桜舞い散る黄昏の出会い

ネロ8330

桜舞い散る黄昏の出会い

 西暦2019年4月某日。


 夕暮れ時の神社は、桜吹雪に包まれていた。


 十之葉 樹――当時12歳の少年は、古びた石段に腰を下ろして、ぼんやりと散りゆく花びらを眺めていた。


 黒髪を後ろで縛った、中性的な顔立ちの美少年だ。整った顔立ちだが、その瞳には年齢に似合わぬ冷たさが宿っている。


「……綺麗だな」


 樹は呟いた。


 桜の花びらが、風に舞い、夕日に照らされて金色に輝く。この世界は、こんなにも美しいのに。


 なぜ、自分の心は、こんなにも冷たいのだろう。


 少年の心には、深い傷があった。詳細を語ることはないが、その傷は深く、心の奥底に暗い影を落としている。


「そうね。とても綺麗」


 突然、背後から声がかけられた。


 樹は驚いて振り返った。


 そこには、和傘をさした一人の少女が立っていた。


 深紅と黒の市松模様が描かれた和傘。血のような深紅を基調とした和服。桜色に近いピンク髪には黒いメッシュが入り、瞳は深く冷たい紫色をしている。


 年齢は17、8歳ほどに見えるが、その瞳に宿る光は、まるで何千年も生きてきたかのような深さを持っていた。


「……誰だ?」


 樹は警戒した。


 少女は、ふわりと微笑んだ。


「アタシ? アタシは桜。ただの通りすがりよ」


「桜……」


「そう。この季節にぴったりでしょう?」


 桜と名乗った少女は、和傘をくるりと回しながら、樹の隣に腰を下ろした。


 近くで見ると、その和服は精巧な作りをしていた。漆黒の袴に、赤と黒の市松模様が裾に描かれた着物風の上着。帯には金糸の装飾が施されている。まるで時代劇から抜け出してきたような、非現実的な美しさだ。


