創作の幸福論【過度消化版】

加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】

幸せは無限の広がり

 しあわせをワクかこうのはいかがなものか。


 ああである、こうである、のがしあわせであると、固定こてい概念ガイネン——ここでそれは誤用ごようではなく個人的こじんてき造語ぞうごとして誤認識ごにんしきいただきたい——としてはならない。


 しあわせとはもっと、くう水平線すいへいせん地平線ちへいせん、ひいては電子雲でんしうん——球形きゅうけい放射ほうしゃする玉煙たまけむり——のような、とらえどころのないひろがりのようなものであり、そのひろがりをひろがるがままにれるのがよい。


 しあわせというのは、いちいち細分化さいぶんか定量化ていりょうか言語化げんごかして、たったの二本腕にほんうででせっせとひろあつめるには、あまりに偉大いだいすぎる存在そんざいである。


 ぜんたる世界せかいたる自分じぶん同一化どういつかするようにして、ありのままのおおいなるしあわせにかす。


 境界線きょうかいせんだとか、輪郭りんかくというものは、もったいなくも本能的ほんのうてき直観的ちょっかんてき五感ごかん(ひいては六感ろっかん軽視けいしかぎりをくした人間にんげんが、おの俗物的ぞくぶつてき理知的りちてき認知にんち限界げんかい世界せかい限界げんかいめつけて、ある事物じぶつたいしそういうものだと設定せっていしたにぎない創造的そうぞうてき虚構きょこうなのであり、本来ほんらい、ない。


 ここでひとつ、自画自賛じがじさん頓知エスプリをば。


 しあわせに、マルをつけてしまうと、とらわれ、に帰着きちゃくする。



   ———執着しゅうちゃく.。⚪︎◉⚫️



 その物理的ぶつりてきには掌握しょうあくできない、かたにぎったこぶし過大かだいなる間隙かんげきからはあふれてしまうもの、それが、しあわせである。


 無理むりつかもうとしてもどうせつかみきれないのだから、しあわせのひろがりにまかせ、びればよいし、ひたればよい、それでしあわせなのである。


 たと存在そんざい空間くうかんおなじくする——いっしょにいる——だけでしあわせ、なんて表現ひょうげんがある。それの意味いみするところは、あいというものにつねかならずしも肉体的にくたいてき接触せっしょくるわけではない、とえようが、しあわせもこれとおな構造こうぞうをとる。


 しあわせはすぐそこにある。


 そうかんじないのなら、しあわせをていない、あるいはようとしていないだけである。


 つまり、謬見びゅうけん狭窄きょうさく怠惰たいだである。


 ある富豪ふごう——つぶらかこわれたきんピカの貨幣かへい長方ちょうほうかこわれた権威けんい肖像しょうぞう紙幣しへい不必要ふひつよう程度ていどたくわえるもの——が、社会的しゃかいてき成功せいこうてに、都市とし喧騒けんそうまぬかれたみなみての島嶼とうしょでの平穏へいおん日々ひびというしあわせに辿たどいたりする。


 それもいいだろう。


 だがしかし、そのしまむかしながらにものたちは、その富豪ふごう紆余曲折うよきょくせつ——その道程ドーテーにはその道程ドーテーなりのさがあるのであり否定ひていはしない——を一切合切いっさいがっさいきにして、そのしまらしを、まれたときからずっと享受きょうじゅしているのである。


 ワク輪郭りんかくまる、それらにとらわれすぎると、おもわぬ遠回とおまわりをすることになる。


 それもまた、一興いっきょうではあるが。


 最後さいごひとくわえるならば、現代人げんだいじんにとってのいちばん最初さいしょ断捨離だんしゃり対象たいしょうは、無意識むいしき汚物的おぶつてきれる見栄プライドである。


 しかしながらほこりは、つ。


 ちなみにはだか王様おうさまのおものは、ひとえ綿埃わたぼこりである。


   (((〈〈《幸》〉〉)))

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