猫が大好きな小学生の私、野良猫の命に向き合った夏

きょうこ

第一話


 三島静香、小学三年生。元気いっぱいの女の子だけど、たった一つ、心に募る不満があった。それは、大好きな猫を飼えないこと。


「ねえ、ママ!猫飼いたい!飼いたいよー!」


 静香がそう叫ぶたび、母の秋子は、決まって困ったような顔で答えるのだ。


「静香はまだ、生き物を飼うってことの、本当の大変さが分かってないでしょう?」

「分かってるよ!ちゃんと飼えるもん!」


 静香は、何故母が飼ってくれないのか、分からなかった。猫を連れて帰った時、元いた場所に帰された事もあった。きっと母は猫が嫌いなんだと思った。猫はこんなにも可愛いのに。そんな気持ちが全身を占めている。


 母は、せめてもの償いとばかりに、猫柄の靴下、猫が胸ポケットに入ってるかのようなイラストが描かれた服、猫柄のハンカチと、次々と猫グッズを買ってくれたけれど、そんなもので静香の心が満たされるはずもなかった。しかし実は、母も自分と同じくらい猫が好きで、本当は飼いたい気持ちを我慢しているなんて、幼い静香には知る由もなかった。


 静香は、母が近所のホームセンターやショッピングモールに行くときは必ずついて行き、到着と同時にペットショップコーナーに突撃した。キラキラと輝くガラスケースの向こうには、ふわふわの毛玉たちがこちらを見つめている。じっと見つめていると、猫たちが近づいてきて、ガラスに添えた手に顔を擦り付けてきた。直接触れないのが残念だった。


「あー、可愛い。飼いたい、飼いたいな……」

「あっちの寝てる子、まんまるになってボールみたい!可愛い〜!」


 ガラスに張り付いて見つめていると、時間が経つのも忘れてしまう。そして、母が迎えに来ると、またいつもの駄々をこねるのだ。


「買って!お願い!ねえ、ママ、お願いだよー!」


 その度に母に諭された。



 静香にとって、もう一つ大切な場所がある。それは、下校途中の公園だ。ここにはたくさんの野良猫たちが暮らしている。静香は毎日、公園に立ち寄り、ランドセルをベンチに放り出して、猫たちと遊ぶのが日課だった。


 中でも、静香には特別お気に入りの猫がいた。三毛猫のミーちゃんだ。背中には、まるで筆で描いたかのように、くっきりとカタカナの「ミ」の字に似た黒毛の模様があった。だから静香は、この三毛猫を「ミーちゃん」と名付けていた。


 ミーちゃんは、他の猫たちよりも少しだけ警戒心が薄く、静香がそっと近づくと、ゆっくりと瞼を閉じて撫でさせてくれる。ふわふわの毛並みを指でなぞると、温かい体温が伝わってくる。その優しい感触に、静香の心はとろけるようだった。友達にミーちゃんの話をするたび、静香は得意げに胸を張った。


 そんなある日のこと。いつものように公園に行ったのに、ミーちゃんの姿が見えない。次の日も、そのまた次の日も、どれだけ探してもミーちゃんは現れなかった。静香の心には、これまで感じたことのない不安が広がった。まさか、どこかへ行ってしまったのだろうか。それとも、何か悪いことがあったのだろうか。


 数日後、静香は公園の奥、普段は足を踏み入れないような茂みの陰で、ぐったりと横たわるミーちゃんを見つけた。安堵したのも束の間、ミーちゃんは、いつもならピンと立っている耳も、大きく見開かれた目も、今は生気を失って伏せられている。息も荒く、熱があるのか、体が熱かった。


「ミーちゃん…!ミーちゃん、どうしたの!?」


 静香の心臓がバクバクと音を立てる。こんなミーちゃんは初めて見た。体が震え、涙がにじむ。ミーちゃんを助けなければ。その一心で、静香はミーちゃんをそっと抱き上げた。驚くほど体が軽く、骨ばっているのが分かった。


 ミーちゃんを抱えたまま、静香は走り出した。どこへ行けばいいのか分からない。頭の中はパニックだ。病院。そうだ、動物病院に行かなければ。しかし、静香は動物病院の場所を知らなかった。ただひたすら、ミーちゃんを抱きしめて、必死で走る。息が切れても、足は止まらなかった。


