深夜の処理者
わんし
深夜の処理者
カチッ、カチッ……午前2時47分。
古い目覚まし時計の音が部屋の隅で乾いたリズムを刻む。
だが、その音よりも近いのは、俺の親指がスマホの画面を上下に滑らせる、かすかな摩擦の音だった。
ベッドに横たわりながら、眠れないままSNSのタイムラインを眺める。
誰かが深夜に投げた短い呟きや、半端な「いいね」の通知音だけが、闇に小さな波紋をつくる。
部屋の中は、最近導入したスマートホームのAIが管理している。
設定した時間になると自動で照明が落ち、静かなアンビエントBGMが流れはじめる。
白色LEDの光がほの暗い暖色に変わり、部屋全体が“眠るための空気”に染め上げられていく。
俺はそれに身を任せるように、枕元に置いたスマホの光だけを頼りに、指を動かし続けた。
特に意味もない。誰かの生活音、誰かの愚痴、誰かの写真。
それがただ無機質に流れていく。
ふと、いつもの「眠気の波」がやってくるはずの時間に、逆に胸の奥がざわついた。
BGMの音が妙に遠く感じる。
窓の外から吹き込む空気が冷たい。
エアコンは止まっているはずなのに、皮膚を刺すような冷気が足先にまとわりついてくる。
その時だった。
身体が、重くなる。
最初は単なる疲れかと思った。
だが、腕が動かない。
指先も、首も、まぶたすら重くなった。
金縛り——。
人生で二、三度経験したことはある。
寝入り端に夢と現実が混ざって、身体が動かなくなる、あの嫌な感覚。大抵は数分で解ける。
脳内で「これは金縛りだ」と念じれば、意外とすぐ終わる。
だが、その夜は違った。
視線だけが、ぎこちなく動く。
白い天井、時計の影、スマホの光。
すべてがいつもより歪んで見える。
音もおかしい。
BGMがスローモーションのように低く響いている。
体内の血流音がやけに大きい。
冷たい空気が、肺の奥に突き刺さるようだった。
心臓がドクン、ドクンと鳴るのに、胸の外側は凍りついている。
自分が息をしているのかどうかさえ、曖昧になる。
耳の奥で、時計の音がまだカチッ、カチッと鳴っている。
だが、気がつけば、それに混じって別の音がしていた。
カチャリ、と何かが外れる音。
玄関の方向からだ。
俺のマンションは築浅のワンルームで、オートロックだ。
鍵を持っているのは俺だけ。
誰も勝手に入れるはずがない。
深夜二時過ぎ、誰かが訪ねてくるなんてあり得ない。
なのに、その音は確かに耳に届いた。
カチャリ、カチャリ……金属が擦れるような小さな音。
視線を玄関方向へ向けるが、ドアは見えない。
ワンルームとはいえ、玄関は角を曲がった先にある。
見えるのは暗い廊下の入口だけ。
だが、その暗がりの奥から、何かがゆっくりと近づいてくる気配がした。
ドクン、ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
身体が動かない。
声も出ない。
目だけが、必死に暗がりを探す。
音が、確かに聞こえる。
靴の裏がフローリングに触れる、重い足音。
一歩、二歩、三歩。
誰かが本当に、廊下の奥からこちらへ歩いてくる。
呼吸が荒くなる。
いや、呼吸できているのか?
胸が苦しい。
頭の奥で警鐘が鳴り響く。
「誰かいる」
「誰か入ってきた」
だが声にならない。
喉が石のように固まっている。
視界の端で、黒い影が動いた気がした。
ほんの一瞬、何かが壁に張り付くように揺れた。
それが人の形をしているのか、何なのか判別できない。
ただ、目だけが異様に光っていた気がする。
ドアが、静かに開く音がした。
ギィ、ときしむ音。
その隙間から、何かが見える。
ゴム手袋をはめた手。
そして、無言で立つ二つの影。
俺の部屋に、二人の男が入ってきた。
暗がりの中でもわかる、作業着姿。
顔はマスクで隠されているが、目だけが異常に冴えている。
光を反射して、爬虫類のように冷たい輝きを放っていた。
「これ、今回の案件?」
低い声がひとつ。
もう一人が頷き、「リスト通り、二十代男性、大学生、単身」と答えた。
脳が一瞬、理解を拒否した。
案件?
