唯識三年・倶舎八年ボタン

眞木環

ショートカットの誘惑


 夕刻の屋上からは徐々に人影も遠のき、どこかから流れてくる吹奏楽部のロングトーンが一日の終わりを告げていた。格子状の高いフェンスに凭れた真琴と、その傍らに立つ杏那の間には、階下の賑わいとはどこかかけ離れた静寂が横たわっていた。

 

 屋上の一角にひっそりと佇む清掃用具入れの扉を開くと、曰くありげに置かれた台座の上に、鈍色の筐体に嵌め込まれた無機質な白いボタンが鎮座している。

Y3K8ワイ・スリー・ケー・エイト〉。それがこのデバイスの通称であるという。


​「それで、真琴は結局これをどう見るの?」杏那がボタンに視線を落としながら尋ねた。

​真琴はフェンスの格子越しに遠景を眺めていた。沈みかけた夕陽とともに、西の空一帯は橙から紫へのなだらかな階調に染まった薄雲に溶けかかっていた。

​「どう見る、ってねぇ。あの『例のボタン』の長大な精神的拷問を、情報過多による存在論的撹乱に置き換えただけの、悪趣味な冗談でしょう?」


 〈唯識ゆいしき三年・倶舎くしゃ八年〉。江戸期の学僧たちは、仏教の基礎となる理論を会得するまでに要する期間を、〈桃栗三年・柿八年〉の諺になぞらえて語ったという。


 風の噂によれば、このボタンを押せば異空間の草庵に転送されて合計十一年間の学習メニューをみっちりと叩き込まれたうえ、そこで過ごしていた記憶は消去され、獲得した知識は保たれたままで元の時空に戻されるのだという。後から見てみれば、主観的にも客観的にも何の苦労もなしに「降ってきた」かのように感じられるということだった。


​「まぁ、撹乱っていうのはその通りだよね……『倶舎論』と『唯識論』のセオリーを、脳の処理能力を超えた速度でインストールするんだって。日頃の生活の中で見ているものが、文字通り『ダルマの集合離散』としてしか見えなくなる。一瞬で悟る代わりに、一瞬で人間性を手放すってことだよね?」


​ 杏那の口ぶりはあくまで冷静さを保っていたが、その声の端々が微かに震えているのを真琴は聞き逃さなかった。真琴は、その震えはこのボタンがもたらす世界の無意味化に対する恐怖なのか、それとも人智を超えた何かへの憧憬なのかを見極めようとしていた。


​「そうね。私から言わせてもらえば、特に唯識のパッケージは悪質だわ。八つの識、特に阿頼耶識あらやしきに直接アクセスして、全ての経験が『種子しゅうじ』の現行に過ぎないと悟らせるということかしら? つまり、あなたが今感じているであろう、屋上で黄昏れているこの状況に対する微妙なエモみも、単なる過去に蓄積されたごうのデータが駆動した幻影に過ぎないって解析結果を叩きつけるのよ。その瞬間に、この風景は価値を失うの」


​ 真琴は、敢えて「エモみ」という俗語を切り出した。その語が自分自身の心臓をもくすぐって締め付けるような照れ臭さを伴うことを知りながら、杏那の表情を一瞬でも揺さぶりたかったのだ。


​ 杏那の伏せた睫毛が微かに瞬く。

​「……さすが、真琴は厳しいなぁ。でも、それは『価値の喪失』じゃなくて、『価値判断を離れた真相への直面』かもしれないじゃない? わたしたちが見ているこの夕焼けも、屋上のコンクリートの質感も、真琴の意地悪な笑い方も、全ては視点としての『見分けんぶん』が見出した幻影、依他起性えたきしょうと呼ばれる構造だよね。ボタンは、そういう構造を今のわたしたちより高い精度で解析するだけ」


​ 思案を続けながらも、杏那はボタンに手を伸ばしかけていた。

​「つまり、そのボタンを押せば、わたしの世界から真琴という『依他起性』も、真琴を映し出している『種子』も、すべてが完全な認識としての『円成実性えんじょうじつしょう』の下に、本質的なくうとして還元されるわけだね。これは煩悩なのかどうなのか、無限の自問自答に苛まれる必要も……もうなくなるんだよ」


