機体を敵に預けてはならない。

 ――――遭難二日目。

 魔界制限自治領

 マジェラ樹海南部。時刻は……朝。天気は快晴。

 墜落は夢ではなかったらしい。どれだけ目を擦ろうとも悲惨な残骸となった【鉄竜】は消えない。

 すぐ横では赤竜の死骸が横たわっている。

 竜は腐敗するまでに時間が掛かるらしいが、それが始まればここに往生することもできなくなるに違いない。

 一緒に墜落したバカなドラゴンライダーの女はまだ隣で眠りこけている。裸のまま。

 敵兵が隣にいるのに無防備なものだ。

 今のうちに縛ってやろうかとも考えたが、しばらくは協力もとい、利用しておいたほうが問題解決も早くなるだろう。

 多分。




 ユミフネは小さな手記に習慣付けていた日記を書き連ねた。


 まぁこれも現実逃避の一種でしかない。


 自分が死んでも誰かがこれを読んで――別に得るものもなにもないか。


 なんだか脱力感だけが全身を包み込んで、立ち上がれないままぼんやりと隣を見つめる。


 すぐ隣ではシロロン・ロロン・ロンロンなんてふざけた名前の狼女が、すぴーすぴーとこれまたアホっぽい寝息を立てて、素っ裸のまま眠っていた。


 樹海ではあまりに目立つ純白の髪と尾は泥と煤で汚れている。


 大きな胸に目移りしかけたが、自己嫌悪が上回って目を逸らした。


 黙々と体についた土を払って、昨夜よりは乾いた服を着直していく。


 雨は止んだものの、昨夜とは一転して酷い熱気と湿度が充満していた。


 鳥の囀り。全身を覆うような虫の鳴き声。


 ただの熱帯雨林でも致命的な遭難だというのに……ここは魔界だ。


 悪と定義された魔王はもういなくても、この大陸は魔力に満ちていて、どの生物も油断ならない。


「…………」


 ゴクリと息を呑んだ。四方八方、木々と葉と茂みと泥濘と……。


 雨上がりの湿気は靄のように漂い、空気そのものが水を含んでいるかのようだった。息を吸うだけで喉の奥が重く湿る。


 逃げるように空を見上げても、風を切る感覚が恋しくなるだけだった。


 魔石拳銃とナイフはあるが、心許ない。


 自分以外の生存者は、敵兵なうえに未だ素っ裸で、寝ぼけて人の脚にしがみついている阿呆一匹だ。


「……おい、いつまで寝てるんだ? それとも降伏のポーズか?」


 脚に絡まっているシロロンを振りほどいて強引に起こすと、彼女は薄っすらと睨んで、ぐしぐしと顔を拭って、次の瞬間には顔を真っ赤にして身を翻した。


「変態!! ケダモノ! ワタシがまだ寝ているのに自分一人だけ人間みたいに服を着て、……ず、ずるいではないか!」


「ケダモノなのか人間なのかハッキリしろよ。まるでお前みたいになっちまうだろ?」


 騒がしくキャンキャンしてくるからバカにした。


 シロロンは獰猛な唸り声で威嚇して、荒く尻尾を振りながら服を着直していく。分厚いズボンに革のジャケット。ぎゅっと、少し強引に服の中に押し込まれていく胸。


「ふん、目は口ほどに物をなんたらと言うが」


「言うな?」


 青い視線が敵意剥き出しで睨みつけてくる。


 これも目は口ほどになんたらと言うやつだろう。


「はぁ。俺はお前が素っ裸で爆睡してる間に、縛り付けてそういう職務につけさせることもできたんだぞ。だがそれをしなかった。優しい人間だと思わないか?」


「そういう職務とはなにかね? ワタシはそういう発想もないゆえ、わからないな」


 シロロンはすっとぼけると挑発的に嘲ってくる。


 隙あらば人を侮辱し、馬鹿にし、上に立ちたがる。犬女。


 暴力行為に訴えかけても疲弊するだけだとわかってるから、口だけが達者になっていった。


「なんだ? 詳しく知りたいのか? おませさんだな」


「ウウウウウウウウウ……!!! グルルル……!!!」


 牙を剥き出しにした声を聞いて、ユミフネは大人げなく勝ち誇る。


 少し余裕ができた心で目の前の現実に向き合った。


 鬱蒼と生い茂る大自然。墜落した複葉機。赤竜の死骸。ぼろぼろの二人。


 ……最初にすべきことはなんだ?


