最終話『取り戻したもの』

 一面に森が広がっていた。茶色の柱のように見えていた木の幹の上に、青々と茂った葉が乗っていた。見渡す限り完全となった木々たち。枯葉の上にいたと思っていた早瀬の眼の下には下生えの草まで認識できた。そこは紛れもなく森の中。命の芽吹くその場所を早瀬は二年ぶりに眼にした。


 暗闇に光が差すかのように圧倒的な存在感を与えてくれる緑。長い長い夜を抜けて光を得たような鮮やかさがそこにはあった。一本の木に目を留めて、下から上へ視線を上げて行く。ずっとずっと上を見上げれば、黒だった世界の天井を緑に塗り替えられていた。さすがに緑の合間から覗くのは青い空ではなく黒い空だったが、早瀬はただただ圧倒されていた。


 だからこそ、初めは何も思い至らなかった。自分が緑色を認識することがどういうことを意味するのか。そのことに達したとき、早瀬は愕然として崩れ落ちた。

 草花は緑色鬼。それを狩ることで緑色が戻ると惺流塞は言っていた。つまり、緑色が見えるということは、草花が狩られてしまったと言うこと。そして、早瀬が守り通すことが出来なかったと言うことだった。


 自ら立っていることを放棄した早瀬を、『幻雲』が静かに地面に座らせた。

 拘束が解かれ、自由の身になっても、早瀬は動こうとはしなかった。

 早瀬は葛藤していた。自らの中に湧き上がる暗い何かを押し込めるために。溢れ出した緑によって押し込められた黒い何かが、世界を取り戻そうとでもするかのように膨れ上がった。


 これは若が悪いわけではない。自分の弱さが招いた事態だ。若は私のためにしたことなのだ。それを止めることが出来なかったのは自分が悪い。若を責めるのは筋違いだ。若なら思い止まってくれると思っていた私が悪いのだ。甘えていた私が悪いのだ。若は何も悪くない。若は若の考えがあって、これが最善だと思ったことを貫き通したのだ。これは意志の問題だ。私より若の方が強かった。ただそれだけのことなのだ。


 早瀬は一生懸命言い聞かせていた。甘いと言われようが馬鹿だと罵られようが、早瀬は惺流塞を憎みたくなかった。怨みたくはなかった。だからこそ、言い聞かせていた。だが、


「大丈夫か? 李朴」


 至近距離から発せられた惺流塞の声に、弾かれたように顔を上げて早瀬は叫んでいた。


「何故、草花さんを狩ってしまったのですか!」


 反射的に手を伸ばせば、惺流塞の着物に手が掛かった。すがりつくようにして続ける。


「あの人は人に危害を加えるような人ではありません! むしろ、お金を払って薬を買えないような人たちのために薬草を煎じてやっていたのです! 彼女がいなくなってしまえば、皆が困ります! 彼女は良いことをしていたのです! それを!」


 その先が言葉にならず早瀬は縋りついたまま俯いた。その頭に、惺流塞の何かを堪えるような声が降り注いだ。


「お前は、あの緑色鬼を……好いていたのか?」


 答えは直ぐには返って来なかった。暫しの沈黙。やがて早瀬は答えた。


「私には、判りません。私に判っていることは、草花さんも若と同じぐらいに大切にしたいと思っていた人だったということです。彼女を守ることで、貧しい人たちまでも助けられると思っていました。でも、私はできませんでした」

「俺を……怨んでいるか?」

「自分を怨んでいます」


 即答だった。


「私は自分の不甲斐なさを怨みます」

「だったら、俺のことを憎んではいないか?」


 言いたいことは山ほどあるが、何も問わずに問いを続ける。


「憎んでは……いません。いない…はずです」


 さすがに歯切れが悪かった。考えながら、探りながら、それでも李朴は否定を口にした。

 未だかつてない落胆ぶりに、初めてと言ってもいいほどの無防備な李朴の姿に、惺流塞は胸の奥が痛かった。それは苛立ちから来るものなのか、罪悪感から来るものなのか、見たくなかった弱い一面を見させてしまったことに対する後悔から来ているのか、惺流塞には分からなかった。


