脱字の恐怖

霧原ミハウ(Mironow)

脱字の恐怖

 冬のモスクワは、粉のような雪が舗道の縁にたまって、誰かのため息みたいに灰色に沈んでいた。

 五年生のマクシム・シーシキンは、その灰色を一瞥しただけで教室に滑り込み、班長の腕章を直す。彼は頭の回転が速く、算数では誰にも負けなかったが、癖が一つだけあった。やるべきことを九割で済ませ、残りの一割には「あとでいい」と黒板の隅に置きっぱなしにする癖である。九割で回る世界は多かった。だから彼は、たいてい勝った。

 その日、学級の壁新聞の当番はマクシムの班だった。壁新聞は、壁に貼られて初めて威力を発揮する。剥がせば、ただの模造紙だ。彼は机を二つ並べ、紙を広げ、赤いマジックを女子から借り受けた。

「まず冒頭。しきたり通り、同志を称える言葉を太い字で」

 マクシムは指揮者の杖のように赤マジックを振って指示を飛ばす。

「キリル、スローガン。アーシャ、イラスト。パーシャ、算数トーナメントの結果表。僕は全体の構成を見て、校閲は…あとで一気にやる」

 「あとで」という言葉は、彼の口の中で甘い飴玉のように転がった。

 キリルは舌を出しながら、表紙のスローガンを書き始める。赤い線が模造紙に走り、力強い言葉が浮かび上がっていった。女子は花と工場の煙突を描き、パーシャはトーナメント表の勝ち抜きをきっちり線でつないだ。別コーナーでは、遅刻常習のターニャを軽く揶揄する韻文が生まれ、成績不振の子には「がんばろう!」の大きな丸文字。労働者を喜ばせる言葉は、子どもなりに背伸びして選ばれた。教室の空気は、赤と黒と鉛筆の木の匂いで満たされた。

 すべてが整い、模造紙は壁に掲げられた。拍手が起き、担任のガリーナ・イワーノヴナも、まずは満足げに頷いた。だが、ほんの少し眉を寄せ、前に進み出る。

「よくできました。ただし……」

 彼女は赤いスローガンの最初の一行に指を置く。教室の空気が、しんと冷える。

「ここ。労働者を賛美するこの文。字が一つ、抜けています」

 キリルの耳が赤くなる。マクシムは喉の奥で小さく咳払いをした。

「担当はキリルですが」

「班長が全責任を負うのです、マクシム・シーシキン」

 イワーノヴナの声は柔らかかったが、芯の通った線があった。責任、という言葉がチョークの粉みたいに空中に舞う。

 放課後、クラスのざわめきが廊下へ流れ出ると、教室にはマクシムと模造紙と赤マジックだけが残った。窓の外は薄雪で、街灯が点る前の藍色がじわじわと満ちてくる。マクシムは椅子に足を絡ませ、脱字の箇所を慎重に直した。手は早かった。赤い線が、欠けた骨に肉を足すみたいに形を整える。

 終わったとき、彼は時計を見て、肩を回した。

「ふう。間に合った」

 反省、という厚い本は、彼の机の上には開かれなかった。閉じたまま、埃をかぶっている。


 ――三十年後。


 深夜二時、出版社の編集部は、紙と光でできた海のようだった。蛍光灯が唸り、輪転機の準備の気配が床を震わせる。編集長となったマクシム・デニソヴィチ・シーシキンは、最後の入稿を見届け、背もたれに身体を預けた。背中に硬い疲労が貼りついている。国境問題に関する大部の書。国家の公式見解に寄り添いながら、事実の配列で一ミリもつまずかないように積み上げた、一年がかりの本だ。

 電話が鳴る。夜の静けさを、金属の棒で叩いたような音。

「はい、編集長」

『マクシム・デニソヴィチ、先ほどの校閲戻しですが、重大な可能性が。国境問題に関する重要な見解の章で脱字があるかもしれません。それから、ほかに二か所――』

 耳の奥で、五年生の教室の冬が、ふいに起き上がる。赤い線、欠けた骨。マクシムは椅子を蹴るように立ち上がった。

「誰が見た? 校閲は? 当該ページのゲラは?」

『確認中で……』

「確認『中』じゃなくて、確認『済』をください」

 受話器が湿っていく。彼は次々と番号を押す。念校を見た校閲者、第二編集、製版、夜勤の整理。呼び出し音が均質に続き、誰も出ない。コール音は、空白を増殖させる音だ。空白は脱字の巣だ。脱字は自己主張の控えめな犯罪で、しかし国家の本では死刑に等しい。

