裏面の光

るろ

裏面の光


 朝、コインを弾いた。


 跳ね上がる鈍い金属音を聞き、ゆっくりと目を閉じる。

 表ならジェームス、裏ならジェイミー。

 指先を離れた銀色の小さな月が宙を舞い、掌の上で静かに裏を向いた。


 今日は、彼女として街を歩く。


 通りには早い風が吹いていた。

 オープンカフェの軒先で吊り鉢が揺れ、陽射しの粒が石畳にこぼれている。どこかのスピーカーから、古いジャズが滲むように流れていた。

 白いドレスの裾を指で整え、鏡の中の自分に小さく言う。


「大丈夫」


 恋人に会う。

「大切な話があるんだ」

 短いその一文を、ジェイミーは何度も読み返した。文字の隙間に、まだ見ぬ未来を探すように。


 カフェに着くと、慌てた店員が手を滑らせた。

 コーヒーの香りと熱が、胸もとへ静かに広がる。店内の空気が一瞬、凍りついた。


「大丈夫。あなたの方が驚いたでしょう?」


 ジェイミーの声は柔らかく、張り詰めた空気はほどけていった。

 近くのブティックの店主が「着替えがあるわ」と声をかけ、通りの花屋の老夫婦がリボンのついた帽子を差し出す。居合わせた楽器ケースを背負う青年が、細いブレスレットをそっと腕に巻いた。


 いつの間にか、通りのあちこちから「ジェイミー!」とも「ジェームス!」とも声がかかる。


 街で獣医を営む彼女に、かつて救われた人たちだった。

 怪我をした犬、迷子の猫、そして少しだけ心を失くした誰か。


 ジェイミーのまわりに、優しさが重なっていく。

 色も形も揃わない服や飾り。それらはすべて、彼女のために選ばれたものだった。その不揃いな重なりが、彼女を誰よりも確かな姿にしていた。


 夕方、空はミルクティーのように淡く薄まる。

 待ち合わせのテラス席に、彼が現れた。

 手に花束も、指輪の箱もない。ただ、重たい沈黙だけがあった。


「ごめん。……新しい人ができたんだ」


 その言葉は、ジェイミーの中に静かに沈んでいく。

 波紋も立てず、心の底へ落ちていった。


「そう。……きっと、いい人ね」


 声はわずかに震えていたが、表情は穏やかだった。


 風が吹き、帽子のリボンが揺れる。

 ポケットの中で、コインがかすかに鳴った。今日、彼女が選んだ運命の音。


 夜。

 部屋に戻り、服を脱ぐと、もらった衣服やアクセサリーがベッドの上に並ぶ。小さな灯りのように。


 街の人たちの優しさが、まだそこに息づいている。


 ベッドになだれ込むと、涙がこぼれた。

 けれど、それは悲しみだけではなかった。


 世界は、やさしい人たちでできている。


 そう思うと、少しだけ眠れそうだった。

 ここにいることを、確かに感じながら。


 枕元にコインを置く。

 明日、また弾こう。

 表が出たらジェームスとして。

 裏が出たら、もう一度ジェイミーとして。


 どちらの顔でも、この街は迎えてくれる。


 ――裏面の光。

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