「……勝手に座らないでくれ」


「あら、ごめんなさい。でも、一人で座っているより、二人の方が寂しくないでしょう?」


 桜は、樹の横顔をじっと見つめた。


「少年、貴方……随分と、暗い顔をしているわね」


「……別に」


 樹は視線を逸らした。


 桜は、ゆっくりと和傘を閉じた。


「貴方は、何かに囚われている。……違う?」


「……」


 樹は答えなかった。だが、その沈黙が、全てを物語っていた。


 桜は、静かに微笑む。


「アタシはね、貴方のような子を見ると……放っておけなくなるの」


「……何で?」


「何故かしらね。アタシ自身にも、よく分からない。でも、貴方を見ていると……何故か、胸が温かくなる。そして同時に、とても悲しくなる」


 桜は、夕日に照らされた桜の花びらを見つめた。


「不思議でしょう? 初めて会った相手なのに、どこか懐かしい気がする。まるで、ずっと昔から知っているような……」


 樹は、桜の言葉に、不思議な共感を覚えた。確かに、この少女からは、奇妙な懐かしさを感じる。初めて会ったはずなのに。


「……あんた、変わった人だな」


「そうかしら? アタシは、ただの通りすがりよ」


 桜は、いたずらっぽく微笑んだ。


 桜は、和傘の先で、地面に円を描いた。


「ねえ、少年。貴方は、『因果』という言葉を知ってる?」


「……因果?」


「そう。全ての出来事は、原因と結果で繋がっている。貴方が今ここにいるのも、アタシが貴方と出会ったのも、全て因果の糸で結ばれている」


 桜は、円の中に、複雑な模様を描き始めた。まるで魔法陣のような、不思議な図形だ。


「でもね、時々……その糸が、絡まることがある。そして、本来出会うはずのない者同士が、出会ってしまう」


「……それが、俺達?」


「さあ、どうかしらね」


 桜は、描いた図形を眺めながら呟いた。


「でも、アタシは信じているの。この出会いには、意味がある。そして、いつか……全ての因果が、正しく結ばれる日が来るかもしれない」


「……よく分からないな」


 樹は正直に答えた。


 桜は、くすりと笑った。


「そうね。今の貴方には、分からないでしょう。でも、いつか……分かる日が来るかもしれない」


 桜は立ち上がり、再び和傘を開いた。


「貴方はこれから、色々な出会いを経験するでしょう。辛いことも、悲しいことも、そして……運命的な出会いも」


「運命的な出会い?」


「そう。貴方を必要とする人たち。貴方のために全てを捧げてくれる人たち。そして、貴方が全てを捧げたいと思える人たち」


 桜は、和傘をくるりと回した。


 その瞬間、周囲に桜の花びらが舞い上がった。まるで、魔法のように。


 樹は息を呑んだ。


「……は?今の、どうやって……」


「秘密よ」


 桜は、いたずらっぽく笑った。


「少年、一つ教えてあげる」


 桜は、樹に背を向けたまま言った。


「夢と現の狭間には、特別な時が流れている。そこでは、時間の感じ方が違うの」


「夢と現の狭間……?」


 樹は、その言葉を口にした。不思議と、その言葉は、心に染み込んでいった。


「そう。現実と幻想の境界……そこに身を置けば、ゆっくりと時を過ごすことができる。アタシは、そういう場所を知っている者」


 桜は、ゆっくりと振り返った。その瞳には、深い深い悲しみと、それでも消えない希望の光が宿っていた。


「……何の話?」


「アタシの話よ。そして、いつか貴方にも関係してくる……かもしれない話」


 桜は、静かに笑った。


「長い間、誰かを待ち続けるということ……それがどれだけ心細いことか、アタシはよく知ってる。記憶だけが残り、本当の温もりは遠ざかっていく」


 桜の声には、底知れぬ孤独が滲んでいた。


「でも、アタシには大切な人がいる。無邪気で、明るくて、世界中の美味しいものを食べ歩くのが大好きな、可愛いあの子が。だから、寂しくても……大丈夫」


 樹は、桜の横顔を見つめた。強がっているように見えて、その実、深い孤独を抱えている。それは、樹自身と同じだった。


「……あんたも、一人なんだな」


 桜は、一瞬だけ驚いたような顔をした。そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……優しいのね、貴方は」


「俺は、そんなんじゃ……」


「いいえ、優しいわ。だって、アタシの孤独に気づいてくれたのだから」


 桜は、樹の頭に手を置いた。その手は、驚くほど冷たかった。だが、その冷たさの奥に、確かな温もりがあった。


「ありがとう、少年。貴方の優しさが、少しだけアタシの心を温めてくれた」


 桜は、和傘を肩に担いだ。


「さっき話した『大切な人』のこと、少し話してもいいかしら?」


「……ああ」


 樹は頷いた。


 桜は、夕日を見つめながら語り始めた。


「あの子とアタシは、似ているようで、全く違う性格の持ち主」


 桜の瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「天真爛漫で、好奇心旺盛で、美味しいものが大好き。『今』を生きることを心から楽しんでいる。あの子と一緒にいると、アタシも少しだけ……今を生きることができる」


「……あんたとは、対照的なんだな」


「そうね。アタシは過去に囚われ、あの子は今を生きる。だからこそ、アタシたちは支え合える」


 桜は、和傘をゆっくりと回した。


「あの子は、昔のことをほとんど覚えていない。だから、アタシがあの子の記憶を全て引き受けている」


「記憶を……引き受ける?」


「そう。あの子が耐えきれない悲しみや孤独、絶望……それら全てを、アタシが背負っている。だから、あの子は笑っていられる」


 桜の声には、深い愛情が込められていた。


「アタシは影。あの子という光が輝き続けるために、アタシは全ての闇を引き受ける。それが、アタシの役割」


 樹は、疑問に思う。誰かのために、全てを犠牲にする。自身にはなんとなく理解できなかった。だが、ほんの少し温かい物を感じた。


「……あんたは、優しいんだな」


「優しい? アタシが?」


 桜は、驚いたように樹を見た。


「そうだよ。大切な人のために、全てを背負うなんて……俺には、できない」


「それは違うわ」


 桜は、静かに首を横に振った。


「貴方だって、いつか誰かのために全てを捧げる日が来る。アタシには、分かる」


「……何でだ?」


「貴方の瞳を見れば分かるわ。貴方は、優しすぎるくらい優しい。だから、傷ついた。そして、これからも傷つくでしょう」


 桜は、樹の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「でも、それでいい。その優しさが、いつか貴方を救ってくれる。そして、貴方の周りに、大切な人たちが集まってくる」


