万華鏡に夢を見る

石田空

ここにはまやかしの恋しかない

 三味に音が響いた。

 一流の芸妓の傍には常に咲の姿があった。

 妖艶に舞を披露する芸妓は踊り専門なのに対して、咲は楽器専門である。

 芸妓の中にも緩やかな格差が存在する。

 一番上は踊り専門の芸妓。彼女たちは着物にも化粧にも金がかかる一方、稼ぎもひとしおだから、中にはいい身請け話をもらって吉原の大門を堂々と出ていくものもあれば、背負った借金を全て完済して、年季が明けるまでに出ていくものもいる。しかしそのほとんどは体を張り続けて弱り、年季前に亡くなってしまう者もいる。

 楽器専門の芸妓は、客を個人で取ることができない。常に踊り専門の芸妓を立てるためにいなくてはならず、服や化粧も踊り専門の者たちよりも地味で目立ってはいけない。体を売らなくてもいい代わりにひと晩でたくさん座敷を回らなければならず、借金返済のためのお金もなかなか稼げない。年季が明けてからも、吉原を出ることができず、遣り手になるか楽器の師範になるかでどうにかこうにか凌ぐしかない。

 咲は楽器専門の芸妓であり、特に彼女は一番いい花魁の元に送られていた。

 彼女の曲で舞った芸妓は立ちどころにいい縁を引き、良縁で身請けされていくため、周りからはありがたがられて、こぞって彼女の曲で踊りたがったのだ。

 咲からするとかなり困る相談であった。


(たしかにあたしの稼ぎが増えるのはいい。でもあたしの体はひとつなのに……)


 体を売らずともいい。楽器さえ弾ければいい。

 周りから彼女の腕は羨まれたが、それ以上に彼女が運んでくる良縁に目がくらんだ花魁たちに持ち上げられたおかげで、どうにかこうにか同期たちからひどいやっかみは受けずに済んでいた。

 今日もくたくたの体で置屋に戻り、朝餉について想いを馳せる。今日の客は上客であり、たくさん仕出しを注文し、酒だけ飲んで帰っていった。明日は馳走だ。楽しみだ。

 キュルリと腹が減る音を無視し、皆で雑魚寝をする。楽器がなければ舞は映えないが、夜は皆で固まって空いた腹を宥めて寝るしかないのである。


****


 そんな咲にも心が弾む瞬間がある。

 最近自分がつきっきりになっている花魁に、破格の良縁が来そうになっているため、なんとかその良縁を結んでしまえと、咲はしょっちゅうその座敷で三味を奏でていた。

 皆が麗しの花魁の舞に見惚れている中、三味を弾く咲のほうに視線を送っている者がいたのである。

 この花魁を贔屓にしているのは、呉服問屋の若旦那であり、咲のほうに一心に視線を向けてくるのは、その護衛らしい浪人であった。

 武家とは聞こえがいいものの、よほど大きな家でもない限りは長男以外は皆部屋住みであり、御家人の身分を捨てるか、どこかの大店の護衛になるかしなければ、所帯を持つことすら叶わない立場である。

 最初咲は、そんな男の視線を無視していた。


(花魁の覚えが悪くなったら、身請けの話だって流れるかもしれないのに。馬鹿な人)


 舞が終わったあとに、酌をして回る中も、咲はかの武士からは距離を置いていたが。

 やがて花魁が若旦那と別室に向かう中、咲は次の座敷に向かうために立ち去ろうとする中、「お待ちください」と声をかけられてしまった。

 咲は怪訝な顔になりそうなのを堪えて、短く言った。


「堪忍してくれなんし。次の座敷がありますえ」

「ああ、すみません。あなたのお名前をお伺いしたかったもので」

「……咲です。堪忍してくれなんし」


 名前を告げると、咲はさっさと逃げ出した。


(……馬鹿な人。遊び慣れてないのかしら)


