Walkabout
福太郎
Walkabout
東西線南郷十八丁目駅から徒歩八分、木造築四〇年のアパートは、家賃が驚愕の一万八千円。僕の主観ではワンルームに見えるけれど、間取図上は洋室とリビングに分かれているそうだから、おそらくどこかに「バカには見えない壁」がある。僕はこれまでの人生で、それなりに愚かな選択もしてきたので。
そういえば、ベートーヴェンは交響曲第六番『田園』で、三楽章から五楽章までを有機的に結合して全曲の統一性を追求したとか。とすると、洋室とリビングは有機的に結合しているのかもしれない。なるほど、思えば風呂とトイレも有機的に結合している。
安物の中では最高級のローテーブルで、タブレットPCが画面を真っ黒にしてふんぞり返っている。僕が原稿も書かずに長いことコーヒーをすすってばかりいるので、呆れてスリープしてしまったらしい。時計はちょうど、朝の七時を指している。
座椅子から重い腰をあげ、PCを閉じてカバンに差し込む。すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、カップを台所のシンクに放り込むと、ワイシャツのボタンをとめてネクタイを締めた。濃いグレーのジャケットと暗い紺色のネクタイは、見る人に重厚な印象を与えるはずだ。その上から羽織った薄手のコートは、お店で見たときもう少しオシャレに見えたのだけど、色合いといい、サイズ感といい、どうも今ひとつという感じがする。
玄関を出ると、ちょうど隣の部屋に住んでいる若いバンドマンが帰ってきたところで、微妙に間合いをはかって互いを牽制しながら、曖昧な会釈をした。厳密にはソロのシンガーソングライターかもしれないけれど、ギターのソフトケースを背負って朝方帰ってくる人を、僕は便宜上「バンドマン」と分類することにしている。おそらく彼も、毎朝七時過ぎにネクタイを締めて家を出る男のことを「サラリーマン」と分類するに違いない。もし、そういう服装の男をサラリーマン以外のなにかに分類する人がいたとしたら、その人は、サラリーマンでもないのに毎朝ネクタイを締めて家を出る男と同じくらい変わっている。
つまり、まあ、その、ようするに、僕はサラリーマンではないということだ。世の中ではいつの間にかサラリーマンを「ビジネスパーソン」と呼ぶことになったのかもしれないけれど、もちろんそういうことでもない。
では何かといえば、よく分からない企業のよく分からない商品やよく分からないサービスについてよく分からない文章を書き散らし、一文字二円とか三円とかいう小銭をかき集めてようやく生計を立てている、そういうパーソンだ。
一般的には、そういうパーソンをウェブライターというのかもしれない。しかし僕が積極的にそう名乗れないのは、『山月記』でいうところの「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とのせいだった。僕は「
というのも、実は過去に、僕の小説がちょっとした賞に引っかかって出版されたことがあった。当時僕は、ちゃんとした会社で営業の仕事をしながら、趣味と割り切って小説を書いていた。賞に応募したのも宝くじを買うような感覚だったし、実際うっかり受賞してしまった時にも、まさか自分が会社を辞めて物書き一本で食っていくなどとは夢にも思わなかった。
だいたい、僕の小説は全然売れなかった。自分の実力を棚に上げて、審査員の眼力や編集者の判断力を疑ったくらいだ。僕の小説は瞬く間に絶版となったので、小説家なんてとても名乗れたものではない。
ところが、その出来事をきっかけに、僕はなんだかお金がもらえなくてもやりたいことと、お金をもらってもやりたくないことをやたらと意識するようになってしまった。
そのときの僕にとって、毎朝知らないオジサンと密着しながら会社に向かうこと、特に愛着も思い入れもないサービスをこの世でもっとも尊い営みのように吹聴して回ること、業務効率化の目的で導入され、業務の効率を著しく損なう営業支援システムを逆に営業が支援すること、そんなこんなが、「お金をもらってもやりたくないこと」の先頭集団でダンゴになっていた。
こういう小さな不満でパンパンになっていたところにトドメの一撃を加えたのは、カバンの中でタンブラーからコーヒーが漏れて、一緒に入れていた文庫本がグズグズに汚れてしまったことだった。これは、本さえあれば欲しいものなどなにもない僕が、カバンにタンブラーを入れて街を駆け回らなければその本さえ手に入れることができないという、現代資本主義が生んだ悲劇だ。
世界を、変えなければならない。僕は文筆の力で、この加速する資本主義社会に断固として戦いを挑まなければならないのである!
