第2話 犬と一緒

「噂はかねがねキミよく生きてたよね〜! 幽体離脱した? 三途の川は見たか?」

「残念ながら何にも覚えてないっす」

「そうかそうか〜! ま、後輩の葬式とか気不味いばかりだし良かったよ!」

「不謹慎な先輩だぁ」

この埃っぽい理科室の黒板前で扇子をバッサバサ扇いでいる先輩は歴史研究クラブの部長だった。実際には歴史研究とは名ばかりで、やりたい研究や好きに調べられる時間を確保したいと設立されたらしい。そしてそれを有言実行した偉大な人が眼前の先輩だ。古き良き扇子にも目を惹くが、肩まである長髪は毛先が外へ跳ねてザンザッパラ。縁が細くも丸眼鏡はどこかひょうきんな口調と合っていて、どこをどう写真に切り撮っても非常にキャラ立ちしている。今まで影も形も無かった部活を高校一年生の入学した直後に建てただけあった。独特のオーラに圧倒されて思わず両腕を膝の上から机へ伸ばす。俺は人生で初めて会うタイプの人種に対して、ただただ静かに面食らっていた。

「でもまさか、ソフトボール部からこっちに移籍する人がいるのは初めてで驚いたよ」

部長……時田(トキタ)先輩は扇子を手のひらに打つ。大袈裟に目を丸くした質問に俺は素直に頷いた。とても深く。

「何人いても刺激は足らないからさ、いくらでも居てくれ。あ、ただ人の研究の邪魔だけはしないように! これ部内唯一のルール!」

「うっす」

そうして伝えるべき事は終えた時田先輩は、キビキビと手元のノートパソコンを開いて電子の海へ潜った。忙しない、よく喋るなぁ、が俺の中で第二印象に定まった。早速手持ち無沙汰になってしまった俺は、振り返ってなんとなしに室内を見渡す。思っていたより人がいた。こういう自由な部活動は体裁すら瓦解してそうなのに。

視界は空席と人の数が半々でまばらに空間を埋めている光景。それもそのはずで、この学校は部活動が強制。アルバイトも原則禁止。だから堅苦しいクラブ名のココにもしっかり需要があった。入りたい所が無い生徒はここで幽霊部員をするし、勉強や興味欲が尽きない稀有な生徒もここへ自然と流れ着くのだ。

そんな中で俺はこれから、この場所で、この時間に何をしようか。

耳を澄ませる。するとどうしてだか、ほどよい話し声や物音が背筋をピンシャン伸ばす自身を強く浮き彫りにしているみたいで。周りに倣い、肩を窄める。


――脳裏で瞬く、本来ならこの時間にいつも居た前の部活。軍隊染みた部員たちの手足が風を切る音。おっかない先輩の肌で火を焚くチリチリする視線。米神を伝う汗の滴さえ煩わしい。そんな研ぎ澄まされた空気と一体化するのが、実はそんなに嫌いじゃ無い。嫌いじゃなかったはずだった。


「流石に球技は止められたのかい?」

ガタリ。俺の椅子を引く音が嫌に響いた。

現実へ引き戻した声の主はそう口を開けど、依然としてパソコンを叩き続けている。その距離感に自ずと胸を撫で下ろす。

「あ、っす。最初はいけたんすけど、飛んでくるボールに全然動けなくて先輩に摘み出されました」

つい先日のことだ。外で動くには最適な日だった。広く薄い雲が眩い青空を和らげてくれていたが、ペアの右腕からボールが放たれる瞬間と雲の切れ間から太陽光が己の眼球を指す瞬間が重なり……己にとって酷く苦い記憶。

「今の視力は? ちなみにボクは裸眼で〇、四だ」

「同じぐらいかもっと……〇、二?」

「うわ犬と一緒っ⁉︎ 早く眼鏡かコンタクト作りなっ!」

俺は犬と同列か。シッシと手の甲を嫌そうに振られ、反対で握った拳が机を強く叩く。

「大体さ、犬を助けて犬と同じ視力まで落ちるとかベッタベタ手垢まみれの話で最悪だよ、法廷ものだよ!」

「時田先輩、もしかして犬嫌いで?」

「オブラートに包むとしたら犬毛が宙に舞うだけで腹立たしくなる、とだけ」

神経質そうに眼鏡をかちゃかちゃ動かす先輩は犬の事が地獄の底から嫌いのようだった。大袈裟と言う人は実際に目の前の表情を見てみてほしい。不味いと噂されるマーマイトとベジマイトを匙で口にめいいっぱい突っ込まれたかのような苦悶で刻む眉間のシワ。これはうちのビスコには間違っても会わせられないなぁと自分のズボンについていると思う犬毛をさりげなく払う。

