母の手のぬくもりは作れない

ナキヒコ

母の手のぬくもりは作れない

 芳賀は、舞台の袖で自分の掌を見ている。

 真ん中にホクロがある。それを中心に人と書く。

 子どもの頃に、母親から習った緊張を解くまじないだ。動悸が収まると同時に、頭がクリアになる。この講演で話す内容が、順を追い鮮やかに浮かび上がった。論理も順序も各ブロックも明快だ。

 テーマは、『マシンは人の限界を超える』。

 壇の中央でいまスポットライトを浴びているのは、彼を招いた市長だ。

「長いっすね……」後ろにひかえるスタッフの青年が呟く。同感だ。

「芳賀忠之教授は、この町で育ち、ロボット工学の天才として世界に羽ばたき……」

 母の十三回忌が偶然この日だ。墓参りがてらに講演のオファーを受けた。

「教授の手により、もうすぐ完成するロボット『マザー』。子育てから介護、医療の分野まで、すべて手助けしてくれます。ゆとりある未来はすぐそこです。……では、芳賀教授のお話をうかがいましょう」

 『マザー』が完成すれば、「ゆとりある」どころか退屈な社会が到来するだろう。

 彼女はあらゆる人の記憶を読み取り、最高の人格と温かい心を保ちながら不眠不休で尽くしてくれる。人はゆりかごに寝そべったまま、墓場まで行くことになる。

 時計は三時三十分をさす。市長が話した三十分間、人類の救済も遅れるわけだ。

 芳賀は、講演を早めに切り上げることに決めた。墓参りもキャンセルする。

 恰幅のいい女性市長がこちらを向き、目が合う。母もあんな体格だった。

 ふと、掌のホクロに目が行く。

 そのとき足下を白い何かが通り過ぎた。

 歩きかけた足を止め、振り返る。後ろのスタッフの目が見開かれている。

 芳賀と青年の間に、身長三十センチほどの人型の生き物がいる。全身が白い。裸なのか服を着ているのか、判別できない。「誰だ?」と、思わず声をかける。白い生き物がぱっと振り返った。赤児のような顔。

 つぶらな黒い瞳と目が合う。

 次の瞬間、芳賀は頭を何かに押されたと思った。

 視界が闇に閉ざされる。鼻の奥がつんとなり、自分が起きているのかどうかすら分からない。複数の足音。生温かい何かが頭から垂れる。痛みはない。

「照明が落ちてきたんだ!」「救急車を……」「……いま、そこに白い大きな人がいなかったか?」

 声は聞こえるが、理解できない。そして何も分からなくなった。


 芳賀は目を開いた。暗い。いつまでも目が慣れない。

 失明でもしたのか。ぞっとする思いで掌を開く。闇の中にホクロが見えた。光を感じないが、自分の身体を知覚できている。

 腕時計も動いている。午後四時ちょうど。意識を失ってから三十分経っていた。

「本来あなたは死ぬはずではなかった。振り返ってしまったのは不手際でした」

 足下にちらりと白いものが見えた。向くと、暗闇に赤児のような白い顔が浮かび上がっている。さきほど見た生き物だ。咄嗟に一歩下がろうとしたが、足が泳ぐだけで地面を感じない。

 ふっくらした頬の白いひとは、すっと遠ざかり、正対した。

 長い睫毛の目が瞬きをする。

「私は、死んだ? だとすればここは三途の川か。お前は死に神か何かか?」

「はい、あなたはお亡くなりになりました。あとの二つの質問については、遠からずといったところでしょうか。このたびはとんだご迷惑を。後ろにいた人が亡くなるはずでした。よりによって、あなたがいるとは思わず」

 つるりとした純白の身体だ。申し訳なさそうにうつむく。この仕草への既視感が、検査機器メーカーの営業マンに思い当たる。

「申し訳ないと思うなら、すぐに生き返らせてくれないか」

「お気の毒ですが、あなたの身体はもう火葬されました。地上と、ここの時間の流れは違うのです。急いでお招きしたのですが、間に合わず」

 白い手が額を叩いている。それを見て、芳賀は時計を耳に近付けた。手を叩く。何も聞こえない。ここには音はないが、言葉が通じている。尋常ではない。

 死んだというのは、本当らしい。

 母の十三回忌など捨て置けばよかった。つくづく、母にたたられる生涯だ。

 そして、人生最後の三十分を無駄に過ごしたのが我慢ならない。

「どうしてくれるんだ。私の研究は、人類を救うものだった」

 『マザー』が完成すれば、次は人間の内部をマシンに置き換えていく研究にシフトするつもりだった。すべて彼女の世話になりながら。

「ええと……。あなたには、こちらがどう見えていますか?」

「赤児のように見える」

「それでしたら、いいでしょう。亡くなりそうな方がいらっしゃいます。そこに移って人生をやり直しますか? 特別に新しい命を差し上げます。……母親の愛を一身に背負う少年です」

