【44 はじまりのおわり】

 張り詰めていたなにかが、切れたのだと思う。

 アルフェネル様が驚いたように目を見開いた。わたしはそれでようやく、わたしの目から涙が溢れていることに気付いた。


 きちんとお返事をしなければ、と思ったけれど、言葉が出てこない。ただ頷くだけのわたしを、アルフェネル様が戸惑ったように見つめている。


「アルフェネル様」


 隣から、フランの呆れたような声がした。


「もしかして、お返事がない、と思っていらっしゃいますか?」

「は、ええ。その……はい」

「嫌がって泣いているわけではありません。緊張が緩んだだけです」


 代弁してくれるフランの言葉に、わたしはまた頷く。

 遠慮がちに左手が握られ、そこに柔らかい布の感触がそっと乗せられた。右手でその布を取り上げ、目許に押し当てる。

 静かに離れていった手にもう一度触れてほしくて、わたしは左手を差し出した。温かく優しい感触が、わたしの左手を包む。わたしがそっと握り返すと、もう少ししっかりと手が握られた。


 お茶会のときに握られた手は、離れようとしても離してくれなかった。

 いま、わたしの手を握る手は、優しくて、温かくて、だから離れがたい。


 深く息をついたわたしの頭を、フランがそっと引き寄せた。引かれるままに、フランの肩にもたれかかる。


「本当は、別の肩の方がいいのかもしれませんけど?」


 笑みを含んだフランの声が聞こえる。

 アルフェネル様がどんな顔をされていたのか、わたしにはわからない。温かい手は、わたしが落ち着くまで、そのままだった。


※ ※ ※ ※ ※


 しばらく経って落ち着いてから、わたしはアルフェネル様に、少しずつ話をした。


 エリューシアの風習のこと。

 折り合いの悪かった家族のこと。

 追われるような形で、国を出てきたこと。

 捨ててこなければいけなかった、学術院の首席のこと。

 そして、『辺境伯』に関する誤解。


 ところどころフランに補われながら話をする間、アルフェネル様は時折相槌を打つだけで、ほとんど何も言わずにわたしの話を聞いてくれた。

 わたしが話し終える頃には夜もすっかり遅くなっていた。大きな暖炉の薪はほぼ燃え尽きて、熾火からちろちろと炎が上がるだけになっている。


「失礼なこと、と思われるかもしれませんが、ユーラリア嬢」


 話を聞き終えて、アルフェネル様がそう切り出した。

 なんでしょうか、という疑問を込めて、わたしは小さく首を傾げる。


「行き違いから始まってしまったことではありますが、私は、いつかあなたに、悪くない行き違いだった、と思ってほしい。いや――」


 首を振り、アルフェネル様は言い直す。


「そう思っていただけるように、力を尽くそうと思います」


 気負った様子もない、穏やかな表情だった。そうでありながら、言葉には強い意志が感じられる。それはつまり、それだけの決意で、わたしに後悔をさせないようにする、という意思表示で。


 改めて意識すると、やはり気恥ずかしい。頬に血が上る感覚がある。


「――婚約、とは言いましたが」


 わたしが顔を赤くしたことに気付いたのか、アルフェネル様が話題を変えてくれた。


「正式な婚約には、王陛下のご裁許が必要です。前例のないことではありません。国に利のある話でもある。そのあたりを、父と母に説得してもらわねば」

「閣下と奥方様は、どう仰るでしょうか」


 異国から来た娘を、跡継ぎの妻に、ということを承知いただけるものなのだろうか。


「事情を知ったならば、歓迎されると思います」


 その言葉にもまだ、わたしは不安そうな表情を見せていたのだろう。


「では、話してみましょう。明日の午後のお茶の時間に。よろしいですね?」


 わたしは、はい、と頷いた。不安はあるけれど、踏み出さなければ進めない一歩でもある。


「フランツィスカ嬢」

「はい」


 わたしの隣で話を聞いていたフランに、アルフェネル様が、改まった調子で声をかけた。


「長い話に付き合わせてしまって、申し訳ありません。あなたには、証人になっていただきたかった。私があなたのお嬢様に何を言ったのか、それを憶えておいていただくのは、あなたを置いて他にはない、と思ったのです」


 フランが優雅な仕草で会釈する。わたしの侍女にして友人。どんなときでもわたしの味方である頼もしい彼女が、このことを憶えていてくれる。その事実が嬉しくて、そういうアルフェネル様の心遣いが、心地よかった。


