骨抜き

亜済公

骨抜き

 トンネルが崩落して一週間たった。中に閉じ込められたのは、倉田と小鳥遊の二人だけだ。助けはまだない。携帯も通じない。郊外とはいえ、外から物音一つ聞こえないのはいったいどういうわけなのだろう?

 倉田は思う——ひょっとすると、自分らを助けている場合ではないのかも知れない。思い返してみれば、あれはひどい地震だった。もしや日本中が壊滅しているのではないか——そんな空想をしてしまうくらいの。

 崩れ落ちた天井が、瓦礫となって出入り口を塞いでいる。けれど完全な闇ではなかった。瓦礫が落下する瞬間に、いくつもの偶然が重なったのだろう。わずかな隙間が空いている。赤ん坊ひとりくらいなら、ぎりぎり抜けられる程度の穴だ。そこから外光が差していて、トンネルの内部を照らしていた。自分がもっと痩せていれば——と、倉田は何度目かの空想をした。背が低く、子供と見まがうような体格であれば。

 現実は正反対だった。背は高いし、肩幅も広い。一週間の絶食を経てなお、両腕には筋肉が残っている。運送屋で働くうちに、自分でも驚くほど身体が鍛えられたのだ。毎日のように荷物を運び、腹が減り、大量の飯をかき込んで寝る。そういう日々を、何年も続けた。決して悪いものではない。

 こういう人生になるだなんて、大学院にいたころは想像だにしなかった。

 倉田はため息をついて、穴を眺める。

 向こう側には、青空が見えた。それだけだ。周囲の家々がどうなったのか、地震の影響がどれほどのものであったのか、気になりはするがわからない。倉田は気が向くたび、背伸びしてみたり、穴に頭を突っ込んでみたりする。少しでも周囲の様子を探れないだろうか——と。けれどだめだ。見えるのは空だけだった。

 身につけていたコートを脱いで、裾を掴んだまま穴の外へと放ってみる。風に吹かれてばさばさと揺れた。なにも反応はなかった。やはり、周囲に人はいない。次いで、携帯を穴の奥へと差し出してみる。ほんの一瞬でも電波がつながれば、助けを呼ぶこともできるだろう。

 だが、だめだった。しばらく粘っているうちに、携帯の電源が切れてしまった。充電する術はない。

 穴から吹き込んでくる冷たい風は、かすかに灰の臭いを含んでいる。火事があったのだろうか。倉田は軽くくしゃみを漏らし、再びコートを引っ張り込んだ。寒い。凍えてしまいそうだ。

「外の様子はどう?」と、地面に寝そべったまま小鳥遊が尋ねた。絶食のせいで、ただでさえ痩せていた身体が病的なまでに細くなっている。温かそうなセーターもズボンも、今やすっかりだぼだぼだ。「ねぇ、どうしようか? 倉田くんが食べる? そろそろ決めないといけないんじゃないかな」

 なにを、とは聞かなくてもわかった。二人が乗ってきた自動車には、大量の段ボールが積み込まれている。中に入っているのは、魚の餌だ。

 一週間前のあの日、倉田が呼び出されたのは、荷物を運ぶためだった。何の前触れもなく、不意にメッセージが届いたのだ。長いこと連絡を絶っていたから、最初は誰からかわからなかった。小鳥遊だと気がついたとき、まず感じたのは嫉妬と恨みだ。

 聞けば、倉田の就職先をいまだに覚えていてくれたらしい。礼はするから手伝ってくれないか——と。メッセージには、写真が添付されていた。映り込んだ調度からして、きっと小鳥遊の研究室だろう。床から天井まで、大量の段ボール箱がうず高く積み上げられている。

 小鳥遊は学生時代の友人だ。大学院の生命科学研究室では、相争う関係にあった。どちらが成果を挙げられるか。教授の覚えが良かったほうが、学内のポストに就くことができる。結果、倉田は彼に負けた。大学院を中退して、運送屋に就職したのだ。

 民間企業の研究職に就くという選択もありえた。そうしなかったのは、嫌気が差していたからだろう。小鳥遊に負けたことがあまりにこたえた。二度と論文は読みたくない。研究対象だった魚を見ると、胸の奥がむかむかする。寿司を食べるのさえいやになった。

