第4話 蒸気の王
"警鐘が鳴り響く前に、俺はグレイ司祭の部屋を飛び出していた。焼け焦げた警察徽章を、凍える指で強く握りしめる。これがここにある。その事実が、心臓に突き立てられた氷のナイフのように思考を麻痺させる。
廊下を駆け抜けながら、硬貨を弾いた。
――残り5回。
視界が二重になる。角の向こうから、白衣の男たちが二人、棍棒を手に現れる。未来の光景が、今の現実と寸分違わず重なった。
俺は壁を蹴り、奴らの頭上を飛び越えるようにして着地する。男たちが驚愕に振り向く二秒。その時間で、俺は闇の中へ消えていた。
施療院の外へ転がり出ると、冷たい夜気が火照った体を冷ます。だが、指先の感覚はもうない。体の芯が、凍えるよりも深く、冷え切っていく。
安宿に戻ると、シエナが俺の顔と、手に握りしめられた徽章を見てすべてを察した。
「……あんた、この街に“呼ばれた”のかもね」
彼女の言葉が、重くのしかかる。グレイ司祭は俺を知っていた。俺が来る前から。爆発は、事故などではなかった。
「この台帳が、切り札になる」
俺はシエナが隠していた臓器密売の台帳を指さした。「司祭の首を狙う人間は、他にもいるはずだ」
「いる。一人だけ、教会とまともに張り合える大物がね」
シエナの目に、危険な光が宿った。「鉄工会頭ヴァロ。街の蒸気と鉄を支配する、“蒸気の王”さ」
鉄工会がある区画は、街の心臓部だった。巨大な歯車が絶えず唸りを上げ、地面を走る太い蒸気管が、生き物のように熱と振動を伝えてくる。俺たちはヴァロの根城である中央溶鉱炉へ向かった。
会頭の執務室は、溶鉱炉を見下ろす最上階にあった。防音ガラスの向こうで、真っ赤に溶けた鉄が川のように流れている。
「教会のお偉方が、俺に何の用だ?」
椅子に座っていた大男が、ゆっくりと振り返った。鉄工会頭ヴァロ。顔に古い火傷の痕があり、その眼光は、あらゆる嘘を見抜くかのように鋭い。
シエナが一歩前に出て、台帳の写しをテーブルに滑らせた。
「贈り物です、会頭。教会を黙らせるための、ささやかな弾丸を」
ヴァロは書類に一瞥をくれただけで、その視線を俺に向けた。
「埠頭で憲兵を数人、おもちゃの銃と鉄パイプで伸したそうだな。元刑事、朝比奈怜司」
俺の名も、経歴も、すでに調べ上げられている。
「腕試しと行こうか」ヴァロは立ち上がった。「今夜、中央蒸気導管の最終点検がある。貴様には、俺の護衛についてもらう。最近、教会の犬が嗅ぎ回っていてな。無事に朝を迎えられたら、お前たちの話を聞いてやる」
それは、拒否権のない命令だった。
夜。俺とヴァロは、地上50メートルの高さに架けられた、蒸気導管のメンテナンス用キャットウォークに立っていた。眼下には、灰都の灯りが霧に滲んで広がっている。
「最高の眺めだろう」ヴァロが呟いた、その瞬間。
空気を切り裂く音がした。
硬貨を弾く。
――残り4回。
二秒先、ヴァロの首筋に、闇から放たれた鋼鉄の矢が突き刺さる。
俺はヴァロの体を突き飛ばし、矢の軌道から無理やり逸らした。金属音を立てて、矢が手すりに突き刺さる。
「ほう……」ヴァロが感心したように声を漏らす。
闇の中から、黒装束の暗殺者たちが三人も姿を現した。教会の狂信者どもだ。
俺はヴァロを背にかばい、一番近くの暗殺者と対峙する。奴の短剣が、俺の喉を狙って光の線を描く。俺はその線を潜り抜け、肘を叩き込み、体勢を崩した相手の足を払った。
だが、別方向からもう一人が迫る。未来視のインターバルがもどかしい。
その時、ヴァロが動いた。彼は暗殺者の一人が振り下ろした刃を、自らの腕で受け止めた。分厚い革のコートが裂け、血が滲む。だがヴァロは顔色一つ変えず、その腕で相手を掴み上げ、眼下の闇へ投げ捨てた。
「借り、一つだぞ」
ヴァロは笑いながら、俺の肩を叩いた。
最後の暗殺者を叩きのめした時、ヴァロは自身のジャケットの内ポケットに手を入れた。
そして、取り出したものを見て、俺は息を呑んだ。
それは、鈍い真鍮の色をした、一つの硬貨だった。俺が胸に埋め込まれたものと、形も、刻まれた紋様も、酷似している。
「お前も、“契約者”か」
ヴァロは静かに言った。その声には、同類を見つけた者の響きがあった。
彼は俺が握りしめている警察徽章に目を落とす。
「その徽章……ひどい“声”で叫んでいるな。後悔と、無念の叫びだ」
ヴァロの目が、初めて人間ではない何かのように、深く、昏く光った。
「だが、そいつはあんた自身の声じゃねえ。あんたの隣で死んだ、誰かさんの声だ」"
灰都ノワール ― 二秒先の死線 ― @SilentDean
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