――それがとんだお門違いだということには割とすぐに気づいたけれど、気づいたところでもうすっかり勢いがついてしまって退職届を書く手が止まらなかったので、僕はほとんど慣性の法則で会社を辞めた。
ところが、辞めたら辞めたで今度はわざわざ通勤定期を買って毎朝ネクタイを締め東西線に乗り、用もないのに中央区へ出かけているというのだから、人間というのはままならないものだ。それも、ご近所から「何をやっているか分からない人」と思われるのが嫌だから。人が聞けば驚くかもしれないけれど、僕は本当にそれだけのために毎朝大通まで「出勤」している。もし人間を創った神様に会う機会があるとしたら、「もうちょっといい感じに創ってくれよ」とクレームを入れるつもりだ。これは僕個人の問題というよりメーカーの責任だと思うので。
地下鉄は、南郷十八丁目駅で僕が乗り込んだ時には、座席が全て埋まってつり革が半分余っている、というくらいの混み具合だった。座席が全て埋まっていることを本来「満員」というはずだけど、日本でこのくらいの混み具合を「満員電車」と呼ぶ人は少ないと思う。
あわよくば途中で席が空くことを期待して、白石か東札幌あたりで降りそうな顔をした人を探す。こういうのは経験で分かる。まずスーツを着てネクタイを締めているような人は当然駄目。中央区に職場がある会社員か、会社員のふりをした作家の成りそこない(つまり僕)のどちらかなので、だいたい大通まで行く。それから、髪をピンクに染めて底の厚いブーツを履き、目もくらむような原色の服を着た若い人。こういう人はだいたい服飾や美容の専門学校の生徒なので、バスセンター前まで。それから、甘いものが好きそうな若い人も避けるべきだ。大通を過ぎて西側に製菓の専門学校がいくつかあって、そこの生徒という可能性が高い。
そこで、僕はある中年女性の前に位置取った。たたずまいが東札幌イオンの生鮮食品売り場で働いていることを物語っていたから。立ち居振る舞いで東札幌のイオンと菊水のマックスバリュの店員を見分けるには特殊な訓練が必要なので、彼女が東札幌で下車する確率は半々といったところだ。結果をいえば、僕の予想はコテンパンに外れていて、車内が真綿で締めるように混んでいく中、大通まで立ちっぱなしの憂き目を見ることになった。
土石流のような人ごみに流されて地下鉄から吐き出され、僕は大通まで「出勤」してきたわけだけど、この街には(というか、どこの街にも)僕の出勤を受け止めてくれるオフィスがない。なので、まず僕は近くの喫茶店に入る。もちろん、何とかフラペチーノとか、ああいう複雑なものを出す店ではない。あそこは使用する電子機器にリンゴのマークが入っていることが部族の証になっていて、その証を持たない者は石を投げられると聞くので。
ホットコーヒーを注文し席につくと、カバンからタブレットPCを取り出してテーブルの上に広げ、白紙のワードファイルを開いた。画面は爛々と輝いて、僕の書く最初の一文字を待ち構えている。
僕の身の上を知っている人がいるとしたら、早く最初の一文を書けと急かすかもしれない。しかし、「リンカーンは『もし木を切り倒すのに六時間与えられたら、私は最初の四時間を斧を研ぐのに費やす』と、言った」と、テレビで言っていた。この手の名言は本当に言ったか怪しいものが多いけれど、真偽はさておき、要約すれば準備に多くの時間を費やしなさいということだ。だから僕はまずコーヒーを飲んで、マインドを準備するのだ。
この店はちょっとした穴場で、奥の方に、おそらく元は喫煙席だったとみえる、隔たった一角がある。そこがちょうど地下歩道の往来から身を隠すのにもってこいなのだ。
近ごろ、タバコを吸う人はより厳格に隔離されなければならないことになったようで、むごたらしいほど狭い喫煙ブースがフロアの隅に用意されていた。その中ではイライラした感じの太った中年の男が恨めしそうに加熱式タバコのデバイスとにらめっこしている。
彼の奥さんは、彼ができるだけ早く会社に行き、できるだけ遅く帰ることを期待していて、反対に彼の部下は、彼ができるだけ遅く出社して、できるだけ早く退社することを期待しているのかもしれない。
彼の方でもそれをうすうす分かっていて、カフェで時間を潰すことでそれらの期待に応えているのだ。なんて健気なのだろう。と、勝手に同情しながらコーヒーをすすった。酸味が強くて、あまり好みの味ではなかった。「本日のお豆は――」と女の店員さんから聞いたはずだが、一口目を飲むまでその情報を覚えていたことはたぶん一度もない。僕は女の人に「お豆」と言われると変な気分になるからだと思う。