 芳賀はため息をついたつもりだが、音も手応えもない。

「母親の愛、ね」

 芳賀は掌を見る。このホクロは母の遺伝だ。

 母子家庭だった。

 最初の一杯までは機嫌が良くても、ビールの空き缶が増えると、いずれ手が出る。酒臭い「おかえり」が彼を出迎える日々。友達を家に呼んだ記憶もない。

 結局、彼は施設に保護された。テーブルの上に綺麗に並ぶ空き缶。床にへたり込む背中。それが最後に見た母と、二人の家だ。

 今も缶ビールの開く音に鳥肌が立つ。

「そんなものがあっても、幸福といえるのかな」

「あなたをここに置いていく訳にはいきません。私と一緒に無の世界へ旅立つのがご希望なら、すぐにお連れしますが」

 白い手が差し伸べられた。芳賀は首を振る。

「それは脅迫か?」

 白いひとは手を引っ込め、顔を上げた。目が細まり、顔から赤児の気配が消える。

「では、あなたの本来の寿命は保証することにしましょう。亡くなれば、またここにお連れしますので、それから、改めて別の人生をお選びいただけます」

「どんな死に方でも?」

「もちろんです」

 腕を組み、考えようとしたところで苦笑いが浮かぶ。死人が今更リスクを勘定して何になる。彼は母の愛とやらを知らずに『マザー』を作った。完璧なロボットだと自負しているが、一度比べてみてもいい。

「ただ、記憶の持ち越しは、できないことになっています」

「わざわざ消す必要があるのか」

「あなたも科学者なら脳についてお詳しいはず。あれは独りのものなのです」

「では、俺は消えるのか」少し話が違う。

「あちらでどれだけ生きるか次第かと。ああ、もうお亡くなりになります。急がないと。お待ちになるのも結構ですが、次のチャンスがいつ来るか分かりませんよ」

 芳賀は、掌のホクロに人を書いた。

「たっくん、ホクロお母さんと同じだね」

 母が笑って手を繋いでくれた、夕焼けの帰り道が蘇る。なぜか今、それが思い出された。『マザー』は手を繋ぐことを起動条件に設定した。そこにスイッチがある。一号機は彼の掌紋認証だ。

 心の整理をつける前に、白いひとの言葉が頭に響いた。

「まだ間に合いますよ」

「分かった、行こう」


 義男は掌を見ている。染み一つない乾いた薄っぺらい手。少し黄ばんで見えるのは黄疸だ。裏返した甲はひび割れ、粉をふいている。点滴の針とルートの接続部分に浮いた血に変わりはない。頭を巡らすが、見慣れた個室だった。ベッド脇の点滴台は四つのまま。口の中がカラカラで何も匂わない。

 自分が眠っていたのか、昏睡していたのか、はっきりしない。

 ベッド右手の柵に吊り下げた腕時計は、五時三十五分をさしている。昨夜辺りから、記憶が途切れていた。

「よっちゃん、起きた?」

 母の声は、何かを堪えるように震えていた。向くと、いつもどおりベッド左の丸椅子に座っていた。目が潤んでいる。

 微笑む母の頬にさす赤みで、午後の五時だと知る。

「うん」喉がいがらっぽい。「挿管した?」

「ちょっとだけね」

「挿管に、ちょっととかあるの?」義男は吹き出してしまう。

 やはり危なかったようだ。

「……そうだけどさ。痰を吸ってただけみたいだよ。うん、もう大丈夫だからね」

 母もメイクの崩れた顔に笑みを浮かべる。目の下にうっすらとクマがある。寝ていないのだろう。

 十六のこの年まで、何度危ない場面があったか分からない。ただ、不思議と死を感じたことはない。前も大丈夫だったから今回も、の繰り返しで、重い内臓の病気に耐えてきた。決してネガティブなことを言わない、母の明るさにも助けられていると思う。