 基本的に楽器専門の芸妓に声をかけるのは粋じゃないと、蔑まれてもしょうがあるまい。そもそもしきたりとして、裏方に声をかけてはいけないのだ。

 咲は彼の名前も聞かずに次の座敷に出て行ったが、次の日にも会うことになってしまったのだ。

 楽器専門の芸妓は、定期的に稽古に出かけている。座敷に無様な演奏をする訳にはいかないのだから、楽器を持って師の元に通う。置屋から独立できるような腕前ならば、置屋以外からの依頼を受けて三味を弾きに行くこともあるが、咲は良縁招きの噂はあれども、自分自身にもまだそこまでの腕前がないのはわかっていた。

 ひとり稽古を済まして帰る中、「咲さん」と声をかけられたのだ。


「こんなところで油売っていていいんですえ? 護衛ですのに」

「いえ。花魁の身請けのために、若旦那が置屋の皆さんに差し入れをしている最中ですよ。それまで自分は暇なのです」

「なるほど……」


 基本的に一度座敷に上がってしまえば、刀は預けないといけない。しかし護衛が得物をそう簡単に預ける訳にもいかず、上がることなく、こうして道でたむろして待っていることは往々にしてあった。


「咲さんは? 今なにを」

「堪忍してくれなんし」

「いえ。あれだけ見事な三味を聞いたのは初めてでしたので、どうしても感想を伝えたかったのです」

「まあ……」


 それには少しだけ咲は驚いた。

 基本的に三味線の音なんて、そう何度も聞いてなければわかるものでもあるまい。しかしただの大店の護衛では、そう何度も三味線を聞くこともあるまい。基本的に吉原で遊ぶ場合、一度使命した花魁をそう易々と変えることは叶わないのだから、そう易々と座敷を渡り歩くことはできないはずだ。


(ただの浪人だと思っていたけれど……もしかしたらもう少し身分が高いのかもしれない)


 そこで少し粉をかけてもいいのではという悪戯心が首をもたげたが。それにはすぐ咲は否定した。

 吉原において、芸は売っても心は売らぬ。そもそも彼女は芸で身を助けてきた身なのだから、彼の言葉を鵜呑みにするのは危険であった。


「ありがとう。ぜひとも次の座敷でも披露させてくれなんし」

「控えめな方ですね」


 そうやんわりと彼は言った。

 名前も告げぬ者にこれ以上かける言葉もなく、「それでは帰りますえ」とだけ伝えて、彼女は踵を返した。

 咲のほんのりと灯った気持ちは、なかなか冷めそうになかった。


****


 いよいよ花魁の身請けの日程が決まった。

 彼女の話を聞きに絵師が絵を描きはじめたり、本屋がなにやら本を書くために取材に来たりと置屋も一斉に騒がしくなった。

 その中、若旦那が置屋の皆に「このたびは結構な話、誠にありがとうございます」と贈り物を配りはじめたのだ。たくさんの本に南蛮渡来の菓子。そしてなにやら筒状のものを配りはじめたのだ。


「こちら万華鏡と申します。中に細工と鏡が詰め込まれ、回すたびに見える模様が変わるのです。どうぞ回しながら中を覗き込んでくださいませ」


 そう若旦那に教わり、禿たちがそれできゃらきゃらと中を見はじめた。それを眺めながら、咲も中を覗く。

 回すたびに、華やいだ模様がくるくると変わる。一度たりとも同じ模様にならないところが面白く、それは夜の悩ましい吉原そのもののように見えた。

 今度身請けされる花魁のように、吉原の外で大店の若旦那に大事にされる例は稀だ。そのほとんどは身を崩し、河岸の劣悪な店に送られて、さんざんな目に遭って死ぬ。生きて年季が明けてから、堂々と吉原の大門を抜けていく例は少ないのだ。

 そして名も知らぬ護衛は、この若旦那の護衛なのだから、おいそれと吉原に来ることはできまい。咲は自分の給金で人を招くことなんてできないし、彼が何者かはわからぬが、そう何度も座敷に通う金を支払える訳もあるまい。


(この気持ちはなかったことにしましょう)


 くるくると万華鏡を回せば、絵も変わる。同じ模様には二度とならないのだから、捕まえられなければそれまでの話。

 絆されてすぐにひょいひょいと大切なものを渡せるようには、ここで生きている女はできてはいないのだ。


<了>

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