第12話 【理由】(12) 〜エピヌス暦1131年2月〜

 イリアスは瑛璃の手首を解放し、その代わりに彼女の手から黒い騎士の駒を掠め取ると、実際に盤上で動かしてみせた。


「確かに、独特な動きね」

「『騎士』は他の駒とは違い、この縦2マス横1マスもしくは横2マス縦1マスという特殊な動きしかできないから、初心者の手には余るだろう」

 イリアスはその駒を瑛璃に返すと、悪戯っぽく片目を瞑って見せた。

「──まるで、どこかのお嬢さんみたいな“じゃじゃ馬”だ」


 その言葉に思わず吹き出すと、瑛璃はイリアスに正対して言い返す。

「じゃあ、早くその“じゃじゃ馬”の扱いに慣れることね」

「勿論だ。必ず乗りこなしてみせるさ」

 片眉を上げておどけたように返す。そして、何かに気づいたように僅かに目を見開く。


「何?」

「──やっと君の笑顔が見られた」

 ほころんだ花のかんばせに向けられる彼の眼差しは穏やかだ。


「そう? 初めてではないと思うけど」

「いや。私に対しては、初めてだ。この屋敷の者たちには見せていたのかもしれないが」


 瑛璃は軍本部では野犬が人を威嚇するかのような態度であったし、屋敷に来てからは不満をぶちまけたり怒ってばかりであった。

 イリアスの知る限り、一度だけ機嫌が良くなったのは、子猫ニャムをしばらく飼うことを許可した時くらいだ。だが、その時は背中越しに嬉しそうな声を聞いただけで、表情までは見られなかった。


 冬の空のような灰色がかった青い瞳に見つめられ、瑛璃は気恥ずかしくなったのか、盤上に視線を向けて、慌てて話題をすり替える。


「今の私はイリアス・ギレンフォードの数ある手駒のうちのひとつで、この『歩兵』といったところかしら。これまでの説明を聞くと、『歩兵』は8個もあるし、名前からして価値は低そうね」

 他の駒と比べて見た目も地味で小さな駒を一つ、人差し指で弾く。

 それは盤上を滑り、そのまま落ちて、乾いた音を立ててテーブルの下に転がった。


 瑛璃が冷たい床の上で寂しそうに横たわるそれを拾おうと手を伸ばしかけると、イリアスがそれを穏やかな口調で制した。

「大丈夫だ。私が拾う」


 瑛璃は隣の男の長い指が小さな駒を拾い上げ、他の歩兵たちが並ぶ前線に戻すのをじっと見つめる。


「確かに、『歩兵』は基本的に前進しかできない。初手では2マスまで進めるが、それ以降は1マスずつ。

 『王』のようなゲームの勝敗を決める存在でもない。『女王』のように万能でもない。『城砦』や『射手』や『騎士』のように際立った武器とりえもない。取るに足らないような存在に感じるかもしれないな」

