第1話:ゼロの太陽

黒山春馬は、喫煙所の薄暗い光の中で、苛立ちを隠せずにタバコの灰を払った。 「ダメだ。全員、技術はあるが、肝心な『ゼロ』がない」


彼の新作長編映画のタイトルは『ゼロの太陽』。 テーマは「感情を喪失した世界で、ただ一人、世界と感情の間の壁になっている少女」だ。 オーディションは三週間を費やしたが、主役の少女役、通称「ゼロ」を見つけられずにいた。


役者たちは皆、「悲しむ演技」「怯える演技」はできる。しかし、黒山が求めるのは、「悲しみを知らない演技」だ。感情があるからこそ生まれる技術的な演技ではなく、感情の「絶対的な欠損」から来る存在感。


「監督。あと一人、滑り込みでオーディションを受けたいって子が来てますけど」 プロデューサーが渋い顔で言った。 「事務所の紹介じゃない、飛び込みですよ。年齢は高校生。履歴書もまともじゃない」


「どうせ時間の無駄だ」黒山は吐き捨てた。 「その子もまた、上手な『演技』を持ってくるだけだ。俺が欲しいのは演技じゃねぇ。俺が欲しいのは――」


黒山は言葉を切った。彼の胸の奥にあるのは、この映画を完成させることへの狂信的なエゴだ。この映画は、彼自身の監督としての「最後の賭け」なのだ。


オーディション会場に戻った黒山は、そこで待っていた少女を見た。


彼女は壁際で椅子に座り、まるで空気のように存在感を消していた。 夜凪景。名前だけが、その履歴書の隅に小さく印字されている。


彼女の顔は、日本人離れした整った造形美を持っていたが、瞳には何も宿っていなかった。それはまるで、完璧に磨き上げられたガラス玉のようだった。美しいが、内側に光がない。


「いいか、夜凪」 黒山は疲れた口調で言った。


「台本は読んだな。ゼロは、感情を一切持たない少女だ。お前には今から、この部屋で、人生で最も恐ろしい出来事を経験するゼロを演じてもらう。演じられるか?」


夜凪は無言で頷いた。その動きすら、感情を伴わない自動人形のようだ。


「よし。スタート」


黒山が合図を出した瞬間、夜凪の「演技」が始まった。


少女は動かない。ただ座っている。 だが、その空間の温度が急激に下がったように感じられた。


黒山は、夜凪の瞳を見た。 その瞳は、何か恐ろしいものを凝視している。 それは、恐怖そのものではなく、恐怖が襲い掛かってきた結果、その恐怖が「無意味な現象」として処理された後の、「静止」だった。


黒山春馬の胸に、かつて感じたことのない衝撃が走った。


(なんだ、これ。こいつは――)


彼女の演技は、技術ではない。感情の再現でもない。 それは、夜凪景という少女の存在そのものが、 『ゼロの太陽』が求める「空白」を、そのまま具現化していることに他ならなかった。


(俺の探していた「ゼロ」だ……! これは演技じゃねぇ。これは、才能という名の、病だ!)


黒山は、彼女の才能をフィルムに焼き付けたいという、監督としての強烈なエゴに突き動かされた。


「夜凪景」 黒山は震える声でその名を呼んだ。


「お前は、俺の『ゼロの太陽』だ」

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エチュード・アクトレス @ruka-yoiyami

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