 食料の確保? 水源の確保? 寝床の制作?


 否、否、否。


「あほやってないで使えるものを探そう」


「そうやってアホをワタシに全て押し付けるんじゃないぞ」


 とりあえず何か使えるものがないか、改めて探し直すところから始めて周囲を少しうろうろしてみたけど周囲を見渡す限りは果物なんかはない。


 見える範囲に川もない。ただ鬱蒼とした樹木と巨大なシダ植物ばかりで、墜落しただろう他の操縦士も竜騎兵の痕もない。


 そこら中に生え伸びる葉は掌ほどもある大きさで重なり合い、どの木も空を奪い合うように伸びていた。


 幹の肌は苔と菌類に覆われ、ところどころで樹液が垂れている。湿気を帯びた甘く腐った香りが充満していた。


 踏み出した地面は柔らかい。厚く積もった落ち葉の下では、何かがゆっくりと腐っている。踏み出すたび、靴底がぬるりと沈む。


 ……悪路だ。いや、道ですらないが。そのおかげで俺たちは奇跡的にか、悲劇的にか、生き延びたのかもしれない。


 とにかく、大きな移動をしない範囲で一番使えそうなものといえば、もう飛ぶこともできない複葉機の残骸そのものだった。


 張布。座席シート。翼を固定していた張線(ワイヤー)。パイプ。胴体鋼板。計器。


 どれもボロボロで、千切れていたりひしゃげているがバラせれば何かに使える……かもしれない。


 かもしれないで貴重な時間を使っていいかもわからないが。他にすればいいことも浮かばなかった。


 ユミフネはすぐに作業に取り掛かった。


「っ……さすがに硬いな」


 ナイフを手に持って張布を切り取ろうと力を籠めるとあばら骨が痛んだ。


 顔を歪めながらも布を可能な範囲で回収し、座席の金属フレームと革のシートを引っぺがそうとしてナイフを突き入れ、テコの要領で渾身の力を込めたが。


 分解できない。錆と泥が固着してひしゃげた金属が、短い息遣いに不快な軋みを返すだけだった。


 分解するための道具もない以上、明らかに使い道のあるだろうワイヤーも回収できない。


「……いっそ使えないぐらいにぶっ壊れてくれたほうがマシだったな」


「何をモタモタしているのかね? そんなものバーってすればいいだろう?」


 無力感から悪態をつくと、シロロンは種族的な膂力差を小馬鹿にしてくる。


 だがシロロンもシロロンで何もできず、青く鋭い瞳で死んだ赤竜をずっと睨んでいた。


 手に持ったナイフをくるくると回し、元気なさげに尻尾を揺らしながら死骸のまわりを右往左往。


 意味のない切開線と皮剥ぎ線をナイフでうっすらと刻もうとして、弾力に跳ね返される。力を籠めれば籠めるほど刃は鱗に押し返され、首を傾げた。


「そんなの普通に解体すればいいだろ……。イイトコの出身か? 家畜の解体と要領は同じはずだが」


「したことないんだよ……!!」


 シロロンは苛立ちに呼吸を荒げた。


 額に汗を浮かべながらも、刃は深く入らない。


 赤竜を解体するわけでもなく手が付けられない様子で熟考。そして顔を背けた。


 森には風がない。湿気と泥の匂いが混ざり、空気が鈍く滞っている。


 ……じんわりと滲む汗を拭い、二人はそれぞれの残骸の傍で黙ったまま立ち尽くしていたが、どちらも作業をやめて同時に顔を上げた。


 視線が交わる。


 互いの得手不得手が、同じ苦難の下で鏡のように浮かび上がる。


「大層血濡れた手に自信があるみたいじゃないか。そんなことを言うなら君がやればどうかね?」


「雌犬。力だけは野蛮人らしく自信があるなら変わるか?」


 互いを罵倒しながらも、かつて自分の命を寄せていたものを敵に委ねる提案をした。


 ――――僅かな沈黙。互いに歩み寄り、すれ違い、背を向ける。


 ユミフネは赤竜を、シロロンは鉄竜を前に息を呑んだ。


 …………休戦協定が長引いていく。

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