リスト?
何の話だ?
俺の心臓が胸の中で暴れているのに、身体はまだ動かない。
金縛りの感覚がますます重くなる。
二人の男は、部屋の中に入ってくると、まるで家具の配置を把握しているかのように迷いなく進み、俺のベッドのそばに立った。
喉の奥から、声にならない叫びが漏れた。
男たちは、俺の顔を覗き込むようにしながら、互いに短い言葉を交わした。
「眠ってるように見えるな」
「いや、データ上は“死亡確認済み”って出てる。間違いねえよ。」
死亡?
俺は生きている。
心臓は鳴り、意識もある。
なのに、彼らの口からは「死んでいる」という前提しか出てこない。
俺は叫びたい。
動きたい。
だが身体はまだ鉛のように固まっている。
カチャリ、と小さな電子音が響いた。
男の一人がスマホを取り出し、俺の枕元にある空気をスキャンするようにカメラをかざした。
すると、画面に何かのコードが浮かんだらしい。
「ほら、QRコード認識。リスト通り、確かにこの部屋、この個体だ。」
「便利なもんだよな。いちいち家族に確認とらなくても、スマートホームが自動で発注してくれる。」
俺の胸の奥で、不快な汗が噴き出す。
発注?
個体?
何のことだ?
男たちは無造作にゴム手袋を直しながら、部屋の隅に黒いバッグを置いた。
ファスナーを開ける音が響く。
中から取り出されたのは、大きなプラスチックのシート、銀色に光る器具、そして黒い袋。
見たこともないが、直感で理解してしまう。
これは「遺体処理」のための道具だ。
俺の頭の中で警鐘が鳴り響く。
——違う、俺は死んでない!
必死に手を動かそうとするが、指一本動かない。
視線だけが、彼らの行動を追う。
「心拍確認は?」
一人が問うと、もう一人が軽く笑った。
「スマートウォッチからのデータだ。二時四十二分、心拍停止確認。クラウドに送信済み。信頼性は百パーセント。」
「だったら問題ないな」
俺は胸の中で叫ぶ。
心臓は今も動いてる!
耳の奥でドクンドクンと響いてる!
だが、それを証明する術はない。
俺のスマートウォッチは確かに腕にはまっている。
だが、そこから送られたデータは“心拍停止”と記録されているのだ。
頭の奥で、あり得ない推測が浮かぶ。
——スマートホームが誤作動した?
それともハッキング?
——いや、そんなことより、この二人は俺を「遺体」として処理する気だ。
彼らは冷静に部屋を見渡している。
まるで“仕事”を確認するように。家具の配置、照明の明るさ、換気のタイマー。
そして、ふいに一人が声をあげた。
「作業開始の時刻、もうすぐだな」
もう一人が頷き、俺を見下ろした。
「まだ温かいな」
そう呟いたその声が、氷のように耳に突き刺さる。
——温かいのは当たり前だ。
俺は生きてる。
だが、男たちの目には「死体」しか映っていない。
カサリ、と黒いシートが広げられる。
冷たいビニールの光沢が天井の薄暗い灯りを反射する。
俺のベッドの足元で、それが床に広げられ、準備が着々と進んでいく。
部屋の中に、人工的な匂いが漂い始める。
アルコール消毒液の匂いだ。
鼻孔を突き刺すような化学臭に、胃が反応し、吐き気が込み上げる。
だが喉は固まって声も出ない。
「この案件、早めに終わらせよう」
「次は隣のビルらしいからな。時間を食ってられない」
何気なく交わされる会話に、俺の背筋が凍る。
案件?
次?