そんなことくらいしか考えていなかったのに、パソコンの右下にある時計はもう八時半を示していた。あまり長居をすると、店員さんたちは僕が会社で「いてもいなくてもいい人」という扱いを受けていると思うだろう。それだけは嫌だ。そんなわけで、僕は冷めたコーヒーを飲み干し、席を立った。
地下歩道を行き交う靴音に、自分の足音を溶け込ませ、道行く人のフリをする。僕以外の人は、人生を目標に向かってしっかりと歩いているように見える。少なくとも、今日一日の目的に向かって。
僕自身にも、そういうものがないわけではない。こう、そこら辺の人にも通じるくらいの代表作を世に出し、「先生」なんて呼ばれて、いい感じの雑誌に寄稿を頼まれ、SNSで創作論なんかつぶやいてみたりして。
僕がパッとしないのは、こういうしみったれた了見だからだな、なんて鼻を鳴らしたあたりで、テレビ塔の根元から地上に出ると、不意に秋の匂いがしたように思った。けれど、それが一体どんなものから構成される匂いで、どうして僕の「秋」という感じと結びついているのか、そんなことを意識しはじめた途端、その匂いは最初からなかったみたいにどこかへ消え去ってしまった。
そういえば、匂いから何かを思い出すことを「プルースト効果」というらしい。プルーストの大長編小説『失われた時を求めて』は、紅茶に混じったマドレーヌのかけらを口にして幼少期の記憶が蘇る、みたいな話で、それが由来だとか。とすれば、匂いじゃなくて味で思い出すことを指さないとおかしいのでは?――よく分からない。まず僕は『失われた時を求めて』を読んでいないので。
小学校の頃の教頭先生は、ウィキペディアに「バーコード・ハゲ」という項があったら参考画像として写真が載るような髪型で、お辞儀をするたび前髪が垂れて優雅な曲線を描くので、あだ名が「ナイキ」だった。そんなことを急に思い出したけど、たぶんプルースト効果とは関係がないと思う。
横断歩道を渡るとき、創成川をまたぐ歩道の向かいから小型犬を連れたお爺さんが歩いてきた。僕はちょうどプルーストについて考えていたところだったけれど、惜しいことにそのお爺さんはヘミングウェイに似ていた。
僕はどちらかといえば、その辺のサラリーマンより、平日の午前中から犬の散歩をしているお爺さんに近い存在かもしれない。けれど、あまり親近感みたいなものはわかなかった。たぶん、お爺さんはこれまで費やしてきた膨大な労働と引き換えに、平日の昼間から犬を散歩させる権利を掴み取ったのであって、僕の散歩とは厚みが違うのだ。
創成川を渡って南に少し下ったあたりで、それとなく目当てにしていたオフィスビルに入った。このビルは五階にかなり広い共用の休憩所があって、ソファつきの喫煙スペースが設けられている。
同じビルに入っている他のテナントの社員なんていうのは、大体なんとなく顔に見覚えはあっても、お互い名前も知らないような間柄だから、僕みたいな不審者が、外回りに勤しむ営業マンみたいな顔で紛れ込んでも特に気にかけることはない。それは僕が法人営業をやっていた時期に学んだ数少ないことの一つだ。まして、僕はとてもおとなしくて害のない不審者だし、自動販売機でちょっとした小銭も落とすのだから、むしろ歓迎されてもいいくらいかもしれない。
さっそく僕が自動販売機でエナジードリンクを買い、ビルの収益にささやかな貢献をしつつ、白茶けて毛玉のできた布張りのソファに沈み込んで、さして消費もしていないエナジーを補給し始めたころ、いつか嗅いだ覚えのある強烈な匂いが鼻を突いて、一人の人物を想起させた。おっ、プルースト効果か? と一瞬思ったけれど、なんのことはない、僕が思い浮かべたのはこのビルでもとりわけ強い香水をつけた女で、その彼女が休憩所に入ってきたのだった。
四十代後半から五十代前半くらいの、服も化粧も派手な痩せた女だ。僕は人様の容姿について批評するような立場にないけれど、有り体にいって美人の部類に入ると思う。ただ、なんというブランドのなんという銘柄か知らないが、三〇〇メートル先からでもそれと分かる強烈な香水の匂いは、鼻につくというより目にしみた。バブル時代の文化を現代まで継承することに強い意志を持っているような感じで、何色というのだかよく分からないアイシャドウに縁取られた目には、一種の覚悟にも似た鋭い光が宿っているように見える。