​ 真琴の心臓が、一拍強く打った。杏那がボタンを押そうとしている。その行為は、杏那が自ら創り出した世界から、自分という存在を「煩悩の固まり」として排撃しようとしているように思われた。


​「待ちなさい、杏那!」真琴は思わず声を荒げた。「それは逃げよ。あなたのご執心の唯識は、確かに世界の『』を論理的に分解するわ。でも、それさえも無自性として包摂し得るのが中観よ。あなたの語る『依他起性』も『円成実性』も、結局は言語によって一時的に設定されたものに過ぎない。ボタンを押して一瞬で悟った気になったとしても、その『悟り』だって、概念による束縛から逃れられてはいないのよ!」


​ 真琴は杏那の腕を掴んでいた。それは二人が久しく遠ざけていた感触だった。

​「そもそも、知識をインストールしたところで悟れるわけではないでしょう? 『例のボタン』が記憶を消すことで押した瞬間の『私』を一応保護しようとするのに対して、この『Y3K8ボタン』は、知識を保持させることで『真理を知ってしまった私』という新たな呪縛を生み出すのよ。それって、知識の檻という名の別の地獄じゃないの?」


​ 杏那は、真琴の見開かれた目と、それを際立たせている見事に切り揃えられた前髪をぽうっと見つめていた。ひと目では自信に満ちているように見えて、真琴も微かに打ち震えている。


​「呪縛……か」杏那は静かに受け止めた。

「そこまで反対するってことは、真琴のご贔屓の中観から見れば、このボタンで得られる報酬は毒だってことだよね。世界は初めから空なのに、わざわざ『有』を精密に分析する知識をインストールするのは、無駄だっていう?」


​「そうよ! 何故、その十一年分の重い概念の山を、わざわざ脳に背負い込もうとするの? もし、あなたがその知識を得て、この関係が阿頼耶識から配信される単なる影像としか思えなくなってしまったらどうするのよ? 私は……っ」


​ 真琴は言葉を詰まらせた。そんな概念なんかに、私たちの関係を易々と定義されたくない――できることなら、はっきりとそう告げたかった。

​ 杏那はこの日初めて、真琴の目を正面から見つめた。その瞳の中には、夕焼けの紅とも違う濃密な何かが渦巻いていた。


​「……真琴って、本当に中観だよね。すべての概念を否定して、否定し続けた先に残る『空な関係』を守ろうとしてくれてるってこと?」

​杏那は静かにボタンから手を引いた。そして、真琴の手から自分の腕を振り払うこともせず、その握力を味わうように言い返した。


​「唯識は、世界を心の現れだとするけど……でも、その心の中に真琴が表れている限り、それがどんなに細かく解析された煩悩の種であろうと、結局わたしは否定できないのかな」

​杏那は微笑んだ。その力の抜けた微笑みには、唯識と倶舎の精緻な分析でも割り切るのに苦慮しそうな、込み入った何かが含まれているような気がした。


​「杏那は唯識、私は中観。この二系列が交わることのややこしさと興奮を、ボタンなんかに頼って一瞬で片付けるなんてつまらないわ。十一年かけても、下手したらそれ以上かかっても、この難題に二人で構い続ける方がずっと面白いと思うの」


​ 真琴は、握りしめていた杏那の腕をそっと離した。指先の熱の名残りだけが、「依他起性」を支えるひとつのリアルな「法」であるかのように感知されていた。


​「……そうだね。うん、そうだったね」

​杏那は軽く息をつくように呟いた。夕暮れの中、二人はどちらともなくボタンに背を向け、屋上を後にした。


 台座の上のボタンは、誰もいなくなった屋上の倉庫の中で、ただ鈍い金属質の反射光を放ち続けていた。

 悟りと情愛。双方を手の届きそうな範囲に収めるためのあまりに重すぎる対価を、その筐体に秘めているのかいないのかすらも物語らぬままにして。

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