春風の悪魔・2

「因子? 現象?」


 聞きなれない言葉の連続に、現彦は困惑した。

 男の言っていることを、現彦には何一つ理解できなかった。あの子、というのはさっき自分とぶつかった、あの元気な男の子のことを言っているのだろう。しかし、大きな病気と戦うと言っていたが、少なくともそのようなものに蝕まれている様子は見られない。


 仮に蝕まれていたとしても、そのあとの"生涯戦い続けることになる因子"というのが分からなかった。まるで不治の病にこれから侵されるとでも言いたげな上に、そんなことに対して因子という言葉を使うのも不適切に思える。

 何よりそのあとに続いた言葉が、一番の疑問だった。


「春風の悪魔だと?」


 まるでそれが悪魔の仕業であるかのように、男は言った。


「……申し訳ないが、悪魔だの霊だの妖怪だの、そういった類のものは信じてないんでね」


「おっと、確かに今の言い方ではオカルト話のように聞こえてしまいますね。これは失礼しました、謹んでお詫び申し上げます」


 男は恭しく頭を下げてみせた。しかし、その声色に謝罪の意思が込められていないことを現彦は感じ取った。時代錯誤な服装と言動が相まって、男の真意を現彦は未だ読み取れていなかった。


「悪魔、と銘打ってはおりますが、これは人の理の外にいる生命体が引き起こしているものではありません。むしろこれらを引き起こしているのは、何を隠そう我々人間なのです」


「人間、だと?」


 男は現彦の顔を真っすぐに見据えた。瞬間、強い風が吹いて男のぼさぼさ髪を巻き上げる。その時見えた男の目に、強い信念のようなものを感じ取った。現彦は、目の前の男が自分に対してふざけた感情を何一つ持っていないことを読み取った。


「はい。人の強い意志が起こす不思議な出来事を我々は"現象"と呼んでおります。人は時に内から発する強い感情によって変化します。時に怒り、時に悲しみ、時に喜び、それらは当人にとって益ともなれば害にもなる。しかし、強い感情は時に当人以外にも影響を及ぼすことがあるのです」


 そう言って、男は現彦の前で両手を上向きに開いて見せた。男の両手には桜の花びらが一枚ずつ乗っている。

 男は左手の花びらに向けて、フッと息を吹いた。花びらは男の息によって手のひらを離れ、ひらひらと風に乗って舞う。やがてそれはゆっくりと男の右の手のひらに落ち、それによって今度は元々あった右手の花びらがふわりと風に乗って、男の手から離れていった。


「このように、他方で起きたことが巡り巡ってまた他方に作用する。世の人々はそれを縁と呼んでいますが、それらはあらゆる行動の結果の話。しかし、現象は強い感情によって作用する。同じように此度の春風の悪魔が起こした少年の運命も、他方からの強い感情によって引き起こされたものなのです」


 現彦はそこでようやく、自分の額に汗をかいていたのに気づいた。男の言葉は荒唐無稽であり、とてもじゃないが信用に値するものではない。特にオカルトの類を信じていない現彦にとっては、そもそも聞くにすら値しないもののはずだった。

 しかし、現彦は男の話に聞き入っていた。それどころか、荒唐無稽と思えるような内容が真実であるとさえ思ってしまっていた。職業上、そういった話への警戒心には優れている方だと自負していただけに、今、自分が目の前の怪しい男の言葉に聞き入っているという事実が、現彦を困惑させていた。


 しかし、一つ分からないことがあった。


「……聞いていいか?」


「ええ、なんなりと」


 現彦は必死に言葉を探していた。聞きたいことはある、しかし、困惑している今の現彦にとっては、目の前の男に質問するというだけでもかなりの集中力を要していた。


「何故、その話を俺にしているんだ?」


「先程も申しましたが、現象とは人の強い感情によってもたらされるものです。それは春風の悪魔も同じこと」


「つまり、あの少年が大きな病気を患って、闘病生活を生涯続けることになるっていうのも……」


「その通りです。強い感情によって引き起こされたことです。そして私は、あの少年がなぜそのような辛い因子を植え付けられてしまったのかを知りたいのです」


 男の目は、変わらず真剣だった。それに応えるように、現彦も真剣の面持ちで男の顔を見た。オカルト話としてあしらうことも、質の悪い冗談だと切り捨てることも、今の現彦にはできなかった。