「ごはん、もうすぐ来るよ。今日はミカンの缶詰あるみたい」

「食欲がないよ。また吐いちゃうなぁ。母さん好きなんだから食べなよ」

「これ以上母を太らせて、何をしようというのかね」

 恰幅のいいお腹をぽんと叩く。義男は「また言ってる」と言い、テレビに目を向けた。「テレビつけてよ」今回の入院で寝たきりになり、一ヶ月が経つ。過去の経験から、次歩くときには歩行器が必要だ。リハビリでは指の全ての関節が軋む。

 あの鉄の輪で締め付けられるような感触が蘇り、足がつりそうになった。

「ほんと、このお肉分けたげたいわ」

 母の言葉に「いいなぁ」と苦笑する。痩せこけた背中から、ひりつく痛みが絶えない。突き出た肩甲骨、背骨、骨盤の床ずれだ。

 画面の中では、有名な科学者が亡くなったというニュースが流れている。

「この人のロボットができたら、母さん楽できそうなのにね」

 母の首がかくかくと動いてこちらを見る。ロボットの動きを真似ている。

「誰ニモ任せるつもりはないヨ」平板な声で言いながら、足をさすってくれた。

「そのしゃべり方、ロボットじゃなくて宇宙人じゃない?」

 母はずっと義男に付ききりだ。父は出張が多く、いつも不在。寂しいとは思わない。母を独り占めしているのは義男で、寂しがる資格があるのは父の方だ。

 高校のクラスメイトが送ってくれた寄せ書きが、テレビの前に立て掛けてある。入学式から一週間だけ通い、あとはずっと入院で今に至る。寄せ書きの名前を見ても誰の顔も思い出せない。向こうも同じだろう。

 色紙が少し画面に被り、正直邪魔だ。母はそれを動かそうとしないし、義男も何も言わない。あそこに戻るという二人の道標だ。


 食事が運ばれてきた。今日は意外に食が進んだ。しかし、缶入りのカロリー飲料を開けた瞬間に、もどしてしまった。

「このプシュッて音がなんか、だめみたい。こんなの初めて」

 思い出すだけで、耳に針金を差し込まれるような感覚が襲う。

「ちょっと、過敏になってるのかも。次から紙パックにしてもらおうね」

 いつものように母がすべて片付けてくれる。終わって時計を見ると、六時十五分。

「一日、長いなぁ」

「お母さんにはあっという間だよ。よっちゃんも元気なときは、そうでしょう」

 母の手が顔の前を通り、額を撫でてくれた。暖かく湿っている。母の掌の真ん中にはホクロがある。これまで何とも思っていなかった。今はそれに、なぜか胸がざわめく。嫌な感覚ではない。不思議な懐かしさのようなものが胸に広がる。


 近頃はぼんやりすることが増えた。いつ眠っているのか自分でも分からない。

 いつも食事を吐いた。固形物を吐くのは苦しい。でも、飲み物はそうでもない。

 最近の楽しみは、牛乳を一気に飲んでそのまま吐くことだ。胃と口を瞬時に往復するだけだから、出るものの見た目も悪くない。

 いつの間にかそれが気持ち良くなった。


「ごめんね、よっちゃん」

 母が牛乳を流しに捨てている。

「いいよ。お母さん、飲んだらいいのに」

 牛乳は禁止された。そもそも、四台も点滴に囲まれていれば水分の補給は十分だ。

「あんだけオエーってされたらさぁ。もう、お母さんしばらく牛乳飲めません!」

 二人で顔を見合わせて笑う。

 笑顔の頬がそげて見える。いつから、こんなに白髪があっただろうか。

 義男はその夜から歯を食いしばって食事をとる。

 このところ不思議と、どこにも痛みを感じない。いつもぼんやりと寝ているのか起きているのか自分でも曖昧だ。

 ある消灯後の夜、部屋の隅に白い人影が佇んでいるのを見た。ひさしぶりだ。あれは、他の人には見えない。身体が辛いときに見る夢なのかなと、考えている。


 点滴台が二つ減った。よくなっていると実感する。汗をかくようになり、匂いも気になり始めた。

 しかし、背中や下半身の痛みがぶりかえしている。

 なぜか無性にイライラする。思い通りにならないと、つい大きな声が出る。腹が立つのではなく、強い言葉が勝手に口をつく。初めての感覚だった。

 うとうとしていて、目を覚ますと、四時二十分。部屋に母の姿がない。

 五分ほど待つと、よそ行きの格好の母が戻って来た。買い物袋を下げ、「ただいま」といつもの椅子に腰を掛ける。化粧と柑橘系の香料、そして消毒用のアルコールの香りが鼻についた。長く伏せっていると、普段感じない外の空気が匂う。

