幻灯珈琲美容室

言守つぐみ

Smiles in Tears

 ここは、幻灯珈琲美容室。

 喉だけでなく、心をも潤す、喫茶店。

 髪だけでなく、気持ちをも整える、美容室。


 お客様は、一日に一人まで。


 何かに悩み、日々苦しんでいる方だけがたどり着ける、不思議な場所。


 今日もまた、扉の鈴が鳴る。

 本日のお客様は、大学生ぐらいの髪の長い女性。

 顔色が悪く、泣き腫らしたように目元が赤い。


 彼女の顔を、明るいものに変えよう。

 そう決意し、私は準備を整え、彼女の元に歩み寄る。


♢♢♢


 私は今、とある美容院のカットチェアに座っている。


「お待たせいたしました」

美容師さんが私に歩み寄り、声をかける。


 彼女は私の背後に周り、

「本日は、どのようにいたしましょう」

「肩ぐらいまで、バッサリ切ってください」

「承知しました」

 彼女はそう言って、私の髪を櫛で溶かす。

 

 一ヶ月ほど前、二年間付き合っていた彼が、私のもとを去った。

 今日は、そのけじめをつけにきた。

 迷わずバッサリ、髪を切りに来た。


 彼とは大学で知り合い、お互いに惹かれあった。

 なぜだろう。今になって、とても不思議に思う。

 というのも、私と彼はあまり似ていなかったのだ。


 彼はパン派で、私は米派。

 彼は猫派で、私は犬派。

 彼はインドア派で、私はアウトドア派。


 私たちの違いを挙げたらキリがない。

 それでも、私たちはこれまでの二年間、うまくやってきたはずだ。

 相手と違う分、お互いが知らない景色を教え合ってきた。

 足りないものを、お互いにカバーし合ってきた。

 彼との日々は毎日が新しいことだらけで、新鮮だった。

 それなのに、彼が突然……。


「それでは、切っていきます」


 彼との思い出に浸る私に、声がかかる。

 美容師さんが、言葉通りに私の髪を切る。

 彼が褒めてくれた、自慢の長髪。今はおへそのあたりまで伸びている。

 一房の髪が切られ、重力に従い、床へ落ちる。


 はらり。

 彼は読書が好きで、よく本を勧めてくれた。

 その中でも、ある一冊がとても印象に残っている。

 読書が苦手な私は、時間をかけつつ、その本を読み切った。

 内容は、死の病に冒された女性と、その恋人が過ごす時間を描いたものだった。

 読み進めながら、あまりの切なさに、私は号泣した。

 その後、彼は誕生日にその本を私に譲ってくれた。

 あまり頻繁に読むことはないけど、今でも大切に、本棚に並んでいる。


 はらり。

 彼を無理やり、アスレチックに連行したこともあった。

 あまりの高さに足を振るわせながら、

「よ、よゆー……」

と、真っ青な顔をして言う彼を見て、私はくすくすと笑っていた。

 頼りないけど、そんな彼が大好きだった。


 はらり。

 失敗した私の手料理を、それでも美味しそうに食べてくれた彼。残さず最後まで食べてくれた。


 はらり。

 私が熱を出したとき、ずっと隣で看病してくれた彼。彼が作ったお粥は、温かく、美味しかった。


 はらり。

 私に告白してくれた彼。


 はらり。

 つらいとき、いつもそばにいてくれた彼。


 はらり。

 喧嘩したとき、最後まで私の話を聞いてくれて、いつも先に謝ってくれた彼。


 私の髪が、切られていく。

 彼との思い出が、蘇ってくる。

 楽しかったこと。つらかったこと。嬉しかったこと。悲しかったこと。

 鼻の奥がツンと痛み、胸の辺りがキュッと締め付けられる。


 はらり。

 病室のベッドの中、脂汗と苦悶の表情を浮かべる彼。


 はらり。

 私がお見舞いに行くと、つらいはずなのに無理やり笑顔を浮かべる彼。


 はらり。

 少しずつ痩せて、弱々しくなっていく彼。


 はらり。

 私の手を、懸命に、握り返してくれた彼。


 はらり。

 私が大好きな、彼。


 私の目に、涙が浮かんだ。


「終わりました」

美容師さんが、声をかけてくれる。


