エピローグ


 窓の外では、もう何度目になるか分からない桜が、薄紅色の花びらを惜しげもなく散らしている。ひらり、ひらりと舞い落ちるその一片一片が、遠い昔の記憶の扉を静かに、しかし容赦なく開いていく。私は、すっかり皺の増えた手で温かいお茶の入った湯呑みを包み込みながら、過ぎ去った長い歳月に想いを馳せていた。時の流れは、鋭い痛みを鈍い疼きへと変えたが、心の奥深くに刻まれた傷跡を消し去ることはなかった。


 私の手元には、一枚の色褪せた写真がある。そこに写っているのは、まだ高校生の面影を残す、少し照れくさそうに笑う二人の男女。私の隣で、世界で一番幸せそうな顔をしている、彼。佐倉悠人君。そして、その腕に抱かれるようにして未来への希望だけを瞳に映していた、若かりし頃の私。この写真が撮られた時から、一体どれだけの時間が流れたのだろう。私の人生は、あの日を境にして光と影、生と死が複雑に絡み合う、迷宮のような道を歩んできた。


 あの日、彼の命と引き換えに私の内に宿った小さな光は、無事にこの世に生を受けた。男の子だった。私は、迷うことなくその子に彼の名前を授けた。「悠人」と。産声を聞いた瞬間、胸を突き上げたのは純粋な喜びだけではなかった。彼の忘れ形見をこの腕に抱けるという至上の幸福と、彼の命を奪った自分が母親になる資格などあるのかという、底なしの罪悪感。その二つの巨大な感情の狭間で、私は何度も溺れそうになった。


 子育ては、決して楽な道ではなかった。女手一つで、しかも私のような呪われた体質を持つ人間が、一つの命を育むことは想像を絶する困難を伴った。しかし、私には母がいてくれた。かつて同じように愛する者を失った母は、何も言わずにただ、私と小さな悠人の傍に寄り添い続けてくれた。夜泣きがやまぬ息子を抱いて途方に暮れる私の背中を、黙ってさすってくれた夜。私が罪悪感に苛まれ食事も喉を通らない時、何も言わずに温かいスープを部屋の前に置いてくれた朝。その無言の支えがなければ、私はとっくの昔に心の重さに耐えきれず潰れてしまっていたかもしれない。母との間には、同じ痛みを背負う者同士の、言葉にならない絆があった。


 悠人は、すくすくと本当に真っ直ぐな青年に育ってくれた。父親の面影を色濃く宿したその顔立ち。そして、誰に対しても一点の曇りもない善意を向けることができる、その純粋な心。彼は、まるで、あの日の悠人君がもう一度私の前に現れてくれたかのような、奇跡そのものだった。息子が成長し彼の面影が濃くなるにつれて、私の心は愛おしさで満たされると同時に、彼の名前を呼ぶたびに胸に小さな棘が刺さるような痛みを覚えた。


 そして、今年の春。息子は、かつて私と彼が共に目指したあの国立大学に見事合格した。桜舞うキャンパスへと続く坂道を誇らしげに上っていく息子の後ろ姿を見送りながら、私の脳裏には走馬灯のようにこれまでの人生が鮮やかに蘇っていた。あの日の彼が果たせなかった夢を、息子が今、叶えようとしている。その事実に、私は涙が止まらなかった。それは喜びの涙であると同時に、決して彼には見せてあげられない光景であることへの、深い悲しみの涙でもあった。


 思い出すのは、いつも誰かの「不幸」だった。


 小学生の頃、私をスケープゴートにしていじめ、執拗に追い詰めてきたあの女教師。彼女はある日突然、心臓発作で教壇に立ったまま帰らぬ人となった。子供心に感じたのは、漠然とした恐怖と、そして不謹慎にも安堵する自分の心に対する嫌悪感だった。


 中学生の頃。私に陰湿ないじめを繰り返していたクラスメイトたちは、次々と原因不明の体調不良や家庭の不和に見舞われ、学校から姿を消していった。そして、仕事の失敗からアルコールに溺れ、ある夜、獣のような欲望を私に向けた父。私を庇った母に制止された直後、家を飛び出した彼はトラックにはねられて死んだ。父を憎みきれない自分と、父の死がもたらした解放感に私は長く苦しんだ。共にプロを目指し切磋琢磨してきた、テニス部の親友。私が彼女と共に全国大会へ行きたいと強く願ったその矢先に、彼女は選手生命を絶たれるほどの大怪我を負った。純粋な願いが、最も残酷な形で親友の未来を奪ったのだ。


 そして、高校生になって出会った悠人君。私に一生分の、ありったけの幸せをくれたたった一人の愛しい人。彼のあまりにも純粋で無償の善意こそが、私の呪われた体質にとって最高の触媒だった。彼がくれた幸福の全てが、彼の命を燃料にして燃える炎だったのだと、気づいた時にはもう遅かった。


 私は、この子を、悠人を育て上げるまでは絶対に死ねないと、そう固く心に誓って生きてきた。しかし、その一方で私の心の奥底では、常に、もう一人の自分が冷たく問いかけ続けていた。お前のような、他者の幸運や命を糧にしか生きられない人間が、本当に生きていていいのだろうか、と。それは自殺願望ではない。自分の存在そのものが、愛する者にとってさえ害悪となりうるという、根源的な恐怖と罪悪感からくる問いだった。


 息子が小学校に入学して、私が社会人として自らの足で人生を歩み始めてからも、私の周りでは不可解な出来事が後を絶たなかった。息子のために、そして彼への償いのために、ただ黙々と働き続ける私のささやかな生活。そこにさえ、悪意は容赦なく忍び寄ってきた。私を陥れようとした同僚は、不可解なスキャンダルで職を失った。私に執拗な嫌がらせを繰り返した上司は、ある日突然、重い病に倒れ会社を去った。その度に、私の心は少しずつ麻痺していった。もはや驚きも、恐怖も、罪悪感さえも感じなくなっていた。それは、私が呼吸をするのと同じくらい、私の人生における自然な法則になってしまったからだ。私はただ、誰とも深く関わらないように、誰からも悪意を向けられないように、息を潜めて生きる術を身につけていった。


 私は、そっと湯呑みを置いた。窓の外では、桜の花びらが最後の輝きを放つかのように乱れ舞っている。


 人生は、ままならないものである。


 幸運と不幸。善意と悪意。愛と、その代償。その全てが複雑に絡み合い、決して人の思い通りにはならない巨大な流れを作り出していく。私は、その流れの中でただ生かされているに過ぎないのかもしれない。


 私は、もう一度写真の中の彼に目をやった。その優しい笑顔は、時を経ても少しも色褪せることはない。


「悠人君。私は、まだここにいるよ」


 その呟きが、誰に届くでもなく春の午後の穏やかな光の中に、静かに溶けて消えていった。それが、許しを乞う祈りなのか、それとも、この呪いを一生背負い続けるという決意表明なのか、今の私にはもう、分からなかった。

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運命の代償:鈴のとなりに咲く花 舞夢宜人 @MyTime1969

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