もとにもどれないものたち(BL小説)

丹路槇

朝市

 サボって甘えて動かなくなったら、結果それで得をする、そんな日常がぱったりなくなった。それが僕にとっては、かえってよかったといえるかもしれない。

 例えば、日曜日の朝。二度寝して布団の中に潜っていても、洗濯機が回る音が聞こえてこないし、朝ごはんは米とパンどっちがいいか、と尋ねられることもない。

 ああ、今はひとり暮らしをしているんだな、とふと思い出して、起きだす。体は思うより軽くて、これから家事をすることが苦にならない。

 伸びをひとつ。おはよう。挨拶する相手は、家で飼う五百円玉くらいの小さなミドリガメ。なかなか名前を決められなくて、今はコジマと呼んでいる。

 コジマにカメ用の餌をやり、今日は水槽の掃除をしてやると約束してから、顔を洗いに洗面所へ。ついでに寝間着を脱いで洗濯機へ入れた。家電量販店でドラム式を買うときに、水回りの家電はどんなに長くても保証期間が五年だと店員に教えられた。今までそんなことも知らず、あつらえられたものをただ使うだけの生活をしていた。けれど僕はもう、昔ながらの二層式洗濯機のある日常には戻れないだろう。丁寧な暮らしをするには上手な呼吸法を身につけないといけない。ひたすら怠惰になることしか覚えられなかった僕の神経は弛緩しきっていて、充足とか実りを得る喜びに気づけなかった。

 洗濯が終わるまでに食事を済ませようと居間に戻る。二人掛けのちいさなテーブルに無造作に置いてあるのは、ここ数日の間に郵便受けから取り出したもの。宛名が書いてある封筒やはがきは選り分けて中身を確認していたが、チラシやDMはそのままになっていた。別に、ピザを頼むのも今は電話じゃなくてスマホだし。学習塾も葬儀屋も別のターゲット層に向けたものだろう。A4の大きさになるように広げたり折り目を整えたりして、資源ごみを溜めるラックに落としていく。いちばん下にあった朱色の一色刷りのチラシには、今日の日付が大きく書かれていた。


  朝市 九時~十二時 市役所前 商工会主催


 文字だけのシンプルな宣伝文句のまわりには、小さなフォントで今日の参加店舗の紹介が掲載されている。欄外に白抜きの横書きで「大抽選会」まで謳っていた。いいな、外で朝飯。

 日はもう高く上がっていて、少し移動するだけで暑さに滅入りそうだったけれど、僕は最近日傘をさしてひとり外歩きをするのをわりと気に入っている。

 ドライシャツにジョガーパンツという、ちょっと気張った寝間着ていどの格好に、スリッポンをつっかけて外へ出た。洗濯物は洗濯機の乾燥機能に全権をゆだねてしまうことにする。


 朝市の会場は市役所の広大な駐車場と、目の前の通りを使って行われていた。親子連れ、犬も一緒の家族、子どもだけのグループ、それからお年寄り。市役所の正面スロープの前には特設ステージがあって、フラダンスやフォークギターの演奏が披露されている。立ち並ぶ商店は、夏祭りの出店みたいなしっかりした飲食品、お菓子、酒類のほか、地元のカフェが出店するコーヒースタンドや雑貨屋、ハンドメイドのワークショップまであった。

 チラシによると、朝市は三か月に一度の開催らしく、参加に慣れている地元住民は、ロータリーの中州みたいになっている芝生スペースにレジャーシートを敷き、買い食いピクニックを楽しんでいた。僕も手頃な朝食を買って、チラシでも尻に敷いてどこかで食べさせてもらおう。

 店に行って商品を買うと、スタンプカードにシールを貼って渡された。みっつ集めるとくじ引きが一回引けると書いてある。おお、これが噂の「大抽選会」。ひとり列に並んだまま、思わず顔が綻ぶ。

 焼きそばと牛串とアイスコーヒーを買うのに十五分くらいかかってしまった。シールは二枚集まってあとひとつ。かき氷屋のキッチンカーの目の前は長蛇の列ができて途切れることがない。照りつける太陽の下でじっとしているひとの間をぬって、両手に抱えた戦利品とともに僕は日陰にたどり着いた。風が吹いていてささやかな涼を感じる。日本に春も秋もなくなったと当たり前のように口にするけれど、こんな暑い年だって、八月と九月の匂いはほんの少しちがうと僕は思う。

