路面電車で昔の街を
春日七草
路面電車で昔の街を
この季節になると、いつも思い出す景色があります。
十一月下旬。立山連峰が白く染まり、白鳥が飛来し、朝の庭には霜が降り、水たまりが凍りはじめる、そんな季節です。
僕の街には路面電車が走っています。僕の家の最寄駅から富山駅まで電車でニ駅。そこから路面電車に乗り、高校のそばの停留場に着くまで、電車に揺られる十五分ほどの時間、窓の外の建物が少しずつまばらになっていき田んぼや畑や木々が増えてくるのを眺めながら、床から伝わってくる振動を感じている時間が、なんとなくせわしなく、それでいてどこか落ち着く感じがして僕は好きでした。
その日は期末試験の一日目でした。僕は少し早起きをして、まだ薄暗い路地を急ぎ足で駅に向かいました。吐く息は白く、ポッケに入れたカイロを恋しく思いながら、マフラーをきつめに巻き直しました。電車を降りて駅を出、路面電車の乗り場に急ぐと、ちょうど、始発と思われる、一台の電車が止まっていました。
――助かった。
僕はホッとして電車に乗りこみました。この時間は本数が少なく、次の電車が来るまでだいぶ待つのです。この寒い中、冬風にさらされ続けるのは、できるだけ避けたいところでした。
それで僕は違和感に気づくのが少し遅れました。椅子に座った瞬間、ギシッという音と同時に、尻にひやりとした硬い感触がありました。あれっと思って椅子を見ると、見慣れぬ暗い緑色の布張りで、ところどころ少し擦り切れています。どこか埃と古い石鹸のような匂いがします。なぜ座るまで気づかなかったのか不思議なほど、古びた見慣れぬ椅子でした。
椅子の下の床はこれまた、木の床です。それも相当に古めかしい、黒光りする木の床です。例えるならば、古いお寺の床のようなといいますか、とにかく、まるで電車の中らしくはない光景でした。乗りこんだ時には確かに、普段のグレー調のリノリウムの床だったはずなのですが。
僕は慌てて顔を上げました。目の前に飛び込んできたのは、見慣れたものよりだいぶたくさん並ぶ吊り革の波でした。年季の入った革のベルトのようなものに丸い輪っかが付いています。
ガタン、と電車が揺れ、吊り革もいっせいに揺れ、外の景色がゆっくり動き出します。振り返って窓から見ると、富山駅が遠ざかっていくのが見えました。それは見慣れたいつもの駅でした。視界の端に見える車体の外装も、いつものクリーム色とグリーンのツートンカラーで――いえ、少しデザインが異なるような気がします。そして、ずいぶんと古く、くすんでいます。
呆然としてる間に、どんどん駅は遠ざかり、見えなくなり、景色は変わっていきます。すすっぽい石炭の匂いが漂ってきて、ふと見ると電車の奥に古めかしいストーブがあります。柵で囲われ、錆色に艶めく長い煙突のついた、茶色くすすけた大きなストーブです。
外に立ち並ぶはずのビルが見えないことに気づき、目をこらしました。薄暗かった街に朝焼けの光がさします。瓦屋根が並ぶのが見え、おやと思った時、僕の前に誰かが立った気配がしました。
「切符を拝見します」
車掌さんでした。僕はあわてて定期を出そうと――したところで、
カチリ。
いつの間にか指先に厚紙の小さな切符が挟まっていました。切れ込みが入っています。車掌さんの手には黒光りする改札鋏が握られていました。
「あ――」
「ありがとうございます」
車掌さんは黒い帽子の下で僕に笑いかけると、後ろの方に歩いて行きました。
……どうなってるんだろう?
僕は手元の切符を見ました。厚紙に「片道乗車券 20銭」とあります。銭という見慣れぬ単語に僕は戸惑い、顔を上げてキョロキョロとあたりを見渡しました。
「次は、電気ビル前。電気ビル前です」
電気ビル前――その駅名にはなじみがあります。しかし、窓の外に見えたビルは、ずいぶんと古めかしい洋風のつくりでした。僕は思わず冷たい窓に顔をくっつけるようにして見つめました。通りには背広姿の人がちらほら、停車場に並ぶのが見えます。
チンチン。車掌が鐘を鳴らしました。ガタン、と電車が大きく揺れて、ゆっくり止まりました。車掌が小さな鉄のレバーをぐっと引きました。すると、重いドアがガタンと開きました。
自動ドアとは縁遠いその一連の所作が、僕にはまるで、別の国の儀式みたいに見えました。
「電気ビル前。お降りの方どうぞ」
その声と一緒に冷たい風が吹き込み、思わず身をすくめます。数人の人が乗ってきました。背広姿の男性が多いですが、軍服のような人もいます。
どうやら僕は、昔の電車――のようなもの、に、乗ってしまったようだ、と、遅ればせながら僕は気づきました。
これはまさか、もしや、映画や漫画の世界で見た、タイムスリップというものなのだろうか?僕は――僕は、いったい、どうすればいいのだろうか?