 私は、鏡の中の自分に目を向ける。


 長かった髪は肩の位置まで短くなり、新鮮な気持ちになる。


 髪を洗い、ドライヤーで乾かしてくれた美容師さんは、ホットココアを持ってきてくれた。

 私がここに入店したときに、注文したものだ。


 ココアを持っていき、カウンター席に腰かける。

 カップを軽く持ち上げ、口をつける。

 甘くて、温かくて、ほんの少し、苦い。

 ミルクとカカオの香りが、口いっぱいに広がる。

 ココアの温かさが、胸の辺りにジワリと広がる。


「おいしい……」

「いいね。あったかそう」

隣の席に腰をかけて、彼が言う。


「俺も、何か飲もうかな」

「何かって、どうせコーヒーしか飲まないでしょ」

「それもそうだな」


 二人で笑い合う。いつぶりだろう。こんなに穏やかに彼と会話ができたのは。


「その髪も、素敵だよ」

彼が、そんなことを言う。


 私は「えへへ」と笑い、

「そうかな?」

なんて、自慢げに彼に見せつける。


「うん。今までももちろん可愛かったけど、今はさらに綺麗さが増した感じかな」

 彼が、私を褒めてくれる。相変わらず、具体的に。

 欲しいときに欲しい言葉をくれる。それが彼だった。


「どうしたの?」

彼が心配そうに、私の顔を覗き込む。


「え? 何が?」

私はそこで気がついた。


 声が、震えている。頬に手をやると、濡れていた。

「あれ? おかしいな」

 さっきまで、ついさっきまで我慢できていたのに、いざ彼を前にすると、押さえ込めなくなった。


 グッと彼が、私を抱きしめる。

 いつもの、彼。

 いつもの、声。

 いつもの、温もり。

 いつもの、強さ。

 いつもの、香り。

 いつもの、鼓動。

 いつもの、息遣い。

 いつもの、優しさ。


「うぅ、う、うぅ〜〜」

 まったく、彼には敵わない。

 彼の胸の中で、私の涙腺は崩壊する。


「いいんだよ」

彼の声が、頭の上から響く。

「泣きたいときは、たくさん泣きな」


 彼の手が、私の頭を撫でる。


「つらいことや、苦しいことは、我慢しちゃいけないよ」


 綺麗で、白い、私の大好きな、彼の手。


「僕がいなくなっても、誰かに自分の思いを打ち明けてね」


 そうだ。もう、彼はいない。

 もう、これほど彼を感じることはできない。


「い、いやだよぉぉ!」


 私は彼の胸の中で、頭を振って叫ぶ。


「あなたがいないと……、私…」

生きていけない。

 そう言おうとして、彼に遮られる。


「ねえ、俺からの、最期のお願い、聞いてくれない?」


「え……?」

私は彼の顔を見上げる。


 私の大好きな、彼の目。

 私の大好きな、彼の鼻。

 私の大好きな、口元。

 私の大好きな、彼の全て。


「俺の分まで、たくさんのことを楽しんで欲しい。

 俺の分まで、たくさん、たくさん、生きて欲しい。

 ……ダメ……かな?」


 彼の目が、潤んでいる。

 彼の唇が、震えている。

 そうだ、一番つらいのは、彼なのだ。

 やりたいこともたくさんあるのに、読みたい本もたくさんあるのに、まだまだ、人生これからなのに……。


 それなのに、理不尽に未来を取り上げられてしまったのだ。私なんかより、彼の方がつらいはずだ。だけど、それはわかってるけど……。


「いやだよ。いなくなんないでよ。これからも、ずっと一緒にいてよ……」


 頭ではわかっている。

 わかりきっている。

 けれど、それでも。

 受け入れられない。

 割り切れない。

 諦めきれない。


「ごめんね」

彼の震えた口が開く。

「僕だってもちろんそうしたいけど、そういうわけには、いかないんだ」


「いやだ〜……」

 彼がいなくなるなんて耐えられない。

 胸が苦しくて、寂しくて、どうにかなりそうだった。


ぎゅっ

 私を抱きしめる彼の腕に力がこもる。


「泣かないでよ。最後は、君のとびっきりの笑顔が見たいな。可愛くて、綺麗で、少し照れたような、君の笑顔」


 私は、何も言えない。