つまり、俺の“処理”は仕事の一部でしかないのだ。
彼らはベッドの両脇に立ち、俺の身体を見下ろした。
目と目が合う——いや、彼らにとって俺の目は“開いたままの死者の目”にすぎないのかもしれない。
一人が首を傾げて言った。
「目を閉じさせるか?」
「いや、あとで袋に入れるときでいい。作業が増える。」
その冷淡な言葉に、心臓が跳ね上がる。
俺は必死にまぶたを閉じようとするが、やはり動かない。
——俺はまだ生きてる。
——誰か、気づけ。
だが部屋の空気は無機質に冷たく、スマートホームのBGMが淡々と流れ続けている。
その旋律が、かえって俺を孤独へと押しやっていく。
二人の男の影が、じわりと俺に覆いかぶさった。
——俺は生きている。
その思いを頭の中で繰り返す。
だが、それを証明する術は何一つない。
声は出ず、身体も動かない。
唯一自由なのは、目だけだ。
視線の端で、男たちの手が慣れた様子で動いていくのが見える。
黒いバッグから取り出された器具は、見たこともないものばかりだった。
透明のチューブ、無機質な銀色の道具、そして記録用のタブレット。
一人がタブレットを操作し、俺の方へかざす。
「ID一致。死亡認証済み」
画面に表示されているのは、確かに俺の名前、俺の住所。
そして「死亡確認時刻 二時四十二分」と赤い文字で記されていた。
「……心停止?」
頭の奥で叫ぶ。
俺の心臓は確かに動いている。
なのに、データは俺を“死者”として扱っている。
「これで確定だな。データ確認済み」
「よし、作業に入るか」
一人がそう言うと、もう一人は無造作に黒いシートをさらに広げた。
プラスチック特有のきしむ音が耳に痛い。
俺のベッド脇に膝をつき、俺の手首を持ち上げる。
冷たいゴム手袋の感触が皮膚に触れ、全身が総毛立つ。
だが、彼らは一切の躊躇もなく俺を扱った。
「こいつ、本当に死んでるのか?」
「データがそう言ってる」
「……まだ温かいぞ」
「だから早く処理するんだよ。余計なことは考えるな」
俺の胸の中で、心臓が悲鳴のように打ち続ける。
だが、その音も彼らには届かない。
一人が再びスマホを取り出し、枕元にかざした。
カメラのシャッター音が小さく響く。
「証拠用に撮影。クライアントに送る」
そう呟く声が、機械的で恐ろしく冷たい。
クライアント?
誰が?
俺の家族?
いや、そんなはずはない。
SNS?
行政?
思考がぐちゃぐちゃに渦を巻く。
「最近のスマートホームはすごいよな」
「死亡検知したら自動で通知、発注まで。家族が気づく前に俺たちが来る。」
「便利な時代だ」
便利?
——それは、俺にとって地獄だ。
俺の脳裏に、夕方までの自分の姿がよぎる。
授業を終え、コンビニで弁当を買って帰り、スマホで動画を見ながら食べた。
洗濯機が終わるのをAIが通知してくれた。
何も不便はなかった。
むしろ快適な日常。
だが、その同じシステムが今、俺を「死亡した存在」として扱い、遺体処理業者を呼び寄せている。
俺はベッドに縫い付けられたかのように動けず、ただ目だけで彼らを追う。
一人が銀色の器具を組み立て、もう一人がタブレットを覗き込む。
「クライアント確認済み、作業承認」
「よし、やるか」
二人が俺の身体に手をかけた瞬間、肺の奥が凍りつくような感覚が広がった。
「まだ、生きてる!」
頭の中で絶叫するが、声は出ない。
冷たいゴム手袋が肩と足首を掴み、俺の身体を持ち上げる。
驚くほど簡単に、俺の身体は宙に浮いた。
「軽いな、こいつ」
男が吐き捨てるように言った。
俺の肌に触れる空気は、まるで冬の夜の外気のように冷たい。
冷気と恐怖が混ざり、吐き気が込み上げる。
「シートに置け」
「了解」
バサリと広げられた黒いシートの上に、俺は無造作に下ろされた。
プラスチックの冷たい感触が背中に触れ、全身の神経が焼けるように反応する。
包み込まれる感覚。
逃げ場のない圧迫感。
「処理開始」
無感情な声が部屋に響いた。
スマートホームのAIスピーカーが、突然、機械音声で告げる。
「死亡者確認済み。処理作業を許可。データ送信完了。部屋の消毒は三時十五分に開始します。」
俺の心臓が跳ね上がる。
「やめろ、俺は生きてる!」
だが、金縛りは解けない。
ただただ、冷たいシートに包まれ、俺は“死者”として扱われ始めていた。
AIスピーカーの声が響いた瞬間、部屋の空気はさらに冷たくなった気がした。
「処理作業を許可。データ送信完了。部屋の消毒は三時十五分に開始します。」
その無機質な言葉は、まるで宣告のように俺の耳に焼きついた。
男たちは当然のように頷き合い、作業を進めていく。
一人は俺の両腕をシートに沿わせるように伸ばし、もう一人は黒い紐を取り出して準備を整える。
「こいつ、死後硬直まだ始まってないな」
「だから温かいんだろう。システムの指示通りにやればいい。気にするな。」
俺は必死に動こうとする。
だが指先すら動かせない。
まるで肉体そのものが「死」を前提に固定されているかのようだ。
それでも心臓は鳴り続け、息も荒い。
——生きてる! 生きてるんだ!
