小説 月が綺麗と伝えたい

紅野レプリカ

月が綺麗と伝えたい  (著:紅野レプリカ)

月明かりが降る夜のこと



「月って触れられないから綺麗なのよね。人も同じだわ。触れられないくらい尊い人は美しく思うわ」


 僕の横で彼女はそう言った。


「月の裏側が醜かったら人は月を嫌うかな?」

「いや。きっとそれを知らないふりする」

「どうして?」

「だって、好きな人ってその人の嫌いな部分とか醜い部分があったとしても好きでしょう。もしそれが本当に嫌だったとしてもきっと見ないふりするわ」


 彼女は細い指先で月の輪郭を指すようになぞり始めた。


「綺麗ね…。やっぱり人と同じで,毎日見ると自然と惹かれるものが月にもあるわ」

「月と人はやっぱり似てるのかな?」


 彼女は腕を下ろして、月を眺めながら口を開いた。


「そうね。人にも月にも見えない裏側があって,知ってる部分と知らない部分があって,人の心と一緒で満ち欠けもある」

「そう思うと月と人って似てるかも」

「人って自分一人じゃ輝けないわ。月も同じ。太陽っていう自分を輝かせてくれる存在がいて初めて輝ける。そしてその光を独り占めするんじゃなくて私たちに分けてくれてる。私たちも同じよね、誰かに元気をもらって誰かに元気を与えてる」

「月って自分以外の存在に生かされてもいて,自分以外の存在を生かしてもいるんだね。でもなんかあの月悲しそう」


 僕はあの月に指を指した。


「どうしてそう思うの?」


 彼女は聞いてきた。


「だって暗い夜空の中独りぼっちだから」


 彼女はフフッと笑った。


「なんで独りなの?私たちがいるじゃない。きっと私たちがいるから月は毎日そこにいてくれているわ。きっと私たちみたいな月を見上げる人がいなくなったら月も無くなるわ」

「じゃあ、ありがとうを伝えないとだね」

 そう言うと月は照れたように雲に隠れた。

「あっ、隠れた」

「照れ屋さんだったわね」



 夜の静けさが数秒続いた。


「『月が綺麗ですね』って言葉聞いたことある?」


 一瞬心臓がキュットなった。


「あ、あるよ。確か夏目漱石が『I love you』を意訳した言葉だよね?」

「そう。やっぱり人…まぁ好きな人と月の関係は深いわね。私たちはその言葉に対して何も違和感を持たない。まるで好きな人と月が関係があるって生まれつき脳に定義づけられているようね」


 月が雲に隠れたため彼女の表情がうまく見えなかった。


「月と好きな人か…。ねえ僕たちと月の距離って近いかな?遠いかな?」

「どうしたの急に?」


 彼女は少し笑ったように聞いてきた。


「好きな人と月が似てるならさ、あの月までの距離は遠いのかなって。好きな人との距離はいつもどっちつかずで近づこうとすると近すぎて、少し離れようと思うと遠すぎることがあって…。しっかりと距離が知れたらいろいろうまくいきそうだなって思って」

「好きな人でもいるの?」


 再び月明かりが差し、彼女の顔を照らした。


「好きというか少し気になる人が…」

「あらそうなのね。その人との距離はどんな感じなの?」

「さっき言ったのと同じで、近くもなく遠くもなくって感じ。本当に月と似てるよ。いつもそばにいて照らしてくれるのにいつも手が届かないところにいる。でも太陽とか他の天体に比べたら月って近いよね。その人もそんな感じ。周りの人と比べたら距離は近い」

「そうなのね。きっとその人はあなたにとってとても尊い人なのね。そういう人は届きそうって手を伸ばし続けても届かないものよ」


 彼女は月に向かって細い腕と手のひらを伸ばした。


「でもね、無理って思っても手を伸ばし続けるといつかは手が届くものよ。きっと数百年前の人は人が月に行くって思いもしなかったと思うわ。昔から人はこうやってずっと月に手を伸ばし続けてきた。触れられなくても追いつけなくてもずっと手を伸ばしてきた」


 彼女が月に向けて腕を伸ばしているのを見て、僕も手を月に伸ばしてみた。目の前にある月は掴めそうなくらい近くて、でも実際は掴めないくらい遠くて。


「でも人間的な理由かも知れないけど、その人に手を伸ばすことができないんだ。自分なんかがあんなに美しい月に手を伸ばしてもいいのか、もし触れてしまったら汚してしまうんじゃないかって、その人に対して思ってしまうんだ。もし僕が美しい地球の青さみたいに誇れる良さがあったららきっと自信を持って手を伸ばすのになぁ…」


 彼女はまたもフフッと笑った。


「いつにも増して悲観的ね。大丈夫よ。あなたが思ってるよりあなたは良さがあるわ」


 "大丈夫""良さはある"誰もが言いそうな言葉だった。


「さっきあなたは『地球の青さみたいに誇れる良さ』って言ったけど、それはあなたから見た地球だわ。きっと地球本人から見たら、私は汚いとか私は一人では輝けないとか思っているわ。でも月から見た地球ってとても綺麗よね。自分の良さなんて自分から見たらわからないものよ。自分は良さがないって思ってもきっと周りの人から見たら良さがあるわ」

「自分自身に自信がないところが僕は嫌いなんだ」

「大丈夫よ。私はあなたが自信がないからって言って、一生懸命自信を持とうと悩んでいるところも好きよ」


 僕は彼女の方に視線を移した。



 彼女は月を眺めていた。

 僕も月を眺めた。僕にとっての彼女は目先にある月よりも月のようだった。


「ありがとう」

「あら私は何もしてないわよ。いつかその子に手が届くといいわね」

「それなんだけどさ…」

「ん?どうしたの」

「いや、やっぱなんでもない」


 僕は喉まで登ってきていた言葉を喉の真下に隠した。


「何よ、気になるわ」


 僕は月を見た。今日は満月だった。欠けていない綺麗な丸だった。あと数時間後には朝が来てこれは見えなくなってしまう。手を伸ばし続ければいつかは届くって、月が無くなったらそれは叶わない。

 目の前の月は綺麗だった。だから、

 僕は月が綺麗というのを直接的な表現で彼女に伝えた。

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