 キャベツの芯が豪快に刻んで入れられた五百円の焼きそばはとても元気な味がした。牛串、噛むと脂身の弾力が気持ちよくて美味しい。プラカップに玉の汗をかいているアイスコーヒーは、赤茶に透けていてすっきりとした口あたりだった。ひとに世話をされないで、適度に適当な休日の朝を送っている。額の汗を拭う。ぜんぜん、不幸なんかじゃないんだ。今までとても恵まれていたし、ここへ来るまでの選択も間違っていなかった。これは僕のなかにある、ひとつの回答だ。


 同性の恋人と三年間、都内の綺麗なマンションで同棲していた。相手は年上で、生活も安定していて、ひとの世話をして尽くすのを生きる喜びにしていた。僕は彼のなんでもかんでも世話を焼き物事を完結させてしまう日常のなかで、あっという間にスポイルされていった。それを幸せだと錯覚することもあった。仕事をやめてただ寝ていただけの時期もある。何も生産しない僕に、彼はベランダで育てた野菜を嬉々として食べさせた。夏は暑いのに、彼は毎日窓の外へ出てプランターの世話をしていたな。とにかくじぶん以外のすべての生き物に構うのが好きな男だった。

 ところが不思議なことに、ある日とつぜん目覚ましもないのに早起きする日が訪れる。朝食を摂り、身支度をして出かけ、やがてまた仕事を始めた。彼は僕の再就職を喜んだけれど、あまり忙しいようなら無理して続けることはないとも言っていた。

 僕の新しい職場は食品のパッケージや紙袋のデザインをする会社だった。小さい事務所に七人だけの従業員、毎日同じオフィス通い。残業が続くと、彼はしばしば事務所の卓電に電話をかてくけるようになった。

 ある日、仕事の帰りに同僚と駅前のショッピングモールへ寄り道した。テナントの中に大型のペットショップがあって、なんとなく目が合ったミドリガメを買って帰った。昔の夜店で買う値段より、ずっと高かったと思う。水槽に砂利に流木まで買って帰ったから、その日だけで一万円近く使ったのかも。

 十時過ぎに帰った僕からその様子を聞いた途端、彼は発狂した。来るな、近寄るな、話すなと大声で騒がれ、僕とカメは寝室に閉じ込められた。

 それでも僕は、行き詰まって苛立ったり、窮屈で息苦しいみたいなことは思わなかった。こういう風に両者の距離と関係というのは常に変化していくものなのだろう、あっさりと受け止めていた。

 出ていってください、と懇願されてから、荷物をまとめるまで三日ほどだった。新しいひとり暮らしの賃貸物件は驚くほどスムーズに見つかった。コジマは新居で命名された。僕が不動産屋で契約するのと、家具と家電を買い揃えるのを、元恋人の彼はとうていひとりでできないと思っていたのかもしれないけれど、やってみればなんの苦もなかった。

 優しくしてもらえてありがたかった。幸せな日々だった。いちどだってセックスに不満を覚えたことはない。彼の笑顔が好きだった。

 僕らはそんなふうに、あっという間に別れた。怒ったり恨んだりしない代わりに、悲しんだり惜しんだりもできなかった。例えば、今食べている焼きそばの辛いくらい濃いソースの味は、彼は「洗って食べたい」と顔を顰めるくらい苦手だろうなぁ、とか。そういう思い出を与えてもらってありがたかったなぁ、とか。今でもその記憶をただ穏やかに振り返れる存在として残っている。

 もしも、そういうはなればなれの時期を経て、それでもふたりが互いに惹かれることがあれば。今まで気づかなかった愛に目覚めたら。しかし僕はそれを美しいと思う価値観を持たない。彼に限らず、たいていのことはいつも、必要があって今の結果があると思っている。よりを戻すことは絶対にないだろう。今、木陰の芝生でジャンキーな味付けの焼きそばを口いっぱいに頬張って食べられるくらい、僕は今日も他の過ぎた日と同じように楽しんでいる。