そのとき、ピピッと甲高い電子音が腕から響いた。
俺のスマートウォッチだった。
視界の端で、その小さな画面に赤い警告が浮かぶ。
《心拍停止》
嘘だ。
鼓動は今も鳴っている。
なのに画面は俺の生を否定し、機械的に「死亡」と判定している。
「確認したか?」
「おう。心拍停止の通知、システムに同期された」
「よし、確定だ」
二人の男は、まるで取引の伝票にチェックを入れるかのように淡々と頷いた。
その光景に、胃の奥が冷たく捩じれる。
——なぜだ。
誰が、何のために?
一人の男がバッグを開け、中から折りたたまれた黒い袋と注射器を取り出した。
ジッパーが光を反射して鈍く光る。
俺の身体をそれに収めるつもりだと、直感で理解した。
「防腐剤はこんぐらいでいいか。」
「袋に入れる前に、シートで固定するぞ」
「了解」
俺の肩と足が、無造作に持ち上げられる。
冷たいビニールが肌に密着し、擦れるたびに吐き気がこみ上げる。
ゴム手袋の感触、消毒液の匂い、機械音声の残響。
すべてが現実を否応なく突きつけてくる。
「こいつ、やけに顔が苦しそうだな」
片方の男が呟く。
「生前の表情が残ってるんだろう。珍しくもねえよ。」
生前。
その言葉が胸に突き刺さる。
俺はまだ生きているのに。
「……それにしても、こういう仕事、昔ならもっと感情移入してたかもな。」
「今は違う。データが死と言ってる。だから死んでる。人間の感覚なんざ関係ない。」
淡々と交わされる言葉に、背筋が凍る。
テクノロジーが下した「死亡判定」こそが真実であり、肉体の鼓動など無視される。
そこに人間の意思は介在しない。
男の一人が俺の顔に手を伸ばし、まぶたを閉じようとした。
だが途中で手を止め、首を横に振る。
「閉じなくていいか。どうせ袋に入れる」
「そうだな」
無造作な一言が、俺の心を切り裂いた。
人としての尊厳など、ここには存在しない。
二人は黒い袋を床に広げ、ジッパーを全開にした。
俺はプラスチックのシートごと、ゆっくりとその袋の中に滑り込まされていく。
袋の内側から漂う匂いは、人工的で、息を詰まらせるような重苦しさを持っていた。
入った瞬間、まるで棺桶に押し込められたような圧迫感が全身を覆う。
そのとき、AIスピーカーが再び無機質に告げた。
「処理作業、進行中。三時十五分、部屋の清掃開始。」
冷たい言葉が、耳の奥に突き刺さる。
まるで俺の存在を完全に否定するように。
暗闇に閉ざされる直前、俺は心の中で絶叫した。
——やめろ、俺は死んでない!
だが、袋のジッパーが閉じられていく音は、そんな叫びをあざ笑うように冷酷に響いた。
深夜の処理者 わんし @wansi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます