夜明けの空にまいた種
藤泉都理
夜明けの空にまいた種
夜明け前の空が一番暗い。
最後にその言葉を落としてのち、師匠である
一週間に一度。
二週間に一度。
三週間に一度。
帰る日はだんだんと少なくなっていき。
帰る度にだんだんと纏う影は深く濃くなっていったかと思えば、徐々に身体にまで浸食していった。
行かないでください。
弟子である
けれど那智は石のように硬くなった手で、秋陽の所々に傷がありながらも小さくやわらかい手を包み込んで言った。
早く戦争を終わらせるために行かなければなりません。
両国のすべての大量破壊兵器を破壊しなければなりません。
両国のすべての国民の傷を癒さなければなりません。
同時に行いつつ、和平会談の道標を立てなければなりません。
私は行かなければなりません。
力ある魔法使いとして責務を全うしなければなりません。
ただ一人の人間として戦争を止めるために奔走しなければなりません。
「ならばせめてぼくも連れて行ってください。泣きません。絶対に泣きません。邪魔にもなりません。ですから連れて行ってください」
秋陽が涙を必死に堪えて懇願するも、那智は眉尻を下げて魔法で秋陽を寝かせる。
ごめんなさいと囁き声だけを残すのだ。
那智が秋陽を連れて行かない理由を秋陽は重々承知していた。
惨状を五感すべてに映したくないのだ。遺したくないのだ。
心に少しでも、僅かでも、傷を遺したくないのだ。
けれどそれは秋陽も同じ気持ちだった。
那智に傷を遺してほしくなかった。永久に癒えぬ傷を決して。
「ですがやさしいあなたは戦争が終わるまでは決して疾走を止めはしない。だからぼくは。少しでも、微かにでも、あなたに癒したい」
秋陽はひりつくまで水で顔を洗ったは勢いよくタオルで拭ったのち、図書室へと向かったのであった。
「えへへ。やっぱりぼくは。だめだめな弟子ですね。師匠………夜明け前の空が一番暗いって。言う師匠に。夜明け前の空でも明るい時はあるんだって。師匠の好きなコスモスの種を空にばら撒いて………花を咲かせるつもりだったのに。夜が明けても。花も咲かないし。種のままです。ぼくは本当にだめだめな弟子です。ごめんなさい」
「秋陽」
何故来たのだ早く帰れ。
那智は勝手に戦場に来た秋陽に向かって、そう怒鳴りつけるつもりだったのにできなかった。
今にも泣きそうで、けれど懸命に涙を堪えている弟子のいたいけな姿を前にして、胸が締め付けられると同時に、ほろほろと頑なだった何かが崩れていくような気がしたのだ。
これまで懸命に守っていた、否、拳で叩きつけては強度を保っていた壁が。
このままこの壁を壊してしまえばいい。
壊してもう戦争は嫌だと離脱してしまえばいい。
そうして平和な地に移り住んで秋陽と二人で平穏に暮らせばいい。
甘い誘惑が那智の心に直接そそのかしてくるも。
「秋陽。では、あなたにひとつ、お願いしてもいいですか?」
「師匠」
那智は己の身体にこびりつく腐臭に怯えては躊躇ったのち、まっすぐに見つめて来る秋陽を抱きかかえて、子守唄を奏でるように囁いた。
「私が、私たちが戦争を終結させた時に。その時に、コスモスの種を夜明けの空に撒いて、咲かせてくれませんか?」
「夜明け前の空じゃなくて、いいんですか?」
「ええ。夜明けの空に。必ず。その時にコスモスの花を咲かせられなかったら」
「咲かせられなかったら」
「ふふ」
「師匠!」
「いいえ。大丈夫。その時までにあなたは絶対にコスモスの花を咲かせてくれるでしょう?」
久方ぶりに見えた師匠の微笑に目を見開いた秋陽。喉がひどく熱くなってすぐには言葉が出て来なかったが、唾を素早く何度も何度も飲み込んでのち、咲かせますと言った。
「絶対に絶対に絶対にっ! 戦争が終わる時にコスモスの花を咲かせますっ!」
「はい。お願いしますね」
「師匠。だから………だから絶対に。死なないで。ください。約束っ!」
刹那、鋭く深い痛みが全身に襲いかかった那智。弟子にずっとこの言葉を吞み込ませていた己がひどく情けなく感じた。
(私こそ。だめだめな師匠です。けれど。私はこの言葉を吞み込みます。今はまだ。強い師匠のままで居させてください。生き残るために。平和な世界で生きるために)
「ええ。約束します。戦争が終結したら、色々な国を旅しましょうね」
「師匠」
「何ですか?」
「できない約束はしないでください」
「できない約束、ですか?」
「はい。戦争が終わったら、次は復興でしょう。旅をするのはその後です」
「………ええ。ええ。本当に、」
那智はせり上がって来る涙をそれこそ必死になって身の内に押し留めたのであった。
(………ああ。あなたがまいてくれた種がやけに眩しく見えるのは、夜明けだから。だけではないですね)
(2025.10.8)
夜明けの空にまいた種 藤泉都理 @fujitori
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