ちゃんと体洗って!
αβーアルファベーター
とことん、きれいに。
◇◆◇
「ほら、背中流してあげる。ちゃんと体、洗って!」
母の声は、やさしい。
小さな湯気の立つ浴室。白いタイルに、赤い桶。
5歳の拓海は、少し眠そうにあくびをした。
「おかあさん、あったかい〜」
「うん、えらいね。ほら、手も洗って。爪の間もちゃんと」
泡立てたタオルが、こすれる音。
母の指は丁寧で、愛情がこもっている。
――ただ、少しだけ強すぎる。
「いたい……」
「ダメよ、ここはちゃんと洗わないと。汚れ、落ちないから」
母は優しく笑った。
その笑顔を見て、拓海は「うん」とうなずいた。
夜のお風呂は、いつも長い。
母はいつも、最後にこう言う。
「ぜんぶきれいにしてあげる。匂いが残ったら大変だからね」
◇◆◇
翌朝、母はゴミ袋を縛っていた。
中には古い布や、黒ずんだ何か。
庭の隅に、誰も知らない穴がいくつか掘られている。
拓海は外に出ようとして、止められた。
「外はまだ汚いの。ね、今日はお手伝いしてくれる?」
「うん!なにするの?」
「昨日の“お兄さん”の……お風呂掃除」
「お兄さん……?」
母は、微笑んだ。
「昨日、うちに来たでしょ? 遅くに、トントンってドア叩いた人。覚えてない?
寝てたもんね。でもね、ちゃんとお風呂に入ってもらったのよ」
拓海は首をかしげた。
母は床に広げたタオルを指さす。
「これ、赤いの落とそうか。ほら、スポンジでこすって」
「うん!」
泡立つ音。母の笑い声。
排水口から流れていく赤い泡。
「上手ね、拓海。ちゃんと体洗って、って言ったでしょ?」
拓海は無邪気に笑う。
母も笑う。
――ただ、その笑顔の向こうで、
浴槽の底に沈む“お兄さん”の指先が、まだ動いていた。
◇◆◇
夜。
母はまた、包丁を研いでいる。
「明日は、女の人が来るみたい。ほら、あの人も汚れてたから……」
「またお風呂?」
「そう。拓海、ちゃんと手伝ってね」
「うん、ちゃんと洗う!」
母はうっとりとした声で言う。
「えらい子ね。
だって、人は――
“きれいにしてから”じゃないと、眠れないもの」
そして、静かな家の奥から、かすかに聞こえる声。
「……たすけて……」
拓海は振り向き、首をかしげた。
「おかあさん、また誰か起きてるよ?」
母は、優しく微笑んだ。
「じゃあ、もう一度、洗ってあげましょうね」
◇◆◇
翌朝、浴室は何もなかったように輝いていた。
タイルは白く、排水口には髪一本もない。
母は言う。
「ほら、今日もきれい。拓海のおかげよ」
「うん!」
「ちゃんと体洗って!って言ったでしょ?」
「うん、もうお兄さんも、すっごくきれい!」
母は満足そうに頷き、窓の外を見た。
そこには、まだ乾ききらない土の山が、いくつもあった。
風が吹くたび、少しずつ――
赤茶けた土が、流れ落ちていった。
ちゃんと体洗って! αβーアルファベーター @alphado
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