「……いや、だがなぁ」倉田は言葉を濁した。「本当に大丈夫なのか? 副作用とか……」

「内臓への負担は大きいさ。本来は魚に使うんだから」小鳥遊はげっそりとした表情で、いう。顔色が悪かった。ピカピカに磨かれていたはずの黒縁眼鏡が、今は土埃にまみれている。「外へ出たらすぐに病院へ行かないといけない。でも、致命的ってほどじゃないはずだ。こいつの効果は、単に『骨を柔らかくする』だけなんだから」

 倉田が大学をやめたあとも、彼は研究を続けていた。専門は魚の品種改良と養殖で、今は「骨のない魚」に携わっているのだという。

 大学にいたころ、似たような技術について何度か耳にしたことがあった。人間でいうところの「骨軟化症(osteomalacia)」に類似した状態を引き起こすのだ。餌に含まれる可利用リンを低下させ、魚骨の主成分であるリン酸カルシウムの沈着を抑える。骨密度を低下させ、魚の骨を「かみ切れる」ものに変えてしまう。

 当時の研究者たちは、リンの少ない飼料を選ぶところから始めていた。ただでさえわずかなリンを、徹底して洗浄し、除去する。さらには餌中に、リンの排泄を促す添加物をたっぷりと混ぜ込むのだ。「骨なし魚」を作り出すには、出荷前の一~二ヶ月だけこの飼料を与えればいい。外見は変わらなくとも、骨密度が七十%近くまで低下する。

 小鳥遊の研究は、それをさらに改良し発展させたものだという。費用対効果を高め、給餌が必要な期間を狭め、リンの欠乏に限らない多様な手法を組み合わせた。プロジェクトは産学連携の大規模なもので、かなりの予算が入ったらしい。小鳥遊の開発した特殊な餌は、すでに商品化されている。車に積んである大量の箱には、それがぎっしりと詰まっていた。

「哺乳類で実験はしたのか?」倉田は尋ねる。

「僕のラボではやってない。ただ、アメリカのほうでは試験的に鶏に与えた例があるよ」

 倉田は、自分が「骨抜き」になる光景を想像した。全身がぐにゃぐにゃ曲がって、まともに立っていられなくなる。筋肉はあるのに、身体を支えるものがなにもないのだ。地面に横たわり、身体をくねらせて動くしかない。まるで蛇か蛸みたいに。

「人間の場合、どのくらい餌を食べればいい?」

「三食分、お腹いっぱいってところかな。翌日には、骨がグミみたいになってるはず。そうすれば——」地面から身を起こして、穴を指さす。差し込む光に、目を細めた。「出られるはずだ」

 状況は最悪だった。トンネルの出入り口は崩れ落ち、容易に脱出することはできない。人力で瓦礫を除去するには何ヶ月かかるかわからないし、崩落の危険がつきまとう。雨漏りのおかげで飲み水はあるが、食料ばかりはどうにもならない。手元にあるのは魚の餌だ。栄養は豊富でも、骨がグミのようにふにゃふにゃになる。それではまともに動けない。地面を這うことはかろうじてできても、穴をくぐるのは難しいだろう。

 選択肢は二つだった。

 第一に、ここで救助を待つこと。幸い、飢えて死ぬまでまだ少し猶予がある。生きているうちに誰かが助けに来てくれると、固く信じて待ち続けるのだ。

 第二に、二人のうち一方が例の餌を食べること。骨抜きになった柔らかい身体なら、あの小さな穴を通れるだろう。まともに動くことはできないだろうから、餌を口にしなかった方が外へ押し出してやらないといけない。脱出したからといって助かるとは限らないが——しかし、なにもしないよりはマシだ。

 ここ一週間で、誰かが助けに来る気配はない。

 いい加減、倉田は焦れていた。きっと小鳥遊も同じだろう。気がおかしくなりそうな空腹の中で、忍耐にも限界がある。それだけではない。焦燥感をつのらせるのは、なにより、この空間だった。

 トンネルの内部はひどく暗い。穴の近くはまだ明るいが、奥の方ではなにも見えない。闇が迫ってくるようで、怖い。だから、なのだ。示し合わせたわけでもないのに、二人は一度も自動車に戻ろうとしなかった。トンネルの奥へ少し歩けば、今も停車しているというのに。落石でパンクしてはいるものの、車体の大部分は無事だった。中にいれば、雨漏りに困ることもない。けれど、だめだ。柔らかなシートで眠れるとしても、あの暗がりに行くのが怖い。

 ミミズだの毛虫だの、どんなちっぽけな虫でもいいから動くものがいて欲しかった。このトンネルにはそれさえない。ただ、静かだった。ちょっとした物音でも、うわんうわんと大げさに響く。アスファルトの地面はいやに冷たく、体力と気力を奪っていった。