 マクシムは腹の底から冷たさが立ち上がるのを感じた。机の端に置いたコーヒーは、紙の匂いを吸って薄くなっている。彼は決裁を打電する。

「印刷、いったん止めろ。差し止めだ。版を凍らせろ」

 電話が鳴った。受話器が手のひらで汗を吸う。

『編集長、該当箇所、念校で修正済でした。念校の赤字、拾われています。二か所のうち一つは誤報、もう一つは句読点の打ち換えでした』

 息が戻るのに、少し時間がかかった。背もたれが、さっきより柔らかい。マクシムは笑いをつくり、声に筋を通した。

「よし。ありがとう。お疲れさま」

 電話を置いても、胸の中の時計は止まらなかった。針が、一画ずつ、紙の上の小さな骨を確かめに行く動きで刻み続ける。

 それからである。マクシムは、何を見ても脱字を探すようになった。エレベーターの「定員」の札に、棒が一本足りないのではないかと思える。コーヒーのパッケージの成分表示で、砂糖の「砂」が砂場に置き去りにされたように見え、説明書の「強く押す」の「強」が筋トレをサボった日みたいに頼りない。街角の看板は、風に晒されるたびに一字ずつ薄くなり、単語は骨ばかりになっていく。

 夜、地下鉄の通路に貼られた歴史展のポスターに、彼は釘付けになった。大きな見出しに「粛清(Чистка)」の二文字。――その「粛」の縦画が一本、薄く、ほとんど消えかけているように見えた。汗が、ふっと背中を走る。ほんの一画が欠けるだけで、言葉は別の生き物に変わる。生き物は、牙を収めているふりをして近づいてくる。

 彼は指先で空中に一本の線をなぞった。何度も、何度も。通行人が脇目もふらずに通り過ぎる。彼には、その一本が、彼自身の心臓の脈とつながっているように思えた。


 ――さらに十年後。


 街は変わった。看板は貼り替えられ、軽くて丈夫な新素材になった。革命や戦争の書物は、値札を何度も貼り替えられて、古着屋の棚みたいに身丈を縮めて並んでいる。マクシムは出版社の肩書を半分降ろし、昔よりゆっくり歩くようになった。寒い朝、彼は自分の手袋の親指が傷んで糸が一本出ているのに気づく。それさえも、一本の縦画のように見える。

 通りの角に、古い団地の掲示板があった。掲示は新しく、掲示板だけが古い。木の枠は乾いて軋み、ガラスは細かい擦り傷だらけ。そこに、地域の歴史講演会のチラシが貼られている。見出しの『粛清』——その『粛』の一本が、誰かの息で曇ったガラスに吸い込まれる。光の加減か、印刷の機嫌か、目の疲れか。理由は三つとも正しいようで、三つとも嘘のようだ。

 彼は思わず、ポケットからペンを取り出しそうになり、やめた。ガラス越しだ。インクは届かない。届かないのはインクだけではない。五年生の教室の冬も、夜中の念校も、届かないところで音を立てている。耳を澄ますと、昔の担任の声がする。「班長が全責任を負うのです、マクシム・シーシキン」。彼は笑おうとした。小さな、機械仕掛けの笑いが喉で止まる。

 雪が降り始めた。粒は小さく、音もなく降りる。チラシの見出しに、白が点々と付く。その白は、消えた画の代わりにはならない。白は白であり、空白の親戚だ。空白は、脱字の遠い親戚で、家族写真の端に必ず写っている。

 帰り道、彼は自分の名前を書かされた。宅配の受け取り。ボールペンの先が紙に沈み、「マクシム・デニソヴィチ」の「ム」が、途中で少し細くなる。彼は一瞬、心臓を落とした。受け取りの青年がにこやかに言う。「サイン、ありがとうございます」。彼は笑い、頷いた。ペン先の黒が乾いていくのを見守りながら、腹の底で、一本の画を探していた。

 家に戻ると、テーブルの上に朝の新聞が開きっぱなしだった。見出しの活字は整っている。キッチンで湯が沸く音がした。彼は立ち上がり、ポットを持ち上げる。湯気が眼鏡を曇らせ、世界が白い膜の向こうに遠ざかる。曇りがゆっくり薄れ、輪郭が戻るとき、壁のカレンダーに大きく刷られた言葉の中に、やはりあの二文字を見つけてしまう。「粛清」。今度は完全だ。一本も欠けていない。なのに、彼の背中は、欠けた形の記憶だけで震える。恐怖は、現物を必要としない。恐怖は、活字と活字の隙間に住み、そこからこちらを見ている。

 夜、眠りの手前で、彼は思い出す。五年生の教室。赤マジックの匂い。指先に残った赤い線。キリルの横顔。ガリーナ・イワーノヴナの声。冬の窓。模造紙の白。あのとき直した一本の画は、どこへ行ったのだろう。模造紙の上に留まり続けたのか。風に剥がれ、廊下の角で埃になったのか。それとも、彼の胸のどこかに入り込み、必要なときに一本抜ける芸当を覚えたのか。

 世の中は変わった。当時の重たい本は二束三文で積まれ、看板は新しく塗られ、歴史の語り口も軽くなった。だが、世界のどこかには、字の欠けた「粛清」が、きっとまだ貼られている。彼が見に行かなくても、誰も気づかなくても、雪に半分隠れていても。――その可能性だけで、マクシム・シーシキンは、ふいに身震いする。

 世界から一本抜けるたび、彼の中で一本が欠ける。校閲印は永遠に「保留」のまま、白い余白だけが増えていく。


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