万が一にも彼女に性的な関心を寄せていると思われないように、膝の上でタブレットPCを広げ、白紙のワードファイルを見つめていても、その匂いは彼女の存在をことさらに主張してくる。子どものころ、授業参観の日には化粧と香水の匂いにクラクラしたものだけど、それを一人分の体積に圧縮したみたいだ。そこには何か、特別な意図や動機がなければならないのではないかと思った。
たとえば、若いころ一晩だけ一緒に過ごした男のことが忘れられず、彼が褒めてくれた香水をつけ続けているとか。いつか彼が見つけてくれることを心のどこかで期待して。もしその彼が犬を飼っていれば、たぶん発寒あたりから彼女の匂いを辿って来られると思う。
あるいは、この匂いを通して彼女は何らかのメッセージを発信しているのかもしれない。考えてみると、僕は、この都合の良い休憩室にしばしば現れる彼女を、「強烈な香水の匂い」という観念と結びつけていたのであって、個別の匂いを嗅ぎ分けているわけではない。だから、実は彼女が毎回違う匂いをさせているということもあり得る。その時々の意味を込めて。
いや、彼女が発信しているのはそんな花言葉みたいなハイコンテクストなものではなくて、もっと単純なものだという気がする。
「私はオシャレな人です」たぶん、そういうことじゃないだろうか。それが周りの人に上手く伝わっているかは分からないけれど。
そう思うと、犬を散歩させているお爺さんよりは、彼女の方がずっと共感できた。香水の匂いを通して自分がどんなにオシャレな人間であるかを発信するという彼女の行為は、僕がスーツにネクタイを締めて「僕は(ちゃんとした)仕事もせずフラフラしている人間ではありませんよ」と誰にともなくアピールするのと原理的には同じことなのだ。
あえて僕と彼女で違う点を上げるとすれば、彼女は彼女の発するメッセージ通り、オシャレな人であると自認していて、一方僕はといえば、僕の発するメッセージとは反対に、(ちゃんとした)仕事もせずフラフラした人間だと自認しているということだ。
僕は彼女のように他人の目や鼻の粘膜を攻撃することはないけれど、少なくとも本当のメッセージを発している彼女に比べれば誠実さに欠けると思う。
そんなことをぼんやり考えている間に、例の女は休憩所を去っていた。仕事に戻るのだろう。それがどんな仕事か想像もつかないけれど、ひょっとすると彼女の同僚にとっては呼吸器系を犠牲にしてもお釣りが来るほど優秀な社員なのかもしれない。僕とは違って。
僕がトンチンカンな理由で会社を辞めたとき、上司からは一応の引き留めを受けた。けど、それは僕自身が会社にとって替えのきかない人材だというよりは、その替えが現れるまではいてもらわないと困る、というようなニュアンスでしかなかった。僕はたぶん、そういう量的で代替可能な存在だった。
彼女の残り香は、執念深くそこに留まっていた。僕は、彼女自身より、その残り香に似ていた。
休憩所の大きな窓は、隣のビルの室外機を映している。実をいうと、僕はビルの裏側や建物の間の狭い路地が好きだ。薄暗くて、よく分からないパイプや錆の浮いた非常階段が張り付いた姿には、外面のいい人の裏の顔を覗くような意地の悪い快感がある。
それは僕にとって、私小説を読む感覚に近い。いかめしい顔をした文豪の軟弱な内面だとか、奇天烈な性欲だとか、そういったものを覗かせるタイプの小説は、人間の隠された一面を描いている点で優れているのかもしれないけれど、商品としては少なからず消費者側の出歯亀根性に支えられていると思う。
田山花袋の『蒲団』を読んだとき、去って行った女が残した衣類や蒲団の匂いを嗅ぐ主人公よりも、主人公と著者を重ねることで、そのグロテスクさをいっそう楽しもうとしている自分の心理を発見して、なんとも言えない居心地の悪さを味わった。それは自分のちっぽけさの自覚でもあったし、凡庸さの自覚でもあったと思う。
仮に僕が、別れた女の置いていった蒲団をフガフガするような人間だったとしたら、僕の文章はもっと濃密で、むっと匂い立つような、重さと手触りのあるものになったのかもしれない。フガフガする人とフガフガしない人では、フガフガする方が優れていると思うわけではないけれど、僕自身が「フガフガしない側」の人間であるということに、奇妙な劣等感がわいてくるのだ。