 だとしても、惺流塞には謝ることが出来なかった。謝るぐらいなら初めからしなければ良かったのだ。李朴が散々やめて欲しいと言っていた。それなのに卑怯な真似をして緑色鬼を狩ったのは誰でもない自分だ。自分は許されるために色鬼を狩っているわけではない。これは自分で決めたことなのだ。だからこそ告げる。


「俺を怨んでも憎んでもいないのなら、俺のもとに来い。

「え?」


 それまでの何かを、怯えを無理矢理押さえ込んだような声とは違い、上からの命令口調。そして、『李朴』ではなく『早瀬』と言う名を呼ばれ、早瀬は驚いて顔を上げた。


「俺は『若』と呼ばれている人間から頼まれた。『李朴』という名の人間の色を取り戻すために力を貸してくれと。だから俺はそれを叶えるための力を集めている。李朴から色を奪ったのは色鬼と呼ばれる妖だ。そいつらを『色紙』として使役することで俺は力を蓄えている」

「……え?」

「俺は一刻も早く『若』と『李朴』の願いを叶えるために一つでも多くの力を集めなければならない。だからこそ、お前の力を借りたいと思う。手伝ってはくれぬか?」


 その誘いに、咄嗟に早瀬は言葉を返すことが出来なかった。

 言われたことをもう一度反芻してみる。


 使? 

 それはつまり……


「草花さんは……」

「緑色鬼の『草花』か? 逢いたいのなら逢わせてやる。『幻雲』戻れ」


 早瀬の問い掛けに、惺流塞が若干面倒臭そうに返すと、再び小珠から巻物を受け取り『隠世』で絵を描き始める。勿論それは今の早瀬には見えてはいないだろう。だが、それでもいい。ここで不貞腐れて、意地になられて逆らわれ、再び自分の目の前から消えてしまわれるより、たとえ卑怯と言われても、草花が無事でいることを見せ、その上で李朴をも手元に置けるのなら出し惜しみはしない。


 光が弾け、草花が現れる。緑色鬼だといわれなければ、どこにでもいるただの女がそこにいた。だが、早瀬にとって関係なかった。


「草花さん!」


 草花が膝を付いて目線を合わせていた。とても優しそうであり、申し訳なさそうな顔が、はっきりと見えていた。


「初めて草花さんの顔を見ました」


 心の底から安心した声。対して、草花は恥ずかしそうに俯いている。

 草花にしても、まさかこうやって再び早瀬に会えるとは思っても見なかった。

 だが、あのとき、惺流塞は約束してくれたのだ。

 自分がこの場所からいなくなっても、自分の代わりに誰か薬を作ってもらえますか? と。それに対して惺流塞は言った。


「知り合いに商人の娘がいる。薬さえ作ればそれを無料で手配してやるよう頼んでやる」


 草花の譲れないものを穴埋めしてくれると言われ、草花は『色紙』になるかどうか悩んだ。そんな草花に惺流塞は続けた。


 色鬼はある一定以上色を食すると、自我が消え、何を仕出かすか分からない存在になる。それを防ぐために食事の量を調整しなければならないが、無意識に色を吸収することもある。そのとき、限界がいつやって来るのか色鬼達には分からない。分かる頃になれば手遅れだ。


そう言われた。そして、普通の人間にも紅葉が認識出来てしまうほど大量の緑を吸収していた草花は、自我を失うのも時間の問題だと忠告され、そんなときに人間が薬を求めて来れば、間違いなく食い殺すだろうと脅された。


 その上で、色紙になればそんなことを気にする必要などなくなると言われたなら、草花は色紙になることを受け入れた。


「これからも一緒にいられるそうですよ」


 恥ずかしそうに小声で告げられた言葉。それを聞いて、早瀬は心の底から惺流塞に対して感謝の気持ちを抱いた。単純だと言われても構わない。この瞬間、胸の奥にあったわだかまりが消え去っていた。やっぱり惺流塞は優しい人間だと思った。そして、信じ切られなかったことを恥じた。


 何だかんだ言ったところで、惺流塞はいつも早瀬のことを考えてくれていた。それを一瞬でも疑ってしまったのだ。


「若……。いえ、惺流塞様。一瞬でもあなたのことを疑ってしまった私でも傍にいろと言って下さいますか?」


 草花の後ろに立っているであろう惺流塞の顔を見て、力強い声で訊ねる。


 現金な奴だ。と惺流塞は思った。


 だが、憎しみや皮肉からそう思ったわけではない。どれだけ頑固に意地を張っても、ささやかな条件一つであっさりと意見を変えてしまう。そこだけ聞けばどれだけいい加減な人間なのだと思われるだろうが、守る者のため、信念を貫くために邪魔になる『何か』を取り外す条件を与えたとき、李朴は生き生きとする。


 これから先、『李朴』は『早瀬』として自分の傍にいるのだと言い聞かせる。色の欠けた早瀬に全ての色が戻ったとき、惺流塞は改めて『李朴』と呼べるのだ。


 李朴を『早瀬』と呼んだ瞬間、惺流塞は自分に誓った。

 何よりも捜し続けていた人間がようやく見付かったのだ。早瀬だけを単純とは言えない。


 自分も十分に単純な人間だと思う。早瀬を取り戻すためだけに、草花を手に入れた。勿論、自分の戦力になるからと言う理由もあるが、直接の理由としてはそちらの方が断然大きい。だからと言って草花に述べたことに嘘偽りは一切ない。嘘を吐いて取り込んだところで、後で知れたとき、早瀬に見限られることは明白だ。怨まれても憎まれても構わないとは思っても、やはり見限られることは耐えられるものではない。


 早瀬は自分のことを慕ってくれているが、それほど立派な人間ではないと言うことは自覚済みだ。汚いこともこれから先やって行くだろう。その度に早瀬とも衝突するかもしれない。だとしても、やはり、取り戻せたことが正直嬉しかったのだ。一つだけ肩の荷が下りたような気がした。だからこそ右手を差し出して告げる。


「初めからそう言っている」


 草花が早瀬の手を取って、惺流塞の手に捕まらせた。

 早瀬が嬉しそうに笑っていた。草花も控えめに笑っていた。傍らにいた小珠も満面の笑みを浮かべていた。そんな中で、自分はどんな顔をしているのだろうとふと思う。


 だが、たとえどんな顔をしていたところで早瀬には見えるものではない。出来ることなら早いうちにきちんと眼を合わせて話したいものだと思った。


「ありがとうございます、惺流塞様。またよろしくお願いします」


 手を引いて立ち上がらせると、早瀬が告げる。対して惺流塞は手を離し、背中を向けて歩き出しながら応えた。


「さっさと帰るぞ。うるさい小娘が下にいる」


 事実、惺流塞・小珠・早瀬の三人が山を下りていると、宮乃が半泣きの状態で駆け寄って来て、今までどこにいたのかと散々詰なじられるハメに陥った。いきなり消えた惺流塞を捜すために人まで雇って山狩りをしていたと言うのだからある意味感心する。


 あまりに興奮状態の宮乃を前に、とりあえず「帰るぞ」と言葉を掛けたなら、言葉の意味が判らないかのようにキョトンとした表情を浮かべ、次に驚きに眼を見張った宮乃は、般若の顔から満面の笑みに表情を変えて、尻尾を振る勢いで付いて来た。


「帰るぞ」と促しただけでこの変化。仕事を一つ頼むと告げればどうなることかと思いつつ、惺流塞は自分の屋敷に早く戻ってゆっくり休みたいと切実に思った。ゆっくり休んだ後は早瀬に描き続けた絵を見てもらわねば。と思う。


 これはまだ始まりであり、本番はこれからだ。分かってはいるが、とりあえずは休みたい。心の底から惺流塞は思った。


 今夜は久しぶりに安心して眠れそうだ。


                                 【おわり】

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『妖幻絵師 惺流塞』 橘紫綺 @tatibana

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