 座るところを探している親子の姿が見えたので、手早く食事を終えて場所を譲った。アイスコーヒーもぬるくなる前に飲み終えてしまった。

「さ、あとひとつシールもらうか」

 吐く息にひとりごとを混ぜて、またテントとキッチンカーが並ぶところに向かっていく。

 暑さに負けてビールでも飲もうかと思ったが、帰ってベッドに戻ったらそれで一日が終わりそうな気がして踏みとどまった。かき氷の長蛇の列に並ぶ元気はない。たこ焼き、美味そうだけど腹八分目を超えて苦しくなるか。鮎の塩焼き、いい匂いがする、ビールが欲しくなるからだめか。うどん、イカ焼き、から揚げ、好きだけれど今はあまりピンとこない。

 開催本部の隣に、他より少し小さいコールマンのテントを張った店があった。ラミネートされた手作りのポップに「わらびもち」と書いてある。

 自然に足が向いて列の最後にぴたりと並んだ。よほどわらび餅を食べたいと思っていたらしい。コンビニで見かけるたびに、立ち止まって迷うくらいだから、昔から好きなんだろう。そんな趣向をじぶんではぜんぜん気づいていなかった。

 店先に並ぶ透明パックに入ったわらび餅は、コンビニのわらび餅がにせものかと思うくらい、粒が大きくて立派だった。和菓子屋が今朝の作りたてを売っているのかと思うとさらに期待が膨らむ。

 少しすると、僕のすぐ前に並んでいる子がケータイで通話を始めた。背の高い少女だが、持っているのはキッズフォンだ。いまどきの小学生はこんなに足が細くて長いのか。現代人と僕らの世代で同じ人種ではないのではと思うぐらい体型が違う。

 女の子は長い髪をポニーテールにしていて、大きな丸レンズの眼鏡をしていた。黒いTシャツにデニムのショートスカート姿の彼女は、冴えないおじさんである僕から見ても、垢抜けたモデルさんみたいな子だなと思う。

 その子が電話口で誰かと真剣にやりとりしていた。手分けして買い物をしているのだろう、「それいらん」とか「買っといて」とか返事をしている。相手は同世代の友だちだろうか。

「こっちもあと少しでわらびちゃん買える」

 その子が何気なく言った言葉にぴくりと反応する。わらびちゃん。いい名前だ。これまでだって普通に美味しそうだったのが、さらに愛おしいものに思える。

 彼女はわらび餅をふたつ買って行った。僕の番になって、店番のマダムに「はいどうぞ」と呼ばれた時、何も考えずに「わらびちゃんひとつ」と言ってしまった。

 店番の女性は目を丸くしたあとすぐに「はい、わらびちゃん待っててね」と笑った。たいていの事はあまり気にせず受け流せるけれど、さすがにこれはかなり恥ずかしい。

 マダムの笑い声に反応して、先に買い物を終えていたキッズフォンの少女がこちらをふりむいた。ああ、いたたまれない。きっと連れの子も彼女の後ろにいて、同じように訝しげな目をこちらに向けているのだろう。

 ばつが悪くなりながらも、僕も何気なく視線をそちらに送ってしまう。スタイルのいい女子小学生のうしろに立っていたのは、意外にも顔見知りだった。

 声には出さない。でもむこうも気づいている。目を大きく見開いて、少女と喋っていた笑顔の表情のまま、固まっている。

 お金を払って袋をうけとり、僕がさっさと踵を返して朝市の雑踏にまぎれ消えてしまおうとするのを、彼は走って追いかけてきた。

「陽ちゃん、陽ちゃん」

 すごい、名前まで呼ばれている。仲は良かったけれど、僕は正直、すぐに当時の呼び名までは出てこなかった。諦めて歩くのをやめる。後ろを確認すると、ひげ面の大男がにこにこしながらすぐ目の前に立っていた。

「なーに、逃げることないだろ。こっちいるの知らなかった」

「越して来たばっかりで」

 もごもごと歯切れ悪く答えると、ああそう、と顎から汗をたらしながら彼はまた笑った。

 小学生も彼にぴったりくっついてきていて、こちらを覗きこむと「知り合い?」と尋ねる。

「そーよ。陽ちゃんはおれの高校の同級生。陽ちゃん、これ娘のアオイ。四年生。……アオは同級生って意味わかる?」

「わかるよ」

「そう。で、あと買うもんは?」

 父親の問いかけに、少女はちょっと首をかしげてから「もういいかも」と返事をした。あちこちで買ったものをこれからどこかで食べるのだと思った。じゃあこれで、とわざと大きめの声で言った。会えてよかった、まではいいか。