PCをたたみ、休憩室を出て、このビルを去ろうとしたとき、香水の匂いはエレベーターの中にまだしぶとく残っていた。僕はその匂いをフガフガするほど彼女のことが好きではなかった。
居酒屋のランチ定食で昼食を済ますと、創成川を今度は西に渡った。丸井や三越といった百貨店を横目に、営業時代の上司や同僚を思い出した。悪い人たちではなかったのだけど、数字を達成して、昇進し、収入を上げ、能動的に力一杯幸福になるのだ! という感じが苦手だった。
一時期、『有閑階級の理論』だとか、『消費社会の神話と構造』だとかいった本を、賢ぶろうと思って読んでいたことがある。どっちかがヴェブレンでどっちかがボードリヤールだったと思うけれど、どっちがどっちか忘れてしまった。もちろん内容もほとんど忘却している。ただ、いずれも大量消費社会における人々の振る舞いをバカっぽく書いたもので、正直「他人事だなぁ」と思って読んだ覚えがある。賢ぶるために本を読むという僕の行いも、それらの本で指摘されるバカっぽい消費に近いと気づいたのは少し後のことだ。
いずれにせよ、僕たちが物心ついた時から、どうやら世の中は不景気らしかったから、見せびらかしのためにブランド品を買うのはみっともない、みたいな価値観はプリインストールされていて、わざわざ偉い学者に説教されるまでもなかった。
ところが会社に入ってみると、そこでは「みんなで会社を大きくして、お金持ちになって、消費するのだ!」という価値観が普通にまかり通っていて、にわかに混乱する僕をよそに、彼らは仕事によって自らの人格を確立しているみたいだった。
そういえば幼稚園のころ、『将来の夢』みたいなテーマで、虹色のお餅をつくお餅屋さんの絵を描いた。この世の食べ物で、うぐいす餅が一番好きだった。だから、本来僕の夢はうぐいす餅を好きなだけ食べることだったはずだ。けれど、このころにはすでに、将来の夢を表現するには職業を媒介しなければならないという空気を感じていたのだと思う。そんなわけで、僕は自分がお餅を食べたかったのであって、他人にお餅を食べさせたかったわけではないのに、お餅を食べるのではなくお餅をつく絵を描かなければならなかった。
今でも自己実現を職業と結びつける考え方を素朴に受け入れていたとしたら、僕は会社を辞めなかっただろうし、僕の人生というのはもっと説明の簡単なものだっただろう。僕は営業マンです。以上。それが幸せかは分からないけど。
適当な交差点を左に曲がろう、と思うとき、その「適当な交差点」とは、いつも国道のような大きな道路の交点を指していた。
三越、パルコ、4プラに囲まれた交差点は、南一条通りを創成川から西に向かってなんの志しもなく歩いてきた人間が、とりあえず左に曲がるにはうってつけだった。
それは、子どものころから与えられた課題をとりあえずこなして、平均より少し上くらいの高校や大学に進み、身の丈に合った会社に入って、また与えられたタスクを営々とこなすのに似ている。
世の中というのはよくできたもので、そんなに深く考えないでも、そこそこの暮らしにたどり着くためのルートが、自然と目につくように設計されているらしい。
キャリアの多様化とかいう言葉もよく聞くけれど、実際そのあたりのことは今でも大して変わりがないのではないかと思う。
僕自身の人生も、節目節目で「まあ普通に考えたらここで曲がるよね」という交差点を、人通りの多い方へ曲がっていった先にあった。途中までは。
狸小路のアーケードを抜けていくとき、駅前通を渡る横断歩道の手前には、ちょっとした人だかりができて、信号が青になるのを待っていた。見れば、修学旅行の高校生がいるらしい。おそらく六人組の男女グループが二つ、中でもお調子者とみえる一人が大きな声をあげると、それに応えて周りがどっと笑った。しかしその輪からつかず離れずのところに、同じ制服のすらっと背の高い男の子と、活発そうな女の子が手をつないで見つめ合っていて、なにか別の世界を作っているみたいだった。女の子が、男の子の頬を人差し指でつついた。僕は、彼らもそこそこの人生にたどり着けますようにと祈った。
そして、大学時代に付き合っていた人のことを思った。
見た目や言動が派手で、何かと物事の中心にいるようなタイプだったけど、実は真面目で傷つきやすい人だった。僕と彼女が付き合うことになったのは、たまたま生理的な周期が重なったタイミングで、たまたま空間的な位置が重なり、その結果として起きた出来事に、後から辻褄を合わせたというのに過ぎなかった。