 いっそ完全な暗闇であれば、いくぶん気が楽だったかも知れない。すっかり諦めて、救助が来るかも知れないから、と万に一つを信じればいい。だが、現実は違った。あの穴があった。崩落した瓦礫の合間に、ぽっかりと空いた一つの穴……青空が見える……光が差す……つまり、希望だ。

 あの希望のせいで、倉田は苛立たずにはいられない。なにか手があるのではないか、このままボウッとしていたら重要なチャンスを逃すのではないか、と。

「……痛っ」倉田は顔をしかめた。無意識のうちに爪を噛んでいた。ほのかな明かりの中で、爪と肉の合間からしっとりと血が溢れ出てくる。

「どうしたの?」と、小鳥遊がいった。心配そうにこちらを見て、立ち上がろうと足を踏ん張る。

「おい、お前こそ大丈夫か」

「いや」変だな、と呟いた。「おかしいな……」足を踏ん張り、地面に手の平をつけて、何度も立ち上がろうと試みる。けれど、できなかった。勢いよく尻餅をついて、そのまま地面に横たわる。力なく天井を見上げた。「立てないや」

「飯を食ってないからだろ」倉田は彼のそばに寄って、陰鬱な表情を覗き込んだ。顔が青白い。むくんでいる。肌はすっかり乾燥して、白い粉を吹いていた。

 きっと長くは保たないだろう。

「倉田くんは、まだ立てるんだね」

「鍛え方が違うからな。毎日、何十キロの荷物を担いでるんだぜ」

「参ったなぁ」と、自嘲するような笑みを浮かべた。

「なあ、小鳥遊。俺が思うに……」

「わかってるさ」

「そうか」

「例の餌は僕が食べるよ。少なくとも、栄養はとれる」

 そういうことになった。

 倉田は暗闇の奥へと向かった。足音が反響し、何度も何度も返ってきた。しつこいくらいだ。穴から離れるごと、視界はどんどんおぼつかなくなる。片手を壁に当てて、すり足でゆっくりと進んでいった。水たまりに足を滑らせ、頭をぶつけでもしたら——つい、そんなことを考えてしまう。洒落にならない。

 このあたりだろう、と思うところで両手を振り回した。指先が、ガツンとなにかに当たった。金属の感触だ。倉田がここまで運転してきた、白い軽トラックに違いない。荷台には段ボールが積み込まれている。雨漏りのせいだろう、箱は湿って、ふやけていた。両腕に抱えると、うっすらとかびの臭いがする。

 来た道を振り返った。ずっと遠くに、ちっぽけな光の点が見える。こんなところからも、あの穴が見えるのか——倉田は思った。嬉しくもあり、苦しくもある。なんとなく、自分たちの行動があの「穴」に振り回されているような気がした。癪だった。

 それでも、他の選択肢はない。

 生きたいのだ。

「……開けてくれ」倉田の運んできた箱を見るなり、小鳥遊は力なく口を開く。「中に、瓶が入ってるだろう? それをこっちに」

 手の平サイズのガラス瓶だ。中には米粒のような茶色いものが、ぎっしりと詰まっている。瓶の腹を、簡素なラベルが覆っていた。魚を象ったロゴが描かれ、ゴチック体で商品名が記されている。裏側を見ると、「魚の健康を保ったまま、骨を軟化させることができます」とあった。キャッチフレーズは「かみ切れる“やさしさ”を、食卓へ」だ。

 蓋を開けると、漢方薬に似た臭いがする。ラベルの端に、用法・用量の説明があった。体重百グラムの魚なら、一度につきたった一粒、三回の給餌で事足りる。人間ならどのくらいだろう?

 小鳥遊は力なく横たわったまま、瓶の中へ指を突っ込む。餌をつまみ上げた。目を閉じて、しばらく鼻をひくつかせ、覚悟を決めたようにやっと口へと放り込む。途端に、咳き込んだ。涙目になって「……最悪だ」と低く唸る。「こんなに不味いとは思わなかったよ。粉っぽいし、喉にへばりつくし、臭いもすごいし」

「外へ出たら、改良しないとな」

「魚のためにね」小鳥遊は「うげぇ」と何度も咳き込みながら、瓶の中を口へ運ぶ。「お腹が減ってなきゃ無理だよ、これは。人間が食べるものじゃない」その通りだ。

 倉田は彼の様子をじっと見つめた。自分が脱出できるかどうかは、小鳥遊と餌にかかっている。それが不思議で仕方がなかった。いったいどうして、こんなことになったのだろう? 地震が起きる直前まで、倉田は彼に命乞いをさせるつもりでいたのだ。

