


 そっと優しく抱きしめられた。

 私は彼の中に入る。

 全身を包まれる安心感は、少しカビの匂いがした。

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