現象探偵 ~葛木象元~

朝海 有人

春風の悪魔・1

「はいはい、そっちの言い分は後で聞くからついてきてねー」


 麗らかな春の日差しが降り注ぐ朝。空木現彦は警察官としての仕事に追われていた。

 時刻は正午に差し掛かった頃。不審者がいるという通報があったので向かってみると、中年男性が道路の真ん中で全裸で仁王立ちしているのが見えた。野次馬に囲まれた状態で一切の恥じらいを見せずにいる姿を見て、現彦は思わずため息を吐いてしまう。


 四月に入って今日で五日目、不審者の通報の数はこれで五件目。つまり、一日一件のペースで不審者情報が入ってきている。その全てを現彦が対応しているのだから、ため息もつきたくなる。

 まるで珍しい動物でも見るかのように集まっている野次馬たちをかき分け、仁王立ちしている男に声をかける。堂々とした立ち振る舞いは立派だが、せめてパンツかズボンは履いていて欲しかった、と心の中で思った。

 話してみると、どうやら酒に酔っているわけではなかった。しかしそうなると、この男は自分の意志でこの事態を引き起こしているということになる。これは想像以上に厄介そうだ、と現彦は気合を入れ直した。

 とりあえず、この状態のままで放置するわけにもいかないので、一旦自分が着ていたコートを羽織らせて自身が勤務している交番所に連行する。

 途中暴れまわらないかと不安だったが、彼は暴れるどころか、交番についた後は粛々とこちらの話を理解し、最後は頭を下げてそそくさと帰っていった。服は、宿直室にあった予備の下着と服を着させた。


 何事もなく事が進むと、静かになった交番所で現彦はまた一つ、大きなため息をついた。最初からここまで聞き分けがよいのであれば、何故あんなことをしたんだと問い詰めたくなる。今回の件に限らず、現彦がここ数日で経験した不審者案件は、全て同じような案件だった。

 春になると変な人が増える。世間にはそんな与太話が出回っているが、現彦はそれが事実であることを身をもって知っている。事実、前月は合計で十五件。今月は今の時点で五件。通報があって向かった先にいたのは、全て理解不能な不審者だった。

 彼らは決まって、こちらが理解できないような奇行に走る。危険を承知で連行すれば、いつの間にかその奇行はぱたりと止み、何事もなかったかのように去っていく。ただ迷惑をかけたいだけなのか、それとも自分を認識してほしいという承認欲求の一種なのか、現彦は未だに彼らの言動の真意を理解できていない。


 一通りの処理を終えて、現彦は交番の外に出た。

 富士並市富士並交番所は、駅から少し離れた場所にあり、目の前には大きな川が流れている。その川を沿うように植えられた桜は、すでに満開の花を咲かせている。交番所の入り口は満開の桜を見るのには絶好のポイントであり、暇な時や疲れた時は現彦も舞い上がる桜の花びらをじっと眺めていた。

 今年の桜はいつまで咲いてくれるだろうか、そんなことを思いながら桜の木を眺めている時、それは突然現彦の視界に映り込んだ。

 妙な男だった。甚兵衛姿に下駄を履き、ぼさぼさの長髪。遠くから見ても細身だとわかる体型は、一目見ると女性と見間違えてしまいそうなほどだった。しかし、現彦には彼が男性であることがはっきり分かった。ぼさぼさの長髪が顔を隠しているはずなのに、その立ち姿を見るだけで男だということが伝わった。

 妙な男と満開の桜、そして舞い上がる桜の花びら。まるで漫画や映画のワンシーンを抜き取ったような異様な光景に、現彦は目を奪われていた。魅力的なものに目を奪われている、というよりかは、異様な様子から目を離すことができない、といった方が正しかった。