僕は彼女のアパートに入り浸り――あまりそういうつもりは無かったけど、今にして思えば「ヒモ」と呼ばれる生活様式に近かった――同じベッドで眠り、いい加減な食事をとり、もう思い出せもしないようなささいな理由でケンカをした。だけどそれも抱き合うことでうやむやになって、ときどき、世界について、魂について、なにかそういう曖昧で大きなことを語り合ったような気がする。
そこでは倫理も論理もひどく
けれど、振り返ってみれば僕の人生の中であの時が一番幸せだったのかもしれなかった。
一緒に暮らすには何もかもが不十分で、二人肩を寄せ合ってはじめて世界が成り立つような、タバコの煙とすえた汗の匂いに澱む閉じた楽園。たぶん、それが僕のちっぽけな半生で一番美しい思い出だった。
街は音で溢れかえっていた。
水商売の求人広告宣伝車は優雅な速度で駅前通りを南下しながら、歴史上もっとも軽薄な音楽としてうっかり名を残してしまうような街宣放送を垂れ流し、探偵事務所や寿司屋の宣伝と複雑に混ざり合って――シンジツをきっと/イクラでシャリが/コウシュウニュウ!――、意味が一つも入ってこない。まるでウィリアム・S・バロウズの世界だ。
バロウズは既存のテキストを切り刻んでランダムに組み直す「カットアップ」と呼ばれる手法で小説を書いた。僕は彼の『ソフトマシーン』というのを読んだことがあるけれど、ときどきなんとなくカッコいいフレーズがあるように感じた以外は、ほとんど何も分からなかった。
街を歩けば次々と目に飛び込んでくる看板や広告、スマホに目を落とせばネットニュースやSNS、大量の文字情報が矢継ぎ早に目の前を流れて、頭の中には何も入ってこないという感じ、思えば、そもそもこの世界を生きるということ自体が、カットアップの小説を読んでいるのとさほど変わりなかった。
そういえば、生成AIとか大規模言語モデルとかいう奴に、近い将来ウェブライターの仕事は奪われてしまうらしい。僕はあれの中身についてほとんど何も知らないけれど、聞くところによると、意味を全く考慮に入れず、ある単語の周りにどんな単語がどのくらい出てくるかを覚え、それらを確率的に並べているのだという。これがどのくらい正確な理解なのかも分からないけど、もし本当だとすれば、そこで行われていることは、カットアップに近いのではないだろうか。
じゃあ、僕はどうだろう。僕の言葉も、今まで読んだり聞いたりした言葉のカットアップに過ぎないのでは?――と、そんなところまで僕の考えが差し掛かったとき、僕の足はすすきの交差点に差し掛かっていた。逆にいえば、ややこしいことをいろいろ考えているつもりで、それは狸小路からすすきのまでの距離に相当するくらいのものでしかなかった。
別にすすきのを目指していたわけではない。僕にはあまりお金がないので。
たぶん、そこは札幌という街の中でもっともガヤガヤした場所で、僕はその喧噪の中で笑ってしまうほど独りぼっちだった。渋滞寸前の車の列も、数年前に新しくなった市電も、僕とはまるで噛み合わないリズムとテンポで進んでいた。いくつもの宣伝放送が互いの存在などまるでお構いなしに飛び交って、だけどそれらの音の洪水の中に、僕と響き合うような周波数は一つも含まれていないみたいだった。
ところで、『ウィトゲンシュタインの愛人』というのは誰の作品だったろう。割と最近読んだのだけど、これもなかなか奇天烈な小説だった。滅亡した世界で一人だけ生き残った女の人が、芸術ウンチクと曖昧な記憶をタイプライターで延々と綴っていくような話だ。完全な孤独の世界で、それらの事実を確かめる術はなく、またその必要もない。だからどこをとってもとりとめがなくて、だけどどこかゆったりとして心地のいい文章だった。
僕も孤独だ。世界が滅亡なんてしなくても。
僕はくるりと振り返って、元来た道を歩き出した。
振り返ってみれば、家族も、友人も、恋人も、歩道をすれ違って通り過ぎていく人たちと、それほど変わりはしなかった。一緒にいてもなんとなくばらばらで、互いが互いにつながっていないような感じ。それはあの派手な広告宣伝車が辺り一面に響かせる、俗っぽさを究極まで突き詰めたような音楽――たくさんの人が同じリズムで同じことを言っているのに、ちっとも調和していないような、あの感じに似ていた。
あれを運転しているのは、どんな人なのだろう。彼も孤独だろうか? きっとそうだと思った。