※ ※ ※ ※ ※


 翌日、午後のお茶の時間。

 わたしは閣下と奥方様、そしてアルフェネル様のお茶の席に招待されている。


「私に否やはありませんよ、ユーラリア嬢。本来ならばお家のお許しが必要なところですが、そのような誤解があったということであれば、今更、というところでしょう」

「わたくしにも、もちろん、異存などありません。むしろ、どうお引き留めしようかと思っていたくらいなのですから」


 辺境伯閣下も奥方様も、拍子抜けするほどあっさりと認めてくださった。


「ではあとは、陛下のお許し次第、ということですな。ああ、ユーラリア嬢、こればかりはすぐさま、というわけにいかないのです。そこはどうか、お含みおきいただければ」


 閣下の言葉に、わたしははい、と応じる。ルーチェに聞いた辺境伯領の重要性を考えれば、すぐに結論が出る、というような話ではない。


「前例はあります、父上。他家の話ではありますが」

「調べたのか」

「調べました。リオネシアの南洋属州から。形としては帝国貴族の位階はありませんが、交易を取り仕切る家柄の」

「まとめておいてくれ。後日で構わない。陛下にお目にかかる折に頭に入っておればよい」


 アルフェネル様がはい、と頷く。すぐに出てくるような事例では、多分ない。わざわざ調べてくださったのだろうと思う。


「力は尽くすが、お許しは陛下のお心ひとつだ。ほかに打てる手はあるか?」

「殿下に――王太子殿下にお会いするときにでも、話をしてみようかと。叶うならば、ユーラリア嬢にも同席いただいて、紹介したいと思います」

「――なるほど。ユーラリア嬢、いかがかな?」


 アルフェネル様の口ぶりからすると、王太子殿下とはお話のできる間柄なのだろう。アルフェネル様が次代の辺境伯で、王太子殿下は次代の王陛下。結婚のお許しをくださるのは現王陛下であるとしても、実際に国を治める段になって臣下として働くのはアルフェネル様だ。その結婚相手を認めるかどうかに、王太子殿下の意見が反映されることは、大いにあり得る。


「はい、同席のお許しをいただけるのであれば、是非」


 そうだとするなら、ほかに選択肢はない。辺境伯家の方々が力を尽くしてくださるのなら、わたしがそうしない理由などないのだから。


「万が一のことは、アルフェネル、考えておるのか?」

「正室としてお許しが出ないのならば側室、それでも駄目ならば正式な結婚は諦めるほかありません」


 アルフェネル様が、ちらりとわたしに視線を送って答える。


「無論、側室とは言っても、その場合は正室を迎えることはないでしょうから、他の貴族家との社交では少々不便をかけてしまうかもしれません。正式な結婚ができないとなれば尚更です」


 アルフェネル様は婉曲に、ほかに妻を迎えるつもりはない、と言っている。そう気付いて、わたしの頬が熱くなった。

 でも、側室ならばまだしも、正式な結婚をしていない相手――つまりは愛人では、公式な社交の場に出ることはできない。


「わたしはそれでも、まったく問題ないのですが……その、お家として、困ったことになるのでは?」

「ですから、そうならないように全力を尽くさねば、ということですね」


 最悪でも側室としての輿入れを認めていただかなければならない、ということだ。


「あまりこういう場で口にする話ではないが、ふたりの間に子ができなかったならば、どうするのだ?」

「やむを得ません。養子を取りましょう」


 悩む様子もなく、アルフェネル様はあっさりと応じた。


「分家筋から養子を取って、我々の子として育てればよいのです。これも前例のない話ではないのですから」


 本家に子がなければ、分家から養子を取る、というのはたしかに、歴史の長い貴族の家では、むしろ普通の話だ。家を絶やすわけにはいかないのだから、そのようにする他はない。そこで側室を迎える、という方向に行かないのは、アルフェネル様のお人柄なのだろう。


 しなければならないことは、まだたくさんある。先は果てしなく長い。でも、わたしはこのひとの隣に立ちたい、と改めて思う。


 このひとの隣に立って。

 ゆうべのように、手を取ってもらって。

 そしていつか、両腕で抱きしめてもらえたならば。


 そこをわたしの、ザールファーレンでの居場所にしたい、と思うのだ。





―――――――――――――――――――――――――――――――


というわけで、このお話は一旦ここで一区切りです。

ここまでのお付き合い、ありがとうございました!

再開は未定ですが、しばらくお時間をいただければと思います!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異国令嬢ユーラリアの日記 しろうるり @shiroururi-ky

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