「僕のことは、大丈夫。また、新しく好きな人を作って、その人と幸せになって欲しい」


 まだ、私は動けない。


「君の幸せを、僕はずっと願ってる。向こうから、ずっと君を見守ってる。

 あ、でも、たまには思い出して欲しいかな」


 少し照れを含んだ、彼の言葉。

 もう、聞くことはできない、私の大好きな、彼の言葉。


「僕は、君が大好きだよ。

 今までも、そしてこれからも。

 頑張り屋さんなところ。

 元気いっぱいで、活発なところ。

 僕が勧めた本を、最後まで読んでくれるところ。

 苦手でも、精一杯の料理を振る舞ってくれるところ。

 僕と違う、君のこと。

 君の全部が、心の底から、大好きだ」


「……私も」

 懸命に、口を開く。


「私も、あなたが大好き。

 今までも、これからも。

 つらいとき、いつもそばにいてくれるところ。

 静かで、大人っぽくて、クールなところ。

 欲しいときに、欲しい言葉をくれるところ。

 私と違う、あなたのこと。

 あなたのすべてが、他の何よりも、大好き」


 私は顔を上げる。

 満面の笑みで。

 彼の期待に応えられているだろうか。

 涙に濡れたべちゃべちゃの笑顔で、彼は満足してくれるだろうか。


「……うん。やっぱり君の笑顔は最高だ」

ニシシと笑って彼が言う。


 彼の笑顔こそ、最高だった。

 宝石のようで、私のすべて。

 でも、それを手放さなければいけないときが来た。


「じゃあね。どうか、幸せに生きて」

 彼が、笑顔のままで言う。

 彼が、情けない泣き顔で言う。


 私が愛した、彼の顔。


 私は天井を仰ぐ。

 大きく息を吸って、彼に向き直る。


 二人して、涙に滲んだ笑顔で微笑み合う。

 何もかも違う私たちの表情が、初めて重なった気がした。


「うん……。バイバイ」


 私は、残っているココアに、口をつける。

 もうすっかり冷めてしまっていたが、とても美味しいままだった。

 もう味合うことはできない、彼の甘さと、ほんの少しの苦味が、静かに口の中で溶けていく。


 一気に、飲み干す。

 悲しさ。

 苦しさ。

 つらさ。

 寂しさ。

 悔しさ。

 虚しさ。

 全部を、呑み込む。

 いつまでも、彼に心配をかけられない。


 飲み終え、隣を見る。

 そこにはもう、誰もいない。

 私の大好きなあの人は、影も形も残っていない。


 でも、もういいんだ。

 私は腰を上げる。

 お金を払い、店を出る。


 彼が望んだ、私の幸せ。

 それを叶えられるのは、私しかいない。


 大きく息を吸い、吐き出す。

 とても清々しい気持ちだった。


 私は歩みを進める。

 前進する。

 前へ、進む。


 彼の分まで、幸せになろう。

 彼の分まで、生きてみよう。


 そう決めて、私は未来に目を向けるのだった。


♢♢♢


 また一人のお客様を見送り、私はソファーに腰を下ろす。


 この店は、お客様の悩みに寄り添い、心を和らげるお手伝いをしている。


 髪を整え、つらい記憶をそっと撫でる。

 一杯の温もりで、心を芯から温める。

 幻の景色に身を委ね、凍えた想いに、光を灯す。


 お客様が望む、優しい幻。

 決して叶わない、刹那の夢。


 ただし、それから先はお客様自身の問題。

 解決しないどころか、場合によっては悪化する可能性すらある。


 今日のお客様は、大好きな彼の想いに応え、前を向くことができたようだ。

 これからは、つらいことも自分の力で乗り越えて行けるだろう。


「さて」

 腰を上げ、お客様のティーカップを洗う。

「明日はどんなお客様が来るのかしら」

 ワクワクする気持ちを抑えるように、カップを棚にしまう。


「あら、忘れていたわ」

 ついうっかり。


 私は店の入り口へと向かう。


 扉に手を伸ばし、ドアノブにかかった看板を裏返した。


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