 桜は、再び和傘を開いた。


「さて、そろそろお別れの時間ね」


「……もう行くのか?」


「ええ。アタシには、まだやるべきことがある。大切な人を守り、見守り続けること」


 桜は、樹の頭に手を置いた。


「少年。貴方は、これから色々なことを経験するでしょう。辛いことも、悲しいことも、そして……幸せなことも」


「……うん」


「貴方は、強い子。だから、きっと大丈夫。でも、もし辛くなったら……この桜を思い出して」


 桜は、和傘から桜の花びらを一枚取り出すと、樹の手に乗せた。


「そうすれば、アタシが貴方を見守っていることを、思い出せるから」


 桜の花びらは、不思議なことに、夕日を受けてもなお鮮やかな色を保っていた。まるで、時が止まっているかのように。


「…これは?」


「特別な花びらよ。アタシの力で作った、永遠に枯れない桜」


 桜は、樹の頭を優しく撫でた。


「いつか、また会えるかもしれないわね。それがいつになるかは……誰にも分からないけれど」


「……また会えるのか?」


「さあ、どうかしら」


 桜は、和傘をくるりと回した。再び、桜の花びらが舞い上がる。


「でも、もし再び会えたとしたら……その時は、きっと貴方は今よりずっと大きくなっているでしょうね」


「……」


「それまで、元気でいてね。そして、貴方らしく生きて」


「……あんたもな」


「ありがとう」


 桜は、最後に微笑むと、桜吹雪の中に消えていった。まるで、最初からそこにいなかったかのように。


 樹は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。手の中には、桜がくれた桜の花びらだけが残っている。


 不思議と、心が温かくなった。自分と同じように、いや、自分以上に孤独を抱えている人がいる。自分以上に、重い何かを背負っている人がいる。


 それを知っただけで、少しだけ――ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。


「また会えるかな」


 樹は、手の中の桜の花びらを見つめた。夕日を受けて、花びらは淡く光っている。


「…会えるといいな」


 樹は呟いた。


 風が、優しく樹の頬を撫でた。まるで、答えるように。


 樹は、桜の花びらを大切にポケットにしまった。そして、石段を降り始めた。


 背後では、桜吹雪が舞い続けている。夕日が沈み、夜の帳が降りようとしていた。


 不思議な出会いだった。


 あれは、人間だったのだろうか。それとも――妖怪か、何かだったのだろうか。


 樹には分からない。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 あの桜と名乗った少女は、樹にとって忘れられない存在になった。そして、いつか――また会えるかもしれない。


 その日が来るまで、この桜の花びらを大切にしよう。


 そう、心に決めた。


 ________________________________________________________________________________


 神社から少し離れた場所。人気のない森の奥深く。


 桜と名乗った少女――その正体は、人ならぬ者だった。


「……会えたわね」


 少女は、静かに呟いた。


「あの子は、まだ何も知らない。自分がこれから歩む道を。自分を待っている者たちがいることを。そして、自分がこれから背負う運命を」


 少女は、胸に手を当てた。


「でも、間違いない。あの子は、あの子の魂は、アタシたちが……」


 少女は、それ以上言葉を続けなかった。ただ、静かに微笑んだ。


「昨年の春、傷ついたあの子を見た時、もう一人のアタシは涙が止まらなかった。理由は分からなかったけれど、今なら少し分かる気がする」


 少女は、和傘をゆっくりと開いた。和傘の内側には、桜の花びらが散る幻影が浮かび上がる。


「アタシは、これからも見守り続ける。あの子が成長し、力を得て、そして……運命の時を迎えるまで」


 少女は、静かに微笑んだ。


「また会えるかどうかは、分からない。でも、もし会えたなら……その時は、全ての因果が結ばれるわね」


 少女は、ひらりと和傘を回した。周囲に、闇と桜の花びらが舞い上がる。


「待っているわ。そして、もう一人のアタシ。アタシは、永遠に貴女を守り続ける」


 少女の姿が、闇に溶けるように消えていった。ただ、桜の花びらだけが、風に舞い続けていた。


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 それから数年後。樹は高校生になっていた。


 あの日、桜からもらった桜の花びらは、今も色褪せることなく、樹の部屋に大切に飾られている。


「そういや、不思議な桜を貰ったんだっけ。……あの不思議な人と次はいつ会えるんだか」


 樹は、窓の外を見つめた。


 あの不思議な少女と、再び会える日は来るのだろうか。


 それは、誰にも分からない。


 だが、樹は信じることにした。


 いつか、また会える日が来ると。


 そして、遠く離れた場所で――桜と名乗った少女が、静かに微笑んでいた。


「いつか、また会えるかしら……」


 少女は呟いた。


「その時が来るまで、アタシは待ち続ける」


 大きな桜の花びらが、風に舞う。それは、遠い約束を胸に秘めた、優しい合図だった。


 長い時間が流れても。ようやく、運命が動き出す時が来るかもしれない。


 その日まで。彼らは、それぞれの時を生きていく。


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