電車が走り出します。神通川を渡り、次の停留場です。チンチンと鐘の音。ガタンと揺れて、止まる電車。レバーを引く車掌。開く扉、冷たい風。
「お降りの方はどうぞ」
停車場のそばを少年が自転車で走り抜けました。乗る人がいないようだと見ると、車掌はチンチンと鐘を鳴らしました。電車はゆっくりと動き出しました。
窓の外を見ると、瓦屋根に木造の家々が低く連なります。行きかう人はまばらです。薄暗かった空は白んできていて、雪の立山が美しく朝日に照らされておりました。
僕はなすすべもなく、硬い椅子に背をあずけます。ぎしりと椅子がきしみます。
「次は、木町。木町です」
聞き覚えのない駅の名を車掌が呼びます。僕の胸は不安でいっぱいになりました。外を見ると、八百屋や魚屋が通りに面して並んでいるのが見えます。人が店の扉をガタガタと――音は聞こえませんが――開けているのが見えます。作業服を着た人たちが、自転車で、舗装されていない土の道を走っていきます。
チンチン。車掌が鐘を鳴らし、電車が止まります。扉が開くと、詰襟の男子学生、セーラー服の女子学生が数人乗り込んできました。僕は硬い椅子の上で身を縮めます。男子学生は眠そうに、向かいの椅子に座り窓にもたれました。女子学生たちは後ろの方、ストーブの近くの席に座り、何か話しています。
電車が走り出します。
やがて、交差点には市電の線路が交わり、行き交う電車のベルがチンチンと響きあうようになってきました。
電車が止まり、車掌が慣れた手つきでドアを開け、「西町、西町〜!」と声を張ります。
冷たい風とともに、頭に手ぬぐいを巻いた女性たちが、大きな荷物を抱えて電車に乗り込みます。
チンチンという音を合図に電車は走り出し、ガラス越しに、街を行き交う学生や商人らしき人たちの姿が流れていきます。
そこから数駅、しばらく進むと、徐々に四角い建物は見えなくなり、畑と瓦屋根の木の家が替わりばんこに並んで見えてくるようになりました。道には農家の人でしょうか、野菜や果物の入ったかごを肩にかついで歩いている人がいます。
チンチンと鳴る鐘。引かれるレバー。開く扉。冷たい風に乗って、土のにおいが鼻をくすぐります。
電車の中は徐々に人が増えてきました。もんぺのような服装の女性もいます。
「次は――」
僕ははっと我に返りました。僕の降りる停車場の名前が呼ばれた気がしたからです。
木造の家々と田畑の間を通り抜けて、車掌がチンチンと鐘を鳴らしました。電車がゆっくりになり、止まりました。
「お降りの方はどうぞ」
車掌がレバーを引きます。僕はおずおずと席から立ち上がり、出口に向かいました。
「お気をつけて」
車掌がにっこりと微笑みます。
僕はぺこりと頭を下げて、地面に降りました。
チンチン。
鐘の音に顔を上げると、電車が出発するところでした。四角く角ばった、クリーム色と緑色のツートンカラーの、ところどころ錆びて古びた電車は、ゆっくりと朝もやの中に消えていきました。
夢でも見ているような心持ちでぼうっとそれを見送っていた僕が、ふと気づくと、そこはいつもの見慣れた停車場でした。道はコンクリートで舗装され、車が行き交います。建物は瓦屋根の木造ではありませんし、工場や煙突は見えません。
――夢だったんだろうか。
僕はふと、左手に何かを握っていることに気づき、手を開きました。そこには、厚紙の黄ばんだ切符がありました。切れ込みが入っています。「富山市内電車」と印刷されています。「片道乗車券 20銭」。
どうやら、夢ではなかったようです。たしかに僕は、その朝、昔の電車に乗っていたようでした。
見上げると、口から漏れる白い息の向こうに、これだけは車窓の景色と変わらない、朝日に白くきらめく立山連峰がそびえ立っておりました。
あれ以来、朝の路面電車には幾度となく乗りましたが、ついぞ、あの日の――おそらく昭和のはじめ頃の――電車に出会うことはありませんでした。
あの後、路面電車は様々なリニューアルがあり、今はセントラムやサントラムという近未来的な車両も走っています。切符はICカードになり、ワンマン運転になり、車掌が入り口近くに立つことはなくなりました。
僕は来年の春には四十になります。
あの日の切符は大切に机の奥にしまっておいたはずなのですが、高校を卒業して引っ越しをする時にどこかにやってしまったのか、探しても探しても見つかりませんでした。
けれども、毎年この時期になると思い出すのです。息白む冷えた朝。白くそびえる立山連峰を背に走る、角ばったクリーム色と緑色のツートンカラーの、少し錆びた路面電車を。黒光りする木の床、硬い椅子。煤けたストーブの、石炭の香り。車掌の声、切符を切られる感触。そしてあの、地面から伝わる振動を。
路面電車で昔の街を 春日七草 @harutonatsu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます