第17話 お別れ
馬車の車輪が砂利をかすかに鳴らす音が、辺境の砦の静寂をわずかに揺らす。
門のそばで、レオンは静かに立っていた。茶色の短髪が朝の光を受けて淡く輝く。手には小さな石の板——薄く削りだされ、丁寧に彫られた紋様が光を反射している。
「……これは?」
フィニアンは目を大きく見開いた。王都では何度も贈り物を受け取ったことはあった。だが、思いを寄せる相手から、こんな風に心のこもったものを贈り物されるとは思っていなかった。
「帰還の無事を願っての守護石だ」
落ち着いた低い声に、わずかに柔らかさが混ざる。
指先で差し出された石板には、レオン自身の温もりが宿っているようだった。
守護石とは、遠征に出る騎士たちが安全を祈願して手渡す伝統的なものだ。
自身の家族の安全を願う守りの石。
この石には、フィニアンと過ごした砦での一か月、共に笑い、話し、時に言葉にできぬ想いを交わした日々すべてが凝縮されているかのようだった。
フィニアンは両手でそっと受け取り、しばらくその模様を見つめた。小さな石に彫られた模様は、力強い守護の紋様だ。胸が熱くなる。
「こんな……ありがとうございます」
声が震え、頬に熱が上る。
言葉にできない想いが、胸の奥でゆっくりと波打つ。
お礼をしようとして、しかし、返礼の品を持っていないことに、すぐに気づいた。 咄嗟に思いついたのは、髪を結うために巻いていた薄いシルクのリボン。深い紺色の上質なそれをスルリと解いて、少し恥ずかしそうに差し出す。
「お礼を……これで、許していただけますか?」
フィニアンの手はわずかに震えていた。
レオンは一瞬、目を細めて微笑む。受け取ったリボンを指先で触れ、さりげなく胸元にしまうその仕草には、静かな喜びが込められていた。
「……ありがとう。大切にしておく」
「私も、大事にします。レオン隊長、本当に……お世話になりました」
その短い言葉の中に、礼節と信頼、そして互いの距離を確かめるような温かさがあった。
フィニアンは胸の奥で小さな誓いを立てる。
――次にこの砦を訪れるときまで、もっと成長して、隊長に見合う存在でありたい。
――そして、辺境の現状を少しでも改善できるよう、王都で真摯に訴えよう。
馬車がゆっくりと動き出す。
背後で兵士たちの笑い声や手を振る声が遠ざかり、石畳を転がる車輪の音だけが耳に残る。
フィニアンは石板を握りしめ、胸に静かな温もりを感じる。
窓の外の景色を見つめながら、砦で過ごした日々を思い返す——
温かい笑い声、軽口を交わす騎士たち、そして日々の雑務を共にこなした隊長の姿。すべてが、まるで小さな宝物のように心に刻まれていた。
西日に染まる砦を後にしながら、フィニアンはそっと微笑む。
監査官としての職務を全うしたその胸には、ただの務め以上の想い——感謝と切なさ、そして誰かを想う温かさが、静かに、しかし確かに息づいていた。
◆
馬車がゆっくりと動き出す。石畳を転がる車輪の音と、別れを惜しむ兵士たちの声の中で、レオンは門のそばに立ち続けた。
フィニアンの瞳は、ほんの一瞬こちらを見上げ、微かに手を振る。言葉は交わさずとも、心の中で互いの想いが静かに行き交ったのを、レオンは感じていた。
小さな守護石、差し出した手、そして返された笑み——すべてが、無言のまま胸に深く刻まれる。
あの華奢な文官フィニアンの、緊張と覚悟、そしてこの砦に残した思い。彼の一挙一動が、今やレオンの心に柔らかく、しかし確かな温もりとして残っていた。
遠ざかり、やがて見えなくなった馬車。
レオンは一度深く息を吐き、肩の力を引き締める。
――ここで守るべきものがある限り、俺はこの砦を、兵士たちを守り抜く。
その思いは変わらない。
ただ、そこに、フィニアンという存在も加わった。それだけのこと。
風が吹き抜け、残るのは静かな石畳と、わずかに残った温もりだけ。口には出さなかったが、心の奥で、フィニアンに向けた想いが静かに揺れている。
深く背筋を伸ばし、レオンは拳を軽く握りしめた。
互いに言葉にはしなかったが、あの短い視線の交わりに込められた思い——
守りたい、守られたい、信じたい——それは確かに、この胸の奥に息づいている。
「……よし」
小さく呟き、レオンは足を踏みしめる。
砦と仲間を守る自分の役割に、改めて気合を入れる瞬間。
秘めるように交わした想いを胸に、そして遠く王都へと帰るフィニアンへの静かな祈りを抱きながら——
辺境の小さな砦に、ゆっくりと太陽が昇り、兵士たちは動き出す。
だが、その空気の中には、二人の心がそっと交わった、一か月の濃密な時間の余韻が、永遠に静かに残っていた。
堅物な騎士は恋を知らない 星野 千織 @chiory
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