「どこ行ってたの」つい、詰問口調になってしまう。

「お買い物だよ。ほら……」と母は声を潜める。「牛乳も買ってきたから、ちょっとずつ飲んでみよう?」

 買い物袋から、冷蔵庫に色々なものが移っていく。

「いない間に僕が死んだらどうするの」

 はっとしたように、母が顔を上げる。みるみると表情が曇った。

「ごめんね、もう行かないから」

 ホクロが見え、額に少し冷たい母の手が添えられた。義男は払いのけてそっぽを向く。柵に吊った腕時計が揺れている。四時三十分。それをむしり取り、壁に投げた。柵に勝手に拳が出た。手を生温かい何かが伝う。柵にヒラヒラとしたものがへばりついている。手の皮だ。訳が分からないまま、また柵を殴る。白い壁に赤い点が散る。


 少し眠っていた。かすむ目をしばたたかせる。部屋は薄暗い。右を見るが時計はなかった。廊下の明かりが少し差し込んでいる。ドアが開いていた。潜めた声が届く。

「離脱症状で……」「モルヒネ……」

 痛みもなく、心安らかにいられたのは薬のおかげだった。

「どうしてあげたらいいのか、分からなくて……」母の低い涙声が耳に入る。

 義男は自分の治療について、ほとんど聞いてこなかった。いつも母一人が、医者と話していた。何もかも受け入れ、苦痛にも耐えたが、いつも他人事にしていた。聞いて、「もうだめです」と言われたら、その後を生きられないからだ。

