最終話

 薄らと目を開けると、辺りはすっかり暗い。窓の外には痩せだした月が浮かぶ。


「……何時ですか?」


 僕は先輩の膝から頭を上げて、ソファに座り直した。こんな暗くなるまで、先輩は僕のことを膝枕していたというのだろうか。せいぜい寝れても数十分が関の山だろう、なんて思っていた数時間前の自分を殴りたくなった。いや、十数時間経っているかもしれない。


「すみませ――」

「ごめんっ!」


 僕が謝ろうと声を上げた瞬間、先輩は勢いよくソファから立ち上がり、部室から飛び出していった。

 数分して。


「ごめんごめん。ずっとトイレ我慢しててさ」


 たはは、と先輩は笑いながら部室に帰ってきた。


「すみません……。こんな時間まで寝れるとは思わず」


 僕は申し訳なさでいっぱいになった。


「我慢するくらいだったら、頭押しのけてもらってよかったのに……」


 僕が呟くと、先輩は優しい笑みを浮かべて言った。


「いやあ、あんまり君が気持ちよさそうに寝るもんだから、どかすにどかせなくってさ。案外私、膝枕の才能があるのかも。始めよっかな、膝枕屋」


 女性限定で、と付け足して先輩は笑った。僕は苦笑を返した。


「それに、ゲームとかスマホで時間も潰せたし」


 ソファに座り直した先輩の距離がやけに近い。今までゼロ距離で密着していた弊害だろうか。先輩の薄い肩が、彼女が身じろぎするたびに僕の腕に当たった。


「私もさっきまでウトウトしてたんだけどさ。前かがみになっちゃって、苦しくなかった?」

「いや、別に……」


 ふと、先輩の顔を見るとさっき以上に顔を赤く染めていた。僕はその理由を探し、一つ思い当たった。前かがみということは、彼女の胸やお腹が僕の顔に押し付けられていたということではないだろうか。それなら、彼女が照れるのにも納得がいった。僕は顔が熱くなるのがわかった。そのときに目を覚まさなかった自分を呪った。


「それで、君は良く寝れた?」

「はい。おかげさまで」


 その赤面をごまかすように早口で聞いてきた先輩に、僕は赤面のまま答えた。その言葉通り、僕の頭はやけにスッキリしていた。


「そっか。それならよかった」


 先輩は小さな声でそう言った。


「それでさ、絶対に今日来てくれ、って言ってたのって、なんだったの?」

「あ」


 僕はその言葉に今日の目的を思い出し、急いで時間を確認した。


「なに?」

「今日、オリオン座流星群があるんです。一緒に見ようと思って……」

「あ、そっか。今日が極大なんだっけ」


 先輩と会える二時間目の天文部の部室で誘おうと考えていたら、結局そのまま見ごろの時間になってしまった。


「いいよ。せっかくだし、学校で見よっか」


 いたずらっぽく笑った先輩は部室の外を指さした。


「来て。いいところがあるんだ」


 先輩は僕の手を握った。骨ばった指が僕の指に絡まる。その手が僕の腕を引く。先輩のブラウスの袖から先輩の手首が見えた。薄茶色の傷跡が覗いた。


「どこに行くんですか?」

「いいから」


 そう言って僕たちはスチールの棚をよけ、部室の外に出た。夜更けの学校の廊下は静まり返っていて、気味が悪いくらいだ。窓から月明かりが差し込んで妙に明るいのが、その気味の悪さを打ち消していた。


「こっち」


 先輩は僕の手を引いた。そこは普段は立ち入り禁止の屋上に続くドアだった。


「あれ、鍵は……?」


 先輩は鍵がかかっているハズのそのドアを開けて、屋上へと僕をいざなった。


「結構前に開けといたんだ。この階見回りもないし、一回開けちゃえば気づかれるまではそのまんま」

「へえ」


 一陣の風が吹き抜けた。流石にこの時期のこの時間ともなると、身に染みるような冷たさだった。


「あー……、結構寒いね。やめとく?」


 苦笑を浮かべて言う先輩に、僕は首を横に振った。


「これ、着てください」


 僕は冬服の上着を脱いで先輩に渡した。寒さがより身に染みるが、我慢できないほどではなかった。


「え。いいの……?」


 僕は黙ってうなずいた。先輩はおずおずと僕の制服を着こんで、ボタンを閉めようとして、合わせが男女で左右逆だからか手こずりながらもボタンを締めた。華奢な先輩が着ると、大してガタイの大きくない僕のものであってもぶかぶかだった。


「見えるかな……」


 先輩は空を見上げて呟いた。


「晴れては、いますね」

「……うん」


 僕は空を見上げながらも、なんで先輩が屋上の鍵を開けていたのかが気になっていた。よからぬ想像が加速する。


「星、あんまり見えないね」先輩は言う。

「月がまだ太ってますからね」

「……そうだね」


 先輩は手を伸ばし、その細い指で月を隠すしぐさをした。僕もそれを真似て月を指で隠してみる。親指でくしてしまえる小ささに見える月も、38万キロメートルも離れているからそう見えるだけで、実際は地球の4分の1の大きさだ。