大学のころ付き合っていた彼女は、僕の知らない誰かと結婚して、子どもがいたりするのだろうか? 泣き止まない赤ちゃんを抱えながら、頼る人もなく、独り途方に暮れていなければいいのだけど。
修学旅行の高校生は、十年後に同じグループだった子たちの名前を何人覚えていられるだろう? 僕は今しがた自分で試して一人も思い出せないことに驚いたところだ。
香水の女と一緒に暮らす人は、呼吸器官にかなりの強靱さを求められるだろう。そういう人材は簡単に見つかるものではないと思う。
喫茶店の喫煙ブースで窮屈そうに加熱式タバコをふかしていた男は、家族からも同僚からも、その苦労に対して彼が期待するほどの敬意を受け取っていないような気がする。
こうした全部が想像に過ぎないけれど、そう突飛な憶測でもないように思えた。
家族がいても、恋人がいても、知人や友人がたくさんいても、みんなそれぞれの理由で、それぞれに孤独なのだ。そして僕と同じように、その孤独も案外心地のいいものだということを、きっとみんな、うすうす知っているのだ。そういうことにしておけば、僕の方でもいくらか面目がたつような気がするので。
考えてみると、僕にはウェブ広告の記事を書くという、今や消えゆかんとする仕事を通して、蜘蛛の糸みたいな社会との繋がりがある。たとえばあなたがネット上のコンテンツを無料で享受しようとするとき、その報いとして差し込まれる広告のいくつかには僕の書いた文章が含まれているかもしれない。それに、ふと寂しい気持ちになった時にはスシローの予約アプリから通知がくるし、田舎の両親とは疎遠だけど、別に絶縁しているわけでもない――そもそもスシローのアプリを入れたのは彼らのためだ。僕は一人で回転寿司に行けるタイプではないので――。その程度のことで十分なのだ。
札幌駅前通を引き返して北へ。すれ違う人たちにとって、僕は風景の一部でしかない。僕にとって彼らがそうであるように。液晶画面越しに見る往来の景色みたいに現実味を欠いていて、そこに独立した人格や感性があるようにはどうしても思われなかった。彼らについても、僕についても。
僕という存在は、スーツを着込んでかろうじて輪郭を保っている、ふわふわとして不定形の、あってもなくてもよいようなもので、だけど案外そのことを気に入ってもいるのだ。
営業時代の同僚たちは何人生き残っているだろう。達成すれば達成しただけ増えていくノルマを追いかけて、果ても知れぬラット・レースに明け暮れているのだろうか? どうやらその先に幸せみたいなものはなさそうだぞ、と思っていたけど、そこから降りた先にも、別に幸せらしきものは見当たらなかった。
「お金がもらえなくてもやりたいことをやれ」というのは、ほとんどのビジネス書に書いてあることで、僕も試しにお金がもらえなくてもやりたいことをやってみたのだけど、そうしたらなんと、お金がなくなったのだ。これには僕も驚いた。
当たり前のことだけど、幸せというやつを手にするには、そもそも自分にとって幸せとはどういう状態なのか知っている必要があって、僕にはそのイメージがちっともなかったし、自分という人間の能力や人格をかなり早い時点で見限っていた。
だから、普通の人と同じような努力を、普通の人と同じくらいやって、普通の人と同じような人生のレールに乗るというのを目標にするしかなかった。それも実際ある時点まではけっこう上手くやれていた。
問題があったとすれば、「普通の人」なんてこの世のどこにもいなかったということだ。
大通公園に差し掛かると、僕はふと気が向いて、ふらりと歩道から逸れ公園に入った。それから手ごろなベンチを見つけると、その上を軽く手で払って腰掛けた。僕にしては珍しいことだった。僕は公園のベンチのジャリジャリした感じや、たぶん街路樹から落ちてきたのであろう、よく分からない干からびたものが乗っかっていたりするのがあまり好きではなかったので。
東西に伸びた公園を、平日の昼間から私服で行き交う人たちを眺めた。僕には、彼らが公園の景観として用意されたエキストラに見えた。もちろん、本当はそうでないことも、知識としては知っている。でもそうでないなら、この人たちは、一体どういう人たちなのだろう? 一体なにと引き換えに、平日の昼間から堂々と公園をぶらぶらしたり、芝生に敷物をしいて寝そべったりする権利を得たのだろう? あの小型犬と散歩するヘミングウェイに似たお爺さんが長年費やしたのと同じような苦労を、みんな経験しているのだろうか?