 軽トラックのダッシュボードには、今もナイフが置いてあるはずだ。彼と二人きりになる瞬間のために、何日もかけて入念に研いだ。鏡のようなあの刃には、怨念と殺意がぎっしりとこもっているはずだ。何度も何度も、荷物を運びながら考えた——あいつさえいなければ。

 今ごろ、こんなところにはいなかったはずだ。まだ研究者を続けていた。たくさんの論文を書いて、学内のポストを得て、後輩からも尊敬され……。

 大学をやめたことを、後悔しているわけではない。運送屋での生活は、決して悪いものではなかった。上司にも友人にも恵まれた。出世の道も見え始めていた。クビになってさえいなければ、彼から送られたメッセージにも気持ちよく応じただろう。

 居眠り運転、らしい。

 らしい——というのは、事故を起こした前後の記憶がすっぽりと欠落しているからだ。運転中に居眠りをして、カーブを曲がり損ねたのだ。巨大なトラックは民家にぶつかり、一家を潰してしまったという。

 警察から話を聞いても、まるで実感がわかなかった。

 どうして自分の人生はこんな風なのだろう——仕事を失い、家で横になっていると、いやな考えばかり浮かんでくる。研究者の道から脱落した。運送屋の仕事もなくしてしまった。では、なにが残る? この先も同じことが続くのか。なにかをやっと手に入れた途端、すべてを取りこぼしてしまうような。

「……なぁ」

「うん?」小鳥遊は瓶を逆さまにした。あんぐりと開けた口の中へ、どさどさと餌を放り込む。

「この前な、スーパーで見かけたぜ。『骨なし』の魚を、さ」

「どうだった?」

「俺は嫌いだな。小骨を噛み砕くのが好きなんだ」

「そっか」

「安売りされてたぜ」

「みんな気味悪がって、なかなか食べてくれないんだよね。実をいうと、事業としてはあまりうまくいってないんだ」

「……ばかいうなよ」

 意外だった。小鳥遊が弱音を吐くのは、記憶する限り初めてのことだ。

 あるいは——

 強がる必要がないということか。

 自分はもう、小鳥遊の競争相手ではない。

「プロジェクトは行き詰まってる。本当だよ。近々、ラボも閉鎖する」空っぽの瓶を指先でつまみ、愛おしげに光へかざした。「倉田くんに連絡したのも、半分はそのためだったんだ。研究室を引き払うからね。捨てるには忍びないし、せめて家に運ぼうと思って」

 倉田は箱に手を突っ込んで、二つ目の瓶を手渡した。

 小鳥遊は黙りこくってそれを見つめ——食べ始める。

 空の瓶が、薄闇の中に積み上がっていった。穴から差し込む陽光が、いつしか橙赤色に染まっていた。夜になっても、彼は手探りで食べ続けた。トンネルの中には、漢方薬のような餌の臭いがねっとりと充満していく。ほんのかすかな星明かりが、瓶の表面に反射した。ラベルに印刷された魚が、闇夜を泳いでいくような錯覚が見える。あるいは、夢だったのかも知れない。

 夜明け前のことだ。小鳥遊がうめき声を上げた。痛い、痛い、痛い、と繰り返す。横たわったまま、身体をガクガクと震わせた。震えることで、かえって痛みが増すようだった。

 倉田は眠りから覚めると、慌てて彼のそばへ寄る。眠気はどこかに吹き飛んでしまった。穴の外に見える空は、うっすらと明らんでいる。昼間ほどではないにしろ、視界はそれなりにはっきりしていた。倉田は「どうした?」と恐る恐る問いかける。返事はない。ただ、「痛い、痛い」と繰り返すばかりだ。小鳥遊の額に、びっしょりと汗が浮いている。

 不思議と、顔色がいいような気がした。大量の餌を食べたからか。失われていた栄養を補給することができたのだろう。では、小鳥遊の訴える痛みは?