 白い壁にわずかに傷が残っている。

 あの腕時計は、中学の入学祝いだった。いろんな病室を一緒に渡り歩いてきた。

 包帯でぐるぐる巻きの右手がひりつく。

 部屋の隅に、白い人影がちらりと見えた。前より少し背が高い。


 また点滴が四台だ。

 廊下から漏れる明かりで、天井が半分だけ白く輝く。夜中の病院は静かだ。

 どこにも痛みを感じない。

 もう、痛みも、人を傷つけるのも辛いなと思う。

 初めて、自分の境遇に自分で同情している。涙は出ない。唾も湧かず、匂いも感じない。心は安定している。

 白いひとかげは、いつの間にか、ベッドサイドに佇んでいた。

 天井につくほどの巨体だ。それは首をねじ曲げて顔を反らしている。これまで一度も目を合わせたことはない。じっと見るめるが、どんな顔か、もやがかかるようにあやふやだ。

 多分、死に神か何かなんだろう。そう認めるしかない。

 反対側を見ると、簡易ベッドで母が寝息を立てている。

 頬はそげ、頭はもう真っ白だ。顔をしかめ、時折うなされている。

 母はあれからほとんど病室を出ない。義男と同じく、何の気晴らしもない日々だ。

 二人とも、諍いがまた起こるのを恐れている。

 歯ぎしりのあと、うなるような寝言が聞こえる。「よっちゃん……」

 手を上げるが、届くわけもない。最後に汗くらい拭いてあげたかった。

 義男はもう一度白い巨人を見上げた。何を言えばいいのか、分かる気がする。

「もういいよ」

 白い、骸骨のような顔がこちらを向いた。目が合う。

 目の前が真っ暗になった。


 芳賀は時計を見ている。四時三十分。

 最後に確かめてから三十分が経過していた。

 周囲は変わらず闇に閉ざされている。目の前の白いひとに尋ねた。

「私は、またここに戻ったのか?」

「こちらが、どんな姿に見えますか?」

「変わったようには見えない。赤児のままだ」

 大きな瞳が確かめるようにこちらを見る。そしてすっと細められた。

「では、お約束したとおり、別の人生をお選びいただけます」

 突然、強い焦燥感が芳賀の胸を焼く。前の人生の名残だろうか。

 白いひとは上を向き、遠くを見るような目をした。

「もうすぐ亡くなる方がいらっしゃいますね。お二方……」

 芳賀は振り返るが、暗闇があるのみだ。時計は二十秒進んだ。

 異様な胸の高鳴りに襲われている。右手に引きつりを感じた。拳の皮がめくれ、血が滲んでいた。知らない傷だ。しかし、この痛みには覚えがある。

 手を裏返し、ホクロを見た。脳裏に鮮明な映像が浮かび上がっていく。

 最後に見た母の姿は夕焼けに染まる背中だ。芳賀が施設に引き取られる日。肩に置かれた施設の職員の手の温かさと、握りしめた自分の拳の痛みを覚えている。

「お別れを」と職員に促されても、母は振り向こうとしなかった。

 母は息子に殴られた顔を隠してくれていた。

「次の人生ですが」白いひとの声が届く。

 芳賀はホクロから顔を上げた。

「あの少年を、母親の元に帰してやってくれ」

 相手は、フクロウのように首を傾げた。綺麗に九十度傾いている。

「やはりこちらでは、あなたの記憶を消すことができないようです」

「今は、一秒でも惜しい」

「では、あなたはもうここに戻らない。これが最後の行き帰り。この条件でなら」

「条件か。俗っぽいことを言う。もう少し超越的なモノかと思っていた」

「あなた方が変われば、こちらも変わるのです」

 無表情の顔が回り、上下逆さまになった。「で、どうされます?」

「そうか、お前は……」

 ある推測ができた。だから芳賀の記憶は消えず、ここに残る。

 ただ、それも彼にはもう無用のことだ。

「あの病室に戻るよ」

「では、そのホクロを見ないように。ご安心を、『マザー』は、他の人が引き継ぐことになります。あなたが産みの親であることに、変わりはありませんが」

「知っている」

 芳賀は目をつぶった。ふと思いつく。彼は掌を開き、前に掲げた。

「俺も救われたいんだ」

「……さようなら」

 ひんやりとした感触が、優しく掌を包んだ。


 義男は掌を見ている。真ん中にホクロがある。いつの間にできたのだろう。

 頭を巡らす。変わらない個室に点滴が四台。

「よっちゃん、よかった。目が覚めたね」

 午後の日差しで黄金色に輝く母の顔には、小じわが目立つ。目の下にクマが見えた。

「これ、見てよ。いつからできたんだろう」

 点滴のチューブが柵に引っかからないようにしながら、右手をかざす。

「あら、お母さんとおんなじだね」目尻に皺が寄る。

「母さん、美容院に行ったら? 白髪染めないと」

 母はびくりとして髪を触る。思いもよらない言葉だったようだ。少し照れくさそうに笑う。

「いいよ、別に」

「ついでに、牛乳も買ってきて。吐かないように頑張るから」

 母はうつむき、毛先をよじる。「明日でも行ってきなよ。大丈夫だから」

「うん……分かった。牛乳以外に、いるものはある?」

 ちらりと右を見る。「時計、修理に出せる? ごめんね。あれ入学祝いだったのに」

「お母さん、あれ、びっくりしたわぁ。新しいの買ってもいいんだよ」

「ううん、あれがいいんだ。もうしないよ」

 右手の包帯はそのままだ。この痛みが続く間は大丈夫。

 ドアが開き、主治医が顔を見せる。「お母さん、ちょっと」

 いつも義男の病状については、母が廊下で聞く。

「あの、先生。ここで僕にも話を聞かせてもらえませんか」

 そう言って、母の顔を見る。

 母の手がそっと額に添えられた。「お母さんも、その方がいいと思うよ」


 ほどなく点滴台は二つに減った。

 痛みを感じるが、心はコントロールできている。寝て、食べる。

 それだけが脱出のための方法だ。

 夕日の差し込む独りの部屋で、赤く染まる掌を眺める。

 このホクロを見ると、いつもなぜか落ち着く。そして頭がすっきりする。

 覚えのあるものから、ないものまで、色々な風景が頭をよぎっていく。

 寄せ書きが目に入る。クラスメイトたちの顔が脳裏に浮かんだ。

 そういえば、泣きぼくろのある、活発そうな女子が、色々気をつかってくれた。寄せ書きも彼女の発案だろうか。

 入学式の日は、雨の中の桜が白く映えていた。土と水の匂い、教室のざわめきと、家で食べた夕食の味が次々とよみがえる。

 ふと、部屋の隅が気になった。そこにはもう白い人影はない。

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