「つまりお前は、俺にその強い感情を探させようとしている、ということか?」


「理解が早くて助かります。しかしながら、此度の件は私の興味本位での行動。いつもならば依頼という形で事を進めるのですが」


「依頼だと? お前、何者なんだ?」


「おや、これは失礼いたしました。そういえば名乗るのをすっかり失念しておりました」


 男はそう言って、袖の下から名刺を一枚取り出した。


「申し遅れました。私、この近くでしがない探偵事務所を構えております、葛木象元と申します」


 名刺には葛木象元の名前と近くの住所、そして大きく『現象探偵』と書かれていた。


「現象探偵、だと?」


「私の専門は、現象の発生によって起きた事件の解決です。しかし今回は、私から貴方様への依頼という形にさせていただきたい。付け加えるなら、あの少年に起きた現象を共に解決していただけないでしょうか。私は現象においては知恵を出せますが、どうもそれ以外の部分、とりわけ他人との会話を苦手としておりまして」


 ポリポリと頭を搔きながら笑う象元からは、さっきまでの真剣さは無くなっていた。しかしそれは、ふざけた様子というよりも親愛の感情に見えた。どうやら象元は、自分のことを話したことで現彦と距離を詰めることができたと思っているらしい。

 現彦は、彼が本当に他人との会話が苦手なのを察した。


 現彦は少し考えた。

 象元の言うことは怪しい。しかし、既に現彦は象元の言葉を切り捨てることはできなくなっていた。それほどまでに、象元の言葉には真剣みがあった。

 もし本当に、あの少年が大きな病気になってしまうのであれば、そしてそれを未然に防ぐことができるというのであれば、力を貸すべきなのではないか。それは警察としてや大人としてではなく、関わってしまった一人の人間として。そして自分には、それを調べることができる力が、少なくとも目の前の男よりはある。ならばそれは、使うべきなのではないか。

 現彦の頭からは、いつの間にか断るという選択肢は無くなっていた。


「こちらからも一ついいか?」


「はい、なんでしょうか」


「俺には警察としての仕事がある。自由に動ける時間も多くはない。調査、と呼ぶにはあまりにお粗末なものにはなってしまう、時間もかかるだろうし詳しいことも分からないかもしれない……それで良いか?」


 そう言うと、象元は笑顔を見せて現彦の手を握った。


「十分です! いやぁ、僥倖僥倖! 私はどうも人の感情を探るのが苦手なものですから!」


 象元は現彦の手を握ったまま、ぶんぶんと上下に激しく振った。嬉しい感情を行動で表しているのだろうが、現彦にとってはただ恥ずかしいだけだった。目の前を通行人が誰も通っていなかったことが、現彦にとっては救いだった。


「では、改めましてよろしくお願いします。何かありましたら私のところまで来てください」


 そう言って、象元は手を振りながら去っていった。大人の男とは到底思えない言動だった。果たして彼は何者なのか、結局図りかねたままだった。


 怒涛のような情報を受け取り、現彦はため息をついて交番所に入った。爽やかな春風は建物の中にまで入り、新緑と陽気の清々しい匂いを運んできてくれている。現彦は深呼吸して、体内の空気を入れ替えた。色々な情報を受けて困惑した脳が、少しだけ落ち着きを取り戻したように思える。

 外を見ると、桜の花びらが風に乗ってひらひらと舞っていた。始まりを告げる季節。新しいものが次々と芽を出す季節。春にはそんな印象がある。だからこそ、風も匂いも景色もこんなに爽やかで清々しく、心が洗われるように思えるのだろう。

 現彦は改めて、春の陽気を目いっぱい吸い込むように深呼吸した。体内に入り込んだ新しい空気が、淀んでいた古い空気を押し出していき、もやもやしていた頭の中を整理する。


 しかし、現彦はすぐに違う思考に取り憑かれた。


 象元の言っていた言葉。現象とは人の強い感情によって生まれた出来事である。

 荒唐無稽な言葉のはずなのに、現彦はそれをすんなりと受け入れていた。オカルトを信じないはずの自分が、象元の言葉を受け入れてしまっていること、そして今、自分が現象という言葉が本当にあるものだと思っていること。

 そして、現象の解決をするために象元に手を貸すと、他ならぬ自分の意志で決めてしまったこと。

 その全てが、まるで自分の意志とは違う何かによって動かされてしまっているのではないか。現彦の頭に、そんな考えがぐるぐると回っていた。

 そしてその中央には、『強い感情』という言葉が力強く居座っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

現象探偵 ~葛木象元~ 朝海 有人 @oboromituki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画