三章「ボーちゃんの世界」



塗りたての赤リップは、くっきりと見えるほど色が濃い。ねっとりとした唇と、パリッと上がったまつ毛が、母のキリッとした印象を一層際立たせていた。口を軽く噛みながら、リップの色を唇全体にすべらせていく。母の唇が、横に広がった。



「パッ」



なじませたインクが、ぷっくりと膨らむ。薄く張った皮の膜が剥がれると、だんだんと縮んでシワが寄っていく。こびりついたインクを指でこすると、ポロポロとカスがめくれ、赤くヒリヒリとした。



私は気づかぬうちに、かさついた唇を舐めていた。はがれた皮を引っぱると、血の味がピリつく。唾液と血が混ざり、ロウソクのように溶けて、固まり、黒く焦げた鉄の匂いがした。こみ上げた煙は、喉の奥にたまったヤニを吸い取り、真っ黒になる。



硬くこわばった息は荒く浅くなり、汗からはすっぱい匂いが立ちのぼる。体がふわふわと浮かび、頭はずっと重たい。一滴も残さず甘い蜜を吸われ、しぼんだ感覚になる。いちごの香りが、ほのかに残った。



私は、口をポカーンと開けて宙に浮かんだ風船を眺めている。真っ白な頭の中は、ぐるぐると渦を巻く。詰まった呼吸は泡を立てながらモゴモゴと聞こえる。喉の奥に何かが引っかかり、唾液がうまく飲み込めない。目の前が真っ白になった。



そこが、ボーちゃんの世界だった。床はピカピカに磨かれ、ペンキの匂いがツンと鼻を抜けると、私は目を覚ました。目がチカチカして眩しい。宙に浮かんだ風船は、どんどん膨らんで、ゆらゆらと揺れていた。



「バン!」



張り詰めていたゴムが一気に破裂した。そのとき、私は初めて、自分が瞬きをしていたことに気づかされた。どうやら、ボーちゃんの世界の端っこから覗き込んでいたらしい。背中は縮こまり、じっと丸くなってうずくまっている。



雪の上に残る足跡をたどりながら、ベッタリと床を踏みしめて歩く。白いテープが貼られていた。伸びきった爪がつま先に当たると、指を引っ込める。爪を立ててはぎ取ると、ビリッと音がした。



私は白いテープを片手に、どこまでも続く地平線を全力で駆け出した。走るたび、お腹は張って、ギューッと締めつけられる。口にひっついた泡を吹き、息を整えた。胃の中がグチャグチャと波打ち、叩きつけられる。



白いヨットが見えた。風に乗って、地平線の上で帆がゆっくりとなびいている。私はお腹を押さえて、かがみ込むような走り方になった。その動きは、生まれたばかりの赤ちゃんが、必死に立ち上がろうとする姿に近かった。



走っても走っても、距離は縮まない。



けれど、ひとつだけわかったことがある。



それは、地平線の向こうには、また地平線が続いていること。



果てなき旅になるだろう。



言葉を拾い集めて世界をつくるボーちゃん――



私は君の読者だ。大丈夫。



私はいつでも、向こう側で待っている。



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ボーちゃん 大元勇人 @Yuuto07180

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