 しばらく目を奪われていると、現彦の身体に何かがぶつかった。


「わっ!」


 小さく声を上げたそれは、小さな男の子だった。どうやらボーっとしていた自分にぶつかってしまったらしい。尻もちをついた状態で「いててて」とお尻を抑えている。


「おっとごめん、大丈夫か?」


 現彦が手を差し出すと、男の子はそれを強く握って立ち上がった。どうやら相当元気な子らしく、握る手はかなり強かった。


「えへへ、大丈夫だよ! おじさんごめんね!」


「おう、ちゃんと前を見て歩けよ」


「はーい!」


 そういって男の子は元気よく駆けていった。

 しかし、勢いよく駆けだしていったすぐに、男の子はその場に崩れ落ちた。転んだ、というよりかは足の力が抜けて倒れこんだ状態に近かった。


「お、おい! 大丈夫か!?」


 現彦は急いで男の子に駆け寄った。転んだだけだったら傷の手当てをすればいいが、それ以外であれば大事になりかねない。場合によっては親に連絡するよりも前に、病院に連絡しなければいけない可能性もある。

 ありとあらゆる可能性を想定して、現彦は倒れた男の子に駆け寄る。しかし男の子は、どこか異常があるようなそぶりを一切見せていなかった。


「大丈夫だよおじさん! ちょっとふらっとしただけ!」


 元気にそう言った男の子を見て、現彦は安堵した。おそらく軽い貧血とか、しりもちをついていた状態から急に駆けだしたことによる立ち眩みの類だろう。


「まったく、気を付けるんだぞ」


「はーい!」


 男の子はまた力強く返事をして、走り去っていった。その様子を見えなくなるまで見ていたが、それ以降倒れたりする様子は見られなかった。どうやら本当に大丈夫のようだ。


「まったく、一時は何かと思ったが」


 安心した様子で、現彦は交番に戻った。


「おやおや……今年の春風の悪魔は、ずいぶんと酷な始まりをあの子供に与えたものですな……」


 瞬間、その声は近くから聞こえてきた。

 さっきまで、自分と男の子しかいなかった場所に突然現れたそれは、現彦がさっきまで見ていたぼさぼさ髪の男性だった。川の向こうに立っていた男性が、いつの間にか自分の近くに立っている。


 現彦は驚き、男の方に向かって身構えた。

 突然声が聞こえてきたことへの驚きもある。それよりも驚いたのは、川の向こうにいた男性がいつの間にか自分の近くにまで来ているということだった。川の向こうから交番前まで行くには、少し離れた先にある橋を渡る必要がある。飛び越えて渡ることは不可能で、全力で走っても一分以上はかかる。男の様子から察するに、全力で走ってきたわけではないだろう。


 それはまるで、川の向こうから交番前へ瞬間移動してきたようだった。

 現彦は身構えた。得体のしれない存在を前に、咄嗟に身体が臨戦態勢を取っていた。腕っぷしには自信がある、いざとなれば組み付いて制圧もできるはず。

 しかし、目の前の男は現彦の様子を一顧だにせず、クスクスと笑い始めた。


「おっと、これは失礼。ずいぶんと驚かせてしまいました」


 臨戦態勢を取っている男を前にしても、ぼさぼさ髪の男は余裕の表情を浮かべている。それがどこか、現彦には不気味に感じた。自分が思っている以上に、この男は厄介なのかもしれない。


「安心してください。見ての通り、私は身体がそれほど強くはありません。そんなに身構えなくてもあなたに危害は加えません、というか加えられません」


 ぼさぼさ髪の男はそう言って、両手をひらひらと広げて見せた。甚平の袖から見える腕は遠目で見ていた時よりも白く、細く見えた。成人男性の腕とは思えないほど細いそれには、確かに現彦に危害を加えられそうな力はない。

 まだ安心はできないが、少なくとも肉体的にこちらが害されることはないだろう。そう考え直して、現彦は構えを解いた。瞬間、ぼさぼさ髪の男はまたクスクスと笑い始めた。


「分かっていただけたようで幸いです。荒事は苦手なのでね。できれば穏便に、物事は進めていきましょう」


 男はそう言って、現彦に向き直った。真っすぐに自分を見る男の目は真剣そのものであり、現彦は圧倒された。しかし、そこから放たれた男の言葉は、現彦にとっては到底信じがたい言葉だった。


「あの子はこれから、大きな病と生涯戦い続けることになる因子を植え付けられました。これは、春風の悪魔による現象です」


 これが、現象探偵と呼ばれる男『葛木象元』との出会いだった。

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