 痩せ細った身体に触れる。肋骨ははっきりしていた。頬骨にも異変はなかった。そっと頭をつっついてみた。固い。……それからふと、小鳥遊の手に目をやった。

 指先が潰れている。

 空気の抜けた風船のようだ。重力に引っ張られるまま、地面にべったりと貼り付いている。平べったかった。きっと骨が解けているのだ——餌の効果は、まず末端に表れるらしい。

 小鳥遊はなおも「痛い、痛い」と叫び続けた。静かになったのは、夜が明けてしばらくたってからだ。気絶していた。よほど痛かったのか。あるいは叫び続けてつかれたのか。

 昼になって目を覚まし、叫び、気絶する。また目を覚まし、叫び、気絶する。

 その繰り返しだ。

 倉田は軽トラックの荷台から、いくつか箱を運んできた。瓶を取り出し、蓋を開ける。気絶している小鳥遊の口へ、餌を少しずつ放り込んだ。トンネルの奥の水たまりから、飲めそうな雨水をかき集めてくる。喉に注ぎ込む。人体は不思議だ——意識がなくとも反射的に、口の中の液体を飲む。

 餌の効果は、指先から手の平へ、腕へ、胴体へ、少しずつ広がっていった。芯の通っていた肉体が、水袋のようになっていく。重力に引っ張られるままぺしゃんこに潰れ、平たく、薄く伸びてしまう。小鳥遊は、どうやらそれが痛くて仕方がないようだった。

 昼を過ぎた頃、小鳥遊の肋骨がすべて消えた。正確には、ふやけてグミのように柔らかくなった。胴体はかつての立体から、限りなく平面に近づいていく。彼の身体は、今やぶよぶよとした肉の袋に過ぎなくなった。重力に引かれ、平たく、平たく、平たく……。潰れた身体の表面に、内臓の形が浮かび上がっている。セーター越しでも、心臓の拍動がはっきりと見えた。皮膚が膨れて、しぼんで、また膨れて、しぼむ。その繰り返しだ。形を保っているのは、今や頭だけだった。

 倉田はまた、段ボール箱を持ってきた。小鳥遊は食べるのをいやがった。けれど今、逆らう力はどこにもない。骨を失い、支えを失い、頭を上げることもできない。筋肉を懸命に収縮させ、地面を這うのが関の山だ。

 倉田は瓶を逆さにした。小鳥遊の口を押し開けて、餌と水を注ぎ込む。口を閉じさせた。鼻をつまんだ。小鳥遊は顔を真っ赤にして、咳き込み、嗚咽を漏らし、やがて諦めたように飲み込んだ。

 小鳥遊の歯はぶよぶよとして、半透明になっている。

 ようやくだ——と、倉田は思った。

 頭部に、餌の効果が表れ始めた。

「首から上が『骨抜き』になったら」小鳥遊が呟く。いつからか、痛みを訴えることをやめていた。痛覚が機能しなくなったのか、疲れたのか、諦めたのか。「もうすぐ、僕は話せなくなるね」

「……ああ」倉田は頷いた。最後の瓶を蓋を開けた。穴から差す夕日の中で、瓶がきらきらと輝いている。それを見て、ふと思った。「なあ、残り半分はなんだったんだ?」

「半分?」

「俺を呼んだ理由だよ。半分は『研究室を引き払う』ため。じゃ、残りの半分はなんだったんだ?」

「……僕は」ためらうような表情を見せる。

「なんなんだ?」

「僕は、自信を持ちたかったんだ。最近は、なにもうまくいってなくてね。学内政治でも、事業でも、論文を書くのでも。倉田くんに会えば、自信を取り戻せると思ったんだ」

「研究をやめた俺と会って、か。下を見るようじゃ——」

「下を見るようじゃ終わりだよね。実際……倉田くんと会って思ったんだ。ああ、負けた——って」咳き込んだ。ゆっくりと、頭が平たくなっていった。顔が立体感を失っていく。「君の変わりようには驚いたよ。なんて立派なんだろう。新しい道を見つけているんだ。あのときの勝敗を引きずってるのは……きっと、僕だけだった。昔の倉田くんは……研究室に……引きこもって、青白いもやしみたいだったのに。日焼けして……身体が大きくて、ハンドルさば……きなん、て達人み……た……」

 声が途絶えた。

 見ると、喉が潰れていた。

 唇をぱくぱくと動かす様子が、まるで金魚かなにかに見える。

 頭はすでに平たい。眼窩から目が飛び出していた。

「そんなんじゃねぇよ、俺は」舌打ちをする。気分は最悪だった。こんなことなら、いっそ殺してしまえばよかった。そのほうが、きっと気分は爽快だった。

 小鳥遊の身体を抱きかかえる。ぶよぶよとして、つかみ所がない。何度か落としそうになった。強く抱きしめなければならなかった。セーター越しに、小鳥遊の心臓が動くのを感じる。