「ママ!…ママ!ミーちゃん…が、ミーちゃんが…大変なの!」


 玄関を開けるなり、静香は泣きながら叫んだ。母親の秋子は、汗が吹き出し、肩で息をする静香のただならぬ様子に驚く。静香の腕の中にいるぐったりとしたミーちゃんを見つけ、事態を瞬時に察した。


「静香!どうしたの?この子は!?」

「公園で…ぐったり…してたの…!ミーちゃん、助けて…あげないと…!」


 息が上がり、うまく話せない。焦るばかりだった。そんな静香の様子を見て、秋子は冷静に、リビングからタオルと毛布を持ってきてミーちゃんを優しく包んだ。そして、携帯電話を手に、手早く動物病院を検索する。


「すぐに病院に行くわよ。静香、ミーちゃんを大事に抱えてて」


 動物病院は、家から少し離れた場所にあった。車で向かう間も、静香は不安でミーちゃんから目を離せない。病院に着き、受付を済ませる。呼ばれるまでの間、静香はずっとミーちゃんを撫でていた。


 やがて名前を呼ばれ、診察室に入ると、優しい獣医さんがミーちゃんを診てくれた。診断の結果は、ひどい栄養失調と脱水症状、そして感染症。すぐに治療が必要だと言われた。


「治療には、これくらいの費用がかかります」


 獣医さんが差し出した見積書に書かれた金額を見て、静香は思わず息を呑んだ。それは、静香がこれまで貯めてきたお小遣いの、何倍も何十倍もするような高額な数字だった。たった一匹の猫を助けるのに、こんなにもお金がかかるなんて。静香は、その金額の重さに愕然とした。しかし母は迷わず、「お願いします」と先生に伝えていた。


 治療が始まると、ミーちゃんは普段の穏やかさとは打って変わって、慣れない場所と痛みからか、激しく暴れ出した。聞いたこともないような鳴き声をあげ、全身の毛が逆立っている。尻尾はいつもの何倍も太く見えた。母が必死でミーちゃんの体を抑え、獣医さんと看護師さんが点滴を始める。みんなが必死になっているのに、静香はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。



 1週間が経ち、ミーちゃんは一旦退院し、自宅でのケアに移行した。獣医さんからは、1日1回、食事の時に薬を飲ませるように言われた。しかし、これがまた大変な仕事だった。


 ミーちゃんは薬が嫌いで、静香が抱きかかえても必死でもがく。小さく開いた口に、スポイトで薬をねじ込むたび、ミーちゃんは嫌がって頭を振る。薬がこぼれてしまったり、ミーちゃんに引っかかれたりすることもあった。


「どうして飲んでくれないの…!」


 泣きそうになりながらも、静香は諦めなかった。可愛がるだけでは済まない。こんなにも手間がかかり、根気が必要で、そして痛みや嫌なことを我慢させなければならないこともある。静香は、この『薬を飲ませる』という行為を通して、命を預かることの具体的な大変さを、身をもって知っていった。その学びは、静香の心に深く刻まれた。


 ミーちゃんの世話をしている間、母の秋子はいつも静香の傍にいた。疲れて眠りこける静香に毛布をかけたり、薬を飲ませるのを手伝ったり、ミーちゃんの体を優しく拭いてやったり。その母の姿を見るたび、静香は、これまで自分に「まだ無理」と言っていた母の言葉の意味が、どれほどの真剣な思いと愛情があったのかを理解していった。必死で看病する姿から、母もミーちゃんの回復を心から願っているのだと、静香は初めて知った。


 ミーちゃんの治療が一段落し、食欲も出てきて、少しずつ元気を取り戻した頃、ある日の夕食後、秋子が静香に優しく語りかけた。


「静香。今日までミーちゃんのことを一生懸命看病して、本当に頑張ったね。命を預かることって、とても大変なことだって、今ならわかるかな?」


 静香は深く頷いた。ペットショップで『可愛い』としか思えなかった猫が、こんなにも大変な病気になり、自分は何の知識も持たず、多額のお金もかかり、そして毎日世話をしなければいけないということを、身をもって経験したのだ。


「私、分かってなかった。遊んで、撫でて、ごはんをあげるだけだっておもってた。」

「でもね、今は違うよ。病気になっちゃうこともあるし、怪我することもあるってわかった。お薬を飲んでもらうのも大変だし、お金だってたくさんいる。それに、まだまだもっと大変なこともあると思う。」