たとえば噴水の前で写真を撮っている、ストリート系の服を着た若い女の四人組も? 作業帽にワイシャツにカーゴパンツという、どこ行きか分からない服で花壇のへりに足を組んで座るおじさんも? とても仲が良さそうなのに、二人とも足腰に自信があるせいで、微妙に互いをライバル視しているような感じのお婆さんたちも?――くしゃみが出た。その辺にしておけということなのかもしれない。経験上、「趣味は人間観察です」という人にロクな人はいなかったので。
カバンからPCを引っ張り出して膝の上に広げると、僕は開きっぱなしだった白紙のワードファイルに『Walkabout』とタイトルをつけた。
できるだけ、ドラマみたいなものがない小説を書こうと思った。
用もないのにスーツを着てヒトカドの大人になりすましてみたり、誰ともつながっていないくせに、目につく人の背景を想像して勝手に共感してみたり、僕は我ながらなかなかの愚か者だと思うけど、案外そんな人は他にもいるような気がするのだ。
僕みたいに、うっすら孤独で、うっかりドラマのない人生を歩んでしまった、そんな人が共感できるような話がいい。「バカには見えない壁」で、世界とやんわり隔てられているような感じ、幸せを見失ってさまよってはいるけれど、大騒ぎするほど不幸というのでもない、そんな感じを書きたいと思った。
PCを石畳に落とさないように両手でしっかりと掴んで、ベンチの背もたれに寄りかかって空を見上げた。そこには立派なイチョウの木が、黄色に色づく葉っぱで豊かに修飾された枝を、僕と空との間に差し出している。その隙間から見えるコバルトブルーの空の向こうから、ふと、誰かが見下ろしているような気がした。なんだか申し訳ないな、と思った。ずいぶん退屈させてしまったかもしれない。なにしろ、今日僕がやったことといえば、大通に「出勤」して、寄り道しながらすすきのまで歩き、また大通まで引き返してきただけだ。気の利いたダンスの一つでも披露できればいいのだけど、あいにくその方面のセンスときたら、体育の授業で僕のダンスを見た女子が貧血を起こしたくらいなので。
あるいはひょっとして、僕の心の中まで覗いていたりするのだろうか。だとしたら、浮かんでは消えていくとりとめもない考えに、バカなヤツだと笑ってくれたらいい。欲をいえば、ちょっとした共感をもってくれたりすると嬉しいのだけど。
たえずゆるやかに吹いていた風がふとやむと、テレビ塔のところで見失った秋の匂いを感じた。ああ、あれは地面に落ちた銀杏の匂いだったのだと気づいた。
まだ陽も落ちないうちに、帰りの地下鉄に乗った。座席に座れる電車というのは、なかなか優雅なものだ。ゆっくり本を読むことができたし。僕はたぶん、明日もこの地下鉄に乗って大通まで「出勤」するだろう。そして自分のそんな性格や生活を自嘲しながら、案外それも悪くないな、なんて笑うのだ。虚勢と本音が半々くらいといった感じで。
改札を抜けて地上に出ると、いくつかの脇道を細い方細い方へと入っていった先に、僕の住むアパートがある。家賃は驚愕の一万八千円(共益費三千円)。外壁は僕が住む少し前に改修されたそうで、家賃のわりに、そうみすぼらしいものではない。ただ、どうしたわけか、ペンキがはげてサビの浮いた階段は補修の手が及ばなかったものとみえ、ひと足ごとにスリリングな音をたてて軋む。建てつけが悪く、微妙に渋い玄関のドアを開けると、回収日を逃したペットボトルのゴミ袋をまたいで、まるで激務に疲れて磨耗しきった人みたいに気だるげな声でうなりながら上着を脱ぎ、ネクタイをほどき、シャワーを浴びた。
スウェットに着替えて、冷蔵庫の中の惣菜をレンジで温め、安物の中では最高級のローテーブルにPCを広げて、見終わった後には何を見たか忘れているような動画を見ながら、食べ終わった後には何を食べたか忘れているような食事をする。
寝転がって本を読み、飽きたら音楽を聴いて、なにか深そうなことを考える。体の奥から湧き上がるリズムに合わせて不思議なダンスをおどり、ロックスターになりきって架空のギターをかき鳴らす。歯を磨いたら、ペラペラの布団の間に挟まって眠り、カーテンを開け放した窓からさす朝の光に目をさますと、タブレットPCは画面を黒くしてふんぞり返っている。タッチパッドを軽く叩いて起こしてやると、PCは不機嫌そうな唸りをあげる。
ワイシャツを着てネクタイを締める。
画面には開きっぱなしのワードファイル。
『Walkabout』ととりあえず名前を付けたそのワードファイルは、まだ白紙のままだ。
Walkabout 福太郎 @rage
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