ケンゾウの画布

をはち

ケンゾウの画布

真崎ケンゾウは美大生だった。


芸術の道に身を捧げる若者で、その才能はすでに一部の教授や同僚の間で囁かれていた。


だが、彼の芸術は常人の理解を超えていた。


それは、女性の小麦色に焼けた肌をキャンバスに見立て、


その下に隠された純白の膚に、まるで生きているかのような顔を描き出すというものだった。


ケンゾウの手は、小刀を握るとまるで別の生き物のように動いた。


焼けた表皮を一枚、まるで薄紙を剥がすように、慎重に、かつ愛おしげに剥ぎ取る。


その下から現れる、柔らかく白い肌は、彼にとって神聖な画布だった。


そこに彼は、女性そのものの顔を、魂を宿したかのような精緻さで描き上げた。


モデルとなった女性たちは、ケンゾウの指先が肌を這う感触に震えながらも、


彼の狂気じみた情熱に魅了され、背中を差し出した。


ある夏の夕暮れ、ケンゾウはいつものようにアトリエの薄暗い部屋で作業をしていた。


選ばれた女性は、静かに横たわり、緊張と期待に身を委ねていた。


小刀の刃が彼女の背中に触れた瞬間、いつもなら滑らかに剥がれるはずの皮膚が、わずかに抵抗した。


ケンゾウは力を込めた。


すると、刃が予想以上に深く沈み込んだ。


「いたい!」


女性の鋭い叫び声が、静寂を切り裂いた。


ケンゾウは一瞬、凍りついた。


だが、すぐに彼の視線は、切り口から滲み出す赤い血に釘付けになった。


その赤は、夕陽の光を受けて妖しく輝き、まるで生きているかのように脈打っていた。


彼の心臓が早鐘を打ち、胸の奥で何かが目覚めた。


血の色、その流れる様は、彼がこれまで追い求めた美の極致を超えるものだった。


それ以来、ケンゾウの小刀は、ただ表皮を剥ぐだけでは満足しなくなった。


刃は深く、もっと深く、肉の奥へと潜り込みたがった。


彼は、肌の裏側に隠された何か――


それが見たい、触れたいと願うようになった。


その衝動は、彼の芸術を狂気へと変貌させた。


ケンゾウの異変に気づいたのだろうか。


かつて彼の周りに群がっていた女性たちは、一人、また一人と姿を消していった。


アトリエは静かになり、ケンゾウの心は孤独の淵へと沈んだ。


だが、彼は諦めなかった。


言葉巧みに新たな女性を誘い出し、彼女たちの背中に刃を当てた。


そして、剥ぎ取った皮膚を、まるで戦利品のように集め始めた。


ケンゾウの部屋は、やがて異様な光景へと変わった。


壁一面に、剥ぎ取られた女性の皮膚が丁寧に張り巡らされていた。


丁寧に張り巡らされたそれらは、彼の手で描かれた顔とともに、まるで生きているかのように息づいていた。


微笑む顔、怯える顔、絶望に歪む顔。


ケンゾウは、その部屋に身を置くたびに、女性たちに抱擁されているような錯覚に浸った。


冷たく柔らかな皮膚に囲まれ、彼の心はついに静寂を取り戻した。


彼はその光景に満足し、芸術の極致をそこに見ていた。


だが、ある夜、ケンゾウは異変に気づいた。


壁の一角に張られた皮膚が、微かに縮こまり、乾いた紙のようにカサカサと音を立てていた。


水分を失い、干からび始めていたのだ。


彼の心は一瞬で掻き乱された。


完璧なキャンバスが、しわくちゃに崩れていく。


それは彼の芸術に対する冒涜だった。


ケンゾウは慌てて霧吹きを取り出し、乾いた皮膚に水をかけた。


細かな水滴が表面を濡らし、一時的にその滑らかさを取り戻した。


彼は安堵の息をついた。


しかし、翌日には別の皮膚が干からび始め、日に日にその数は増えていった。


霧吹きで水をかけるたび、ケンゾウの焦りは募った。


しわだらけの皮膚は、彼の理想を嘲笑うかのように、部屋全体を侵食していった。


どれだけ水をかけたとしても、乾燥は止まらなかった。


彼の芸術は、時間とともに朽ちていく運命だったのだ。


ケンゾウの心は、再び孤独の淵へと沈んだ。


彼は、干からびた皮膚を手に取り、じっと見つめた。


その瞬間、狂気じみた衝動が彼を支配した。


この皮膚を、失われた美を取り戻すために、己の内に取り込みたい――。


彼は震える手で、乾いた皮膚を口に押し込み始めた。


一枚、また一枚。カサカサと喉を擦る感触に、彼は目を閉じ、恍惚とした。


だが、皮膚は次々と彼の口を埋め尽くし、息を奪った。


ケンゾウはもがき、咳き込んだが、止めることはできなかった。


芸術への執着が、彼を飲み込んでいた。


翌朝、アトリエを訪れた友人が見たものは、冷たくなったケンゾウの姿だった。


部屋の中央で、彼は口いっぱいに干からびた皮膚を詰め込み、息絶えていた。


目を見開き、狂気に彩られたその顔は、彼自身が最後のキャンバスとなったことを物語っていた。


壁の皮膚たちは、静かに彼を見下ろし、まるで彼の終焉を祝福するかのように、かすかに揺れていた。

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