 今回の件を通して、静香は命を預かる責任と、その大変さを確かに理解していた。頷くと、秋子が口を開く。


「それがわかった今でも、猫ちゃんを飼いたいって思う?」


 静香は、まっすぐ母を見つめた。


「まだ、ちゃんと飼えるかどうかわからないけど、ミーちゃんみたいに、病気になったらお医者さんにつれていけるかもわからないし…お金だって足りないし…。でも…でも、飼いたいと思う」


 母は優しい笑顔を浮かべていた。


「今の静香なら、ちゃんと責任を持って飼えると思うよ。お世話もきっと、ちゃんとできるわ。それじゃ、ミーちゃんを、私たち家族の一員として迎え入れようか」


 静香は、一瞬何を言われたのか分からなかった。そして、それが現実だと理解した瞬間、信じられないほどの喜びと感動が胸いっぱいに広がった。


「ホント!?ホントに!?」


 静香の目に大粒の涙が溢れた。秋子も静香を抱きしめ、頭を撫でる。ミーちゃんもゴロゴロと喉を鳴らして、まるで家族の仲間入りを喜んでいるかのようだった。こうして、ミーちゃんは野良猫から、三島家の『大切な家族』となることが決まったのだ。


 ミーちゃんを家に迎える準備のため、家族みんなでホームセンターのペット用品コーナーへ向かった。以前はガラス越しに猫を眺め、「飼いたい!」と駄々をこねるだけだった場所。でも、今日はミーちゃんのために買い物ができる特別な日だ。静香の心は弾んでいた。


 しかし、いざ猫用品を目の前にすると、静香は戸惑った。キャットフード一つとっても、子猫用、成猫用、高齢猫用、毛玉ケア用、尿路ケア用など、種類が豊富にあり、どれを選べばいいのか分からない。トイレの砂も、システムトイレ、鉱物系、紙製、木製など様々だ。


「え、こんなに種類があるの?」

「ごはんって、何を食べさせたらいいの?」

「トイレもこんなにたくさんあるんだ…」


 爪とぎ、おもちゃ、ベッド、ブラシ、シャンプー、キャリーバッグ……。これまで「かわいい」としか見ていなかった猫を飼うために、これほど多くの物が必要で、一つ一つの選び方にも知識がいるという現実に、静香は自分が何も知らなかったことを痛感した。


 お母さんが店員さんに熱心に質問したり、商品の説明を読み比べたりする姿を見て、猫を飼うことの準備がいかに大変か、そしてお母さんがこれまでどれほど責任を持って考えてくれていたかを、静香は今一度、深く理解した。



 ミーちゃんを家族に迎えた三島静香は、もう以前の静香ではなかった。


 ミーちゃんとの暮らしは、毎日が発見と喜び、そして責任の連続だった。朝起きるとミーちゃんに一番に「おはよう」を言い、水を替え、ご飯をあげる。トイレの掃除も率先して行った。お小遣いを奮発して買ってきたおもちゃには見向きもしない事もあったし、ミーちゃんが机の上のコップを落として割ってしまうなど、いたずらをして困らせることもあったけれど、静香は決して怒らなかった。


 それは、ミーちゃんを「可愛い」というだけの存在ではなく、「命」として大切に思う気持ちが芽生えたからだ。


 公園で他の野良猫たちと遊ぶ際も、静香は以前のようにただ追いかけることはなくなった。一匹一匹の毛並みや目の輝き、体の動きに注意深く目を向ける。どこか怪我をしていないか、元気にしているか、お腹は空いていないか。そんな小さな変化にも気づけるようになった。


 図書館では、動物に関する本を借りてくるようになった。病気のこと、動物の行動、飼育方法。知れば知るほど、動物たちの世界は奥深く、静香の知的好奇心は尽きなかった。


 そして、ある日のこと、静香は家族に宣言した。


「私ね、大きくなったら、動物のお医者さんになりたい! ミーちゃんを助けてくれた先生みたいに、困っている動物さんを治してあげたいの!」


 それは、ペットショップで駄々をこねていたあの頃の、単純な『かわいい』という憧れから生まれた夢ではなかった。ミーちゃんの命を救うために必死になり、命の重さや責任、そして家族の愛情を知った静香が、本当に心から願う、かけがえのない夢へと変わっていた。


 静香の瞳は、未来への希望に満ちてキラキラと輝いていた。ミーちゃんがそばで、静かにゴロゴロと喉を鳴らしている。その音は、静香の新しい夢を応援しているかのようだった。

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