 イリアスはそう言いながら、白と黒の駒を交互に一人で動かしていく。


「でも、実際には、この小さな駒が形成する前線が、王を守ってくれる“盾”なんだ。

 前線がしっかりしていれば、敵は王に近づけない。逆に、これが崩れたら一気に苦しくなる。

 ──どうだ? れっきとした戦力だと思わないか?」


 隣に座る瑛璃の横顔を一瞥し、イリアスはさらに続ける。

「確かに君は、今は『歩兵』かもしれない。

 だが、『歩兵』には、地道に進み続けて敵陣の最奥に到達すると、『王』以外であれば何にでもなれるという特性があるんだ」

「何それ」

「嘘ではない。『射手』にも『騎士』にも『砦』にも、『女王』にだってなれる」

「『女王』にも? ただの『歩兵』から、最強の『女王』に?」

「ああ、そうだ」


 イリアスがまだ半信半疑といった表情の瑛璃の肩に回す。

「君は何にだってなれるんだ」


「ちょっと、何、いきなり……」

 これまである程度の節度と距離感を保ってきた相手に急に肩を抱き寄せられて、思わず瑛璃が身を引く。その顔は明らかに動揺しており、頬が赤く染まっていた。


「──やはりそうか」

「何よ」

「自分から仕掛ける分には平気なのに、相手から不意打ちされると弱い」


 揶揄からかわれたことを悟り、瑛璃は抗議するようにイリアスを睨む。


「今まで一方的にやられてきたんだ。たまには反撃したっていいだろう?」

「良くない」


 イリアスは満足そうな笑みを一瞬浮かべて、再びレクスベラムの盤上の白と黒の駒を交互に動かしながら、新たな質問を投げかけた。


「──それはそうと、君はもし無事に復讐を遂げられたとしたら、その後どうするつもりなんだ?」


 その問い掛けに、瑛璃は少し目を見開いて、ゆっくり首を横に振った。

「すごく難しいことはわかってる。上手く行ってあいつソネンフェルドと相討ちするぐらいの覚悟でいるから、その先のことなんて考えてない」

「本当にそうか?」


 もう一度、首を横に振る。

「──ううん。考えてないっていうよりは、考えないようにしてる。夢を思い描くだけ、叶わなかった時につらくなるから」

 茶色の瞳が曇り、面差しに影が差す。


「そうか。でも、いつか聞かせてくれないか」

 駒を操っていた指が瑛璃の頬に触れ、そのひやりとした冷たさに、肌がきゅっと縮む。


「──この口は文句や我儘を言うためだけにあるんじゃないだろう?」

 瑛璃の頬に触れた指がそのまま降りてきて、唇に軽く親指が押し当てられた。


 炉床にべられている薪が崩れて、一瞬だけ焔が大きくなる。


「何よ、私が文句や我儘しか言ってないみたいじゃない」

 イリアスの手を払いのけると、瑛璃は拗ねたような表情で彼を見上げた。

 お互いの瞳の奥を探るように、視線が交じり合う。


 ほんの十数秒ほどだったのか、それとももっと長い時間だったのか、遠くから聞こえてくる教会の鐘の音でその沈黙は破られた。


「──日付が変わったようだ。そろそろ休もう」

 先に立ち上がったイリアスが差し伸べた手を取りながら、瑛璃が尋ねる。

「今日の続きは?」

「またここに戻って来られるのが3日後になりそうだから、その時かな。旅支度があるからと、国王陛下にいとまを申し出ているのが通ればの話だが」


 彼は手慣れた様子で暖炉の炎に灰掻はいかきで灰をかぶせて、燭台から手燭に火を移す。


 二人で廊下に出ると、乾燥した冷たい空気が頬を刺した。暖かい部屋にいたせいか、寒暖差で余計に寒く感じられる。


 書斎の鍵を掛けたイリアスが、瑛璃に預けていた手燭を受け取る。


「これから長旅に出るのに、出発数日前にならないと休めないなんて、随分頼られているのね」

「しばらく私が国を離れるからこそ、いるうちに色々やらせたいのさ」

 すっかり寝静まった暗い館内の廊下を声をひそめながら並んで歩く。


「ねえ」

 ホールの階段を上りかけた所で、瑛璃がイリアスの袖口を掴んだ。

「どうした?」


「その……ありがとう、疲れてるのに」

 蝋燭の光で浮き上がった白磁の頬に、長いまつ毛の影が落ちていた。

 瑛璃が珍しく殊勝な態度を見せたことに一瞬眉を上げ、すぐに見開いた目を細める。


「楽しい時間だった」

 イリアスが右肘を軽く曲げると、瑛璃は彼の上着の袖口を掴んでいた白い指を前腕部に移動させた。


「国の重鎮が顔を揃える会議より、はるかに有意義だった」

「私も『男性からダンスに誘われた時の対応』より何十倍も面白かった」

 淑女らしくイリアスのエスコートを受け、寄り添うように並んで2階へ向かう。


 瑛璃が小さなくしゃみをして、蝋燭の火が揺れる。

「そんな格好で部屋から出てくるからだ」

「だって、あなたが戻ってきた所をすぐに捕まえないと、次いつ話せるかわからなかったんだもの」

「ロンバルド夫人に見つかりでもしたら、君が叱られるだけじゃなく、私まで長い小言を聞かなければならないんだからな」

 その光景を想像したのか、二人は顔を合わせてくすくすと笑う。



「……‼︎」

 階段を上りきったところで、二人は大きく息を呑んだ。瑛璃が与えられた部屋の前に、白い人影が浮かび上がったからだ。


「びっくりした…」

 イリアスが左手に持っていた手燭を落としそうになりつつ、すんでのところでそれを回避する。


 白い影が二人の元へ近寄り、正体を現す。


「坊ちゃま…いえ、イリアス様、このような格好で失礼いたします。緊急事態につき、お許しください」

「き、緊急?」


 いつも高い位置でまとめている長く白い髪を下ろし、寝間着姿に肩掛けストールを羽織ったマルガレーテ・ロンバルドは、寒さのためなのか、怒りのためなのか、顔面蒼白となっており、まるで幽霊のようだった。


「瑛璃さん」

 地獄の底から響くような低い声で名前を呼ばれた本人が、びくっと肩を震わせてイリアスの背後に隠れる。


「──このような時間に、嫁入り前の娘が男性と二人きりになることは許されません。しかも、そのようなはしたない姿でなど、絶対にあってはなりません」

「あなただって似たような格好…」

「お黙りなさい」

 強い調子で言葉を遮られ、瑛璃が身を縮めた。


「ロンバルド夫人、テオに下がるように命じたのは私だ。その結果、二人きりになってしまっただけで…」

「人払いをしてまで、深夜に男女が二人きりで部屋に籠って、今まで何をなさってたのです? そして、この小娘の寝室でこれから何をなさるつもりだったのです?」


 矛先が自分に向いて、慌ててイリアスが頭を振る。

「誤解だ。書斎で仕事の話をして、彼女を部屋まで送ろうとしていただけだ」

「『仕事の話』にしては、随分と楽しそうでしたが」

 どこからどこまで聞いていたのか、階段での話が耳に届いていたらしい。


「さあ、瑛璃さん、隠れていないで出ていらっしゃい。寝る前にお話があります」

「助けて」

 イリアスに助けを求める視線を送るが、彼は首を横に振って「諦めろ」と囁く。


 逃げようがないと観念したのか、瑛璃は彼の背後から出てくると、これから屠殺されることを悟った家畜のような目で彼を振り返った。

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天上の花は赫く咲く 木村アキ @akikimura

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