樹海に足を踏み入れるべきではない。

 ユミフネは赤竜を前に迷いなくナイフを入れた。


 狩猟で得た獲物なら肉が傷む前に血と内臓を取り除くべきだが、竜の死骸を運ぶこともできないし、この場で居座って消費していくこともできない。


 だから解体する部位を絞った。竜の後ろ脚、鱗と内側の皮膜の境目に刃を差し込んで、一気に革を剥ぎ落とす。


 鉄竜を分解するのとは違う。力はいるが、筋に沿えば難しくはない。


 血に濡れた手で汗を拭いながら、黙々と今食べる分と保存用に運べる程度の赤身を切り取った。


 陽が昇るにつれ、腐臭とは異なる脂の甘ったるい匂いが漂い始めている。竜種は腐敗するのが遅いとは聞いたが……長くはもたないだろう。


「ふぅ……。こいつが腐ったらとんでもない臭いになるだろうな。燃やせる大きさでもねえし」


 集中はしていたが沈黙には堪えかねた。ただ思ったことをぼやきながら視線を腹部に移した。分厚い革に深くナイフを突き立てて、鋸のように強引に裂いていくと足元に夥しい血が広がっていく。


 やはりここに長居はできない。


 血と油の臭いにつられて不快な羽音を散らす蚊(サンクード)が飛び交い、瑠璃色の翅の蝶々が大群になって足元の血を、滴る汗を吸いに来ていた。


 鱗粉が散っていくと毒でもあるのか酷く視界が歪んで、慌てて口元を布で覆った。


 冷たくなった死骸に両手を突っ込んで、内側からぶちぶちと脂肪の網を引き千切って回収。……ねっとりとした油膜が光を反射した。


 汗とも血とも違うぬめりが手を伝い、日の光で皮膚に貼りついてくる。


 それら諸々を機体の張布の一部で即席の袋に突っ込んでいく。一通り運べる量を回収して顔をあげると、シロロンと眼が合った。


 彼女の手にはひしゃげた金属のフレーム。排気管。そしてワイヤー。


 滑りやすい泥の地面は力を込めた跡が深く刻まれていた。……ナイフと膂力だけで器具無しに分解したらしい。


「そっちもすべきことはしてくれたようだね」


「……しないと俺が困るからだ。いまこの状況で食料の放棄はしたくない。そっちこそ随分働いてくれたな」


 嫌味のつもりで言ったが、シロロンはしたり顔になるだけだった。


 そもそも嫌味にすらなっていない。


 だがこの協力に深い意味はない。


 敵同士ではあったが、生き延びるために自分の仕事をこなしただけだ。


 少なくとも、二人ともそう自分に言い聞かせた。


「嗚呼、そうだ。もしできるなら計器の磁石を回収できるか?」


「赤身と脂肪だけではなく、一本だけでいいから赤竜の翼爪を取れるかね?」


 言葉が重なって潰れた。


 ……気まずさを互いに互いの要望に応えることで誤魔化して、互いに言われたものを投げ渡す。


 竜の爪は削れば鉄のナイフよりも鋭く頑丈に変わるだろうし、磁石も磁気そのものが生きていれば方位を確かめる程度のことはできるだろう。


 空中ですれ違い、音もなく落ちた。地面に。二人は何事もなかったようにそれぞれ拾い上げ、黙って腰へと仕舞う。


「もっと狙って投げられないのか? 力任せに投げるぐらいならちゃんと手渡せ。バカ犬女」


「はぁ。爪が重くてワタシに届かないならそう言えばいいだろう? 格好つけたくせに手前にぽとって落ちたときの気持ちがわかるかね? ださいぞ」


 そして好き勝手文句を言いながら荷物を整えた。


 泥で汚れた白い尻尾を揺らして、シロロンは余裕を取り繕うように笑みを浮かべて見せる。


「それで、ワタシなら行く場所に検討はついているが、君はどう思うかね?」


「……作戦時に見た地図から想定して、ここから南に進めばアパポリス川だったかがあるはずだ。段滝(ラウダル)が多いから川を下っていくのは無理だが」


 このあたりは下流域ではなく樹海のど真ん中だ。生存のためには川は不可欠だが、上流域であり、岩盤を削ったような荒々しい流域が多かったはずだ。


「フッ……。奇遇だね。ワタシも同じことを考えていたよ」


 まるで何も思いついていなかった様子でシロロンも賛同してくれた。


 彼女は敵で、力ではとても敵わないが……馬鹿だ。


 ユミフネは空を一度仰ぎ、顔をしかめた。快晴の青空が容赦なく照り付けている。


 ……この調子で気温が上がっていけば、昼はまともに動けないかもしれない。


 熱気と湿度のせいか、疲労のせいか。空を見ていると視界が眩んだ。


 太陽が高く昇りつつある。樹海の湿度は既に限界を越えようとしていた。


 濃い緑の空気がまとわりつくように体を包み、呼吸のたびに喉が粘る。


 汗と血と油の臭いが入り混じり、空気はぬるく重い。


「行くぞ」


 それでも移動しなければ話にならない。


 力なく告げると、シロロンも無言で頷いた。


 赤竜と鉄竜の亡骸を背に、ぬかるむ地を踏み出した。


 枝葉が垂れ下がる森の奥へ。


 無数のシダ植物と鬱陶しい蔓をかき分けながら移動していく。


「……」


 墜落地点を振り返る。


 木々も生い茂る低木も少なく良い場所ではあったが。


 竜の死骸は既に蟲に覆われ、赤い鱗さえも見えなくなっていた。


 黒、青、茶、緑。


 自分達も死ねば同じ色に染まるだろうか?


 ……現実から目を逸らすように前を向き直した。

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複葉機【鉄竜】乗りの俺が敵国のドラゴンライダーの少女と空中衝突で魔界に墜落って”ほんまかい”  終乃スェーシャ @rioro

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