 全身がぐにゃぐにゃと曲がるのは、きっと恐ろしく痛いのだろう。小鳥遊の口が激しく動く。顔を歪め「おう、おう」と喉から妙な音を出した。身体が痙攣している。骨を失っても、筋肉は健在だ。陸に上がった魚のようにに、小鳥遊は力強く身をくねらせる。

 穴を見た。空は赤く、今にも日が沈もうとしている。

 小鳥遊の頭を、穴に突っ込んだ。奥へ奥へと、押し込んでいく。穴の縁に肩が引っかかった。えい、と力を込める。グミを潰すような感覚があった。奥へ、奥へ。

 小鳥遊はびちびちと跳ねた。その痛みがどのようなものか、倉田にはまるで想像がつかない。身体がたやすく潰されて、ぐしゃぐしゃに折り曲げられて、穴の中へと突っ込まれていく。抵抗する術はない。

 穴から飛び出した足が、筋肉の収縮によって暴れ回る。関節などあってないようなものだった。倉田はそれを掴んで、穴の中へぐしゃりと押し込む。気味の悪い感触だった。生きた水袋を掴むようだ。

 奥へ、奥へ。

 倉田は手を止めた。

 いつの間にか、トンネルの中は完全な闇に包まれている。穴の中へ伸ばした腕が、痙攣する肉に触れている。小鳥遊のうめき声が聞こえてきた。ぶよぶよとした彼の身体は、今や穴を完全に塞いでいるのだった。

 腕に力を込める。

 ぶよぶよとした感触がある。

 足を踏ん張って押し込む。

 柔らかな肉はへこみ、力を弱めれば元に戻る。

 小鳥遊の身体は、なにかに引っかかっていた。いくら押しても、それ以上先へ進まないのだ。

 ついー、と頬を汗が伝う。

 足なのか尻なのかわからない肉を、倉田は掴んだ。引っ張った。肉はゴムのようにこちらへ伸びて、手を離すと元に戻った。どうにもならない。

 穴は完全に塞がれていた。

 トンネルの中は闇だった。

 なにも見えない。動くものはない。

 聞こえるのは、小鳥遊のうめき声ばかりだった。

 倉田は、呆然とその場に立ち尽くした。自分が目を閉じているのか、開けているのかもよくわからない。どちらが上でどちらが下か、右か左か、穴はどこか。今やそれさえ曖昧だ。

 闇が迫ってくる。

 背骨に、肺に、眼球に、耳に……暗闇が染みこんできた。

 泥沼の中を泳いでいるような感覚に陥る。自分はきっとちっぽけな魚で、飼い主に捨てられてしまったのだ。エラにぎっしりと泥が詰まる。砂粒が眼球を傷だらけにする。懸命に泳ぎ続けているのに、ここがどこだかもわからない。そういう気分だ。

 研究室で、魚を飼っていたときのことを思い出した。水槽の中を泳ぐ彼らは、いったいなにを見ているのだろう? ぎょろりとした目は、冷たく、無機質で、まるで感情がないように思える。餌をやると、ぱくぱくと機械的に口を動かす。時には自分の排泄物を食べてしまうこともある。あるいは、産まれたばかりの我が子でさえ。

 無意識のうちに、倉田は口を開けていた。あえいでいた。恐怖と焦燥が、胸に勢いよく渦巻いている。耐えがたい閉塞感に襲われた。穴はなくなってしまった。外界は見えなくなってしまった。吹き込んでくる風はなく、トンネルの中の酸素にはきっと限りがあるはずだ。

 酸欠で死ぬことはまずありえない。この広々とした空間で、呼吸するのは倉田だけだ。そんなことはわかっている。だが、どうしようもない。なにも見えないのだ。怖いのだ。外へ出ることはできないのだ。

 小鳥遊のうめき声が反響する。

 倉田は耳を塞いだ。

 声から逃げるように、背後へと退いていった。何度か石ころに躓いた。水たまりで滑った。壁にぶつかった。不意に背中が、冷たい金属にぶつかった。車だった。

 手探りでドアを開ける。

 ダッシュボードに手を突っ込む。

 ナイフを逆さに握り——

 ぜいぜいと、息が荒くなる。ねっとりとした汗が滴る。冷たい金属の切先が、ほてった喉に触れている。

 震える腕に、力を込めた。

 鮮血がほとばしった。

 喉に冷たい痛みが走った。

 鏡のように輝く刃も、今は闇に沈んでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

骨抜き 亜済公 @hiro1205

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画