「というか先輩、事故の経緯まで知ってたんすね」

「ちょうどオカルトにハマってたからさ。派手に事故したらしい君の取材を色んな人にしたの」

「ん?」

二、三手先飛ばした癖ある返事に首をひねる。すぐに最初の挨拶へ合点がいった。

「……あ、幽体離脱?」

「そそ、今まさに時の人がボクのクラブに入ってくれて嬉しいさねぇ」

「マジで不謹慎な先輩だぁ」

マジかぁ、喋ったことない後輩にもマジかぁ。思いっきり椅子を引いて先輩から距離をとる。心情とまるまる重なった動きだ。そうやって露骨に反応する俺にも気に留めない時田先輩は「その経緯で取材の面白さに目覚めてオカルトに興味薄くなったけどね」とあっけからんとした様子。いやこの先輩の場合、尽く他人について淡白なのかもしれない。拍子抜けするぐらい悪気がない。ここで先輩は俺への興味も薄めたのか突然にパソコンへ集中し始める。またもや俺の居場所は浮いた。

誰かに声を掛けようにも、輪郭を捉えようが表情がはっきり見えない体験が初めてで腰が引けてしまう。理科室は実験する部屋なだけあってテーブルの間隔が広いのを痛感する。忙しなく見渡していると、なびくカーテンの隙間から漏れた斜陽が眼球を刺してくるから何度も目を擦った。


「そうだ福森くん、そろそろそこの準備室に隠れた方がいいよ」

脈絡なく静寂を切ったのは、やはり時田先輩だった。

画面から目を離さずちょいちょいと斜め後ろを指差す先には『理科準備室』の扉。この人は一言話すごとに異国へ来た心地にさせてくるな。少しずつ彼への苦手意識が鎌首をもたげ始めるが、先輩という立場にそう言われたら仕方ない。俺は大人しく席を立って理科準備室へ身を潜めた。先ほどよりも埃っぽい空気に眉を顰めつつ、扉の内側に背中を当ててしゃがむ。それから何分ぐらい経ったか。体感で五分数えたほどで、嫌ってほど耳に馴染んだ声が鼓膜を揺らした。

「おい将吾(ショウゴ)、お前のとこに入った福森って後輩は今どこにいる?」

今だけは会いたくない。せめてもう少し肝が据わってから。そう昨日から願ってやまない人の声が扉越しに聞こえてきて思わず声無き悲鳴をあげた。その人は時田将吾先輩とつつがなく会話を繰り広げる。


「なんだいなんだい部活中に不躾に。肇(ハジメ)の顔がおっかないから逃げたんじゃない?」

椅子の鉄足が軋む音。

「アホか。会ったらこれ渡しとけ」

ペラり紙が翻る音。

「ヘイヘーイ、相変わらず人使いが荒いよ幼馴染くんは〜」

ノートパソコンを閉じる軽い音と、引き戸が開閉する時の車輪の重い音。


――視認できない背後の出来事に対して耳だけが情報を拾える状態に、過集中になる感覚。何気ない物音が粒立って聞こえる。何も理解してなかったちょっと前と比べて何倍も時間が進むのが遅かった気がした。

「もう出てきていいよ〜」

時田先輩のゆるい声かけにドッと疲労感が全身に押し寄せた。部活で運動した後を遥かに越える草臥れた感じ。萎びたキノコの如く理科準備室を出て元の位置に戻ると、目をまんまるにした先輩が両肘を付いて二言。

「福森くん飼い犬みたいに従順でビックリ。先輩なんてたかが一個上の自分より年増の人間だと思っていいんだよ?」

「時田先輩はもっと説明してほしいっす」

「ははは」

ダメなようだ。全方位に喧嘩売る時だけ饒舌な先輩だった。無言で反抗するようグレた据える目で射抜くと、流石に俺の琴線に触れたことに気がついた。両腕が海外かぶれな動作で上がる。

「まぁまぁ、キミの噂は取材で知ってるって言っただろ?」

「部活の人間関係まで知ってるとは予想できないっすよ」

「世間ってもんのすごく狭いよね! 幼馴染と噂の片割れと喋れて光栄だ!」

何を言っても暖簾に腕押し。糠に釘。そんな人に次はなんて返事をするか悩むうち、チャイムが学校中に響いた。いつの間にか物珍しげに見守られていた背後の視線達が散っていく。もう今日は俺も帰ろうと踵を返したら、「あ、そうだ」とまた呼び止められる。今度はなんなんだと振り返ると眼前スレスレに二枚の紙。『休部届』と『転部届』の印刷文字が蛍光灯で透けて見えて、その奥に満面の笑みの時田先輩が。


「気不味いのも逃げたいのも察するけどさ、提出物はしっかりね!」

そんな現存するオカルトよりもどこかオカルティックな人に、俺はとりあえず感謝を伝えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の盾の掛け方 硝子野もり @glass_forest

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