 どんなに大きなものでも、離れてしまえば小さく見えるのはこの世の理で、まるで先輩と僕のようだと、少し思った。


「屋上、開けておいてよかったな……」


 先輩が呟く。僕の妄想はその一言で霧散した。もう、きっと、先輩はこの屋上をよからぬことで使うことはもうないだろう。そんな予感がした。


「そういえば、こんな時間にここに居て、家の人は大丈夫なの?」


 先輩が先輩らしいことを言う。すっかりそのことを失念していた僕は、スマホを取り出してラインを開く。やはり親からメッセージと着信が何件か入っていた。そのほとんどがどこにいるのか、ご飯はいらないのか、という内容だった。僕はそれに、『友達の家に急に泊まることになった』と、メッセージを返して、スマホの画面を閉じた。


「大丈夫でした」

「そっか。これで、君も私も晴れて不良ってわけだ」


 不良か。彼女の言い回しを噛みしめる。なんだか悪くない気がした。


「あ!」先輩が空の一角を指さした。

「見てた?!」


 先輩がぼっくの方を見て嬉しそうにはにかんだ。僕は注意がそれていて見ることはできなかった。僕は首を横に振った。


「なあんだ」


 先輩はまた空を見上げた。


「あっ!」

「あ」


 今度は先輩と僕の声がそろう。


「流れたね」

「流れましたね」


 先輩と僕は顔を見合わせて笑った。


「……生きててよかったこと、あったかもな」


 夜に溶けるような小さい声で先輩が言った。先輩の細い指が僕の指に絡む。いつの間にか僕の手は冷えていて、先輩の掌の熱がじんわりと僕をほぐした。


「次見れる大きい流星群はふたご座流星群かな」


 先輩は僕の眼を見て言う。


「もう次の話ですか?」

「自殺の話するより健全でしょ」

「……まあ、そうですけど」


 先輩の指がもぞもぞと僕の手の中で動いた。


「ここでクイズ! ふたご座のα星は?」

「カストル、ですか?」

「そう、正解」


 唐突に始まったクイズに僕は答える。


「カストルってさ、連星なんだよね。ふたご星ってやつ」


 そんなトリビアを披露する天木美空は楽しそうだった。彼女と出会ってから今までで、一番生き生きとした表情をしているかもしれない。


「すごいよね。ふたご座の星がちゃんと双子なんだよ。キャラ守ってて偉いよね」


 そう言って先輩は笑いながら空を見上げた。


「連星って、運命共同体なんだよ。お互いの重力に引かれあって、最後は衝突して超新星爆発。すごいよね、宇宙って」


 僕はその言葉にふたご座を探した。オリオン座の左上に見えるはずだ。連星。お互いの重力に引かれあう星。僕らのことのように思えたが、それも少し違うかと思い直す。僕は先輩の重力に引かれているが、彼女は一体どうなんだろう。手を握ってくれるその気持ちが、決してマイナスなものではないのはわかるが……。


「流れ星も見れたし、戻ろうか。冷えちゃった」

「はい」


 しばらく空を眺め、僕と先輩は手を繋いだまま部室に戻った。


 葉桜がまだ冷たさを孕んだ風に揺られる。枝に残った花弁が風に乗って宙に舞う。ふわりと着地した先にはアスファルトを埋め尽くす、先に散っていった花弁たち。アスファルトの上に桜色の絨毯を作り上げる。

 あれから、数か月が経った。先輩は出席日数が足りずに留年。僕と同学年として春を迎えることになった。先輩――いやもう同学年だから美空さんと呼ぶべきだろうか――は何の因果か、僕と同じクラスになった。


「礼二。行こう」

「はい」


 放課後になると、僕の席にやってきて、美空さんは親指で後ろを指し示し僕に離席を促した。美空さんと連れたって特別教室棟に向かう。職員室の奥の渡り廊下を抜け、特別教室棟の階段を上がる。天文部の部室には相変わらず誰もいない。ここで下校時刻になるまでだらだらとするのが僕たちの日課になっていた。天文部は相変わらず幽霊部員ばかりだ。見学に来た新入生たちも、最初のうちは部室に顔を出していたが、僕たちのやる気のなさを見てだんだんと参加しなくなっていった。今じゃ、気が向いたら来る、という者が四人いるかどうか、というくらいの規模だ。

気まぐれを起こした何人かがこの部室に来る日は、美空さんは決まって来ない。やはり、この部室で他人と会う、というのがトラウマのせいで難しいようだ。ではなぜ僕ならいいのかというと、その答えを本人に聞いてみても誤魔化されてしまって一向に分からなかった。


「今日は、これかな」


 美空さんは棚から星にちなんだボードゲームをとりだしてテーブルに広げた。以前、家庭向けのハードでテレビに繋いで遊んでいたところ偶然教師に見つかり――音量が急に大きくなってしまって、その音でバレたのだ――危うく廃部となるところだったが、その犯人が学校にとって強く出にくい天城美空ということもあって、教師陣は強く出れず、天文部らしいゲームであれば許す、いうぬるい処分になったのだった。


「好きですね、それ」

「面白いでしょ?」

「いや別に」

「なんだと!」


 なんて平和なやりとりを交わして、僕たちは下校時間になるまでそのボードゲームに熱中した。


 日もすっかり沈み、下校時間になった。僕と美空さんは昇降口で外履きに履き替え、手を繋いで校門を出た。

 無言で歩く美空さんの横で、僕はいつものように妄想する。もしも今、隕石が落ちてきたら。そうしたら多分僕は、周りの連中が絶望に泣き叫ぶ中、その時になってようやくこう言うだろう。

 ――美空さん、あなたが好きです。

 と。

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連星 雨田キヨマサ @fpeta

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