 地元に戻ることはしなかったが、通っていた高校の学区である県南のどこかにいれば、こんな感じで旧知と遭遇するのか、と純粋に感心した。素直な驚きで終われば良かったけれど、僕の心臓は後から目を覚ましたみたいにドコドコとおそろしい音を立て始めていた。

 ひどい息苦しさを感じる。日光を浴び続けたせいかもしれないとも思った。人ごみの中ではばかって日傘をさしていなかったからだろう。もう一度木陰に入った方がいい。せっかく恥をかいてでも買ったのだから、〝わらびちゃん〟も食べなくては。

 後ろからまた声をかけられたような気もしたけれど、かまわずにずんずんと市役所の駐車場奥まで移動した。


 軽自動車用の駐車スペースのわきにちょうどいい場所があった。やや頼りない日陰だが、日傘を背負ってしゃがめば問題ないだろう。縁石に腰かけ、尻ポケットに入れたスマホを抜き取ると、カバーに挟みこんでいたくじ引きカードが出てくる。そういえば、さっきのわらび餅の店でシールを貼ってもらうのを頼みそびれてしまった。まだ食べていない商品を持って話に行けば、あの笑顔の素敵なマダムのことだから、はいはいと気前よく貼ってくれそう。

 べつに物欲も義務感もなく、ただせっかく朝市に来たのだからできることを楽しみたかった。奇妙な再会もあったし、くじ引きもほら、うまい棒以外の何かいいものが当たるかも。

 いちど開けたわらび餅のパッケージの蓋を閉じ、親指についたきな粉を舌なめとって立ち上がる。さっきじぶんが並んでいたあたりの場所を探しつつ、またひとが行き来する中に入ろうと傘を折り畳むと、キッチンカーの影からふたたび顔見知りが現れたのだった。

「あー、いたいた」

 ひげ面はひとりだった。娘とはまた別行動だろうか。彼はボディバッグから出した緑茶のペットボトルの中身をごくごくと飲み干すと、口元と回りの汗を手の甲でぬぐった。

「暑さ限界じゃない?」

 僕もたまらず額の汗を服の袖で拭う。

「それは、そう」

 じぶんで参加を決めた手前、悔しいけれど、朝市の滞在予定時間はそろそろ限界を迎えようとしていた。わらび餅より先に体が溶けてしまいそう。

「アオイも帰ったし」

「帰ったの?」

「うん。母親迎えに来ててさ。ふだん、別なの。まあ、平日もちょこちょこ顔は見るから、そこまでバラバラではないんだけど」

「いつから?」

「小三のはじめから。もう一年ちょっと経ってる」

 男は、久々に顔を見せた僕にそうやってあっさりいろいろと話したことを後ろめたく思ったのか、ほら、と促して、行列とひとごみの渦からいちど抜けた。吹き出し続ける汗を持ってきたハンカチで拭い続けるのももはやほとんど意味がないように思えた。だけど、汗を止めることもできないし、ここで倒れるのも正解じゃない。とりあえず水、と僕が指さすと、氷水に浸けたペットボトルを売る商工会の店にふたりで向かった。

 ペットボトルは百五十円、缶ビールは二百円だった。ここで根負けして、僕も彼も一本ずつ飲むことにした。

 プシュッ。景気のいい音、プルタブを倒した隙間を超えて顔まで抜けてくる飛沫。ごくっと喉が鳴る。とりあえず、隣に誰がいるとか、このあと予定があるとか、何も考えずにごくごくと飲んだ。ひと息でほとんど空にして、腹にたまったガスをふっと吐くと、じぶんでも気力が戻ってくるのが分かった。

「くじ、やんなきゃ」

 ふと出た独り言は、ちょっとまぬけな声だった。隣で大男が真面目にうなずいている。

「おれも、陽ちゃんにやってもらおうと思ってた。おまえ昔から、すごいくじ運いいだろ」

 いうほど昔のことなんて、あまり知らないばかりか憶えてだっていないくせに。そんな悪態は、言うだけむだだから死んだって口にしない。この男は、みんなにお調子者だと常に言われ続けていたが、僕が憶えている限りいちばんの誠実な男だし、義理堅いし、誰のことも分け隔てなく愛していた。なのに、周囲を簡単に失望させることができるくらい、ひどく忘れっぽい人間だった。今もそうかは分からないけれど、少なくとも、最後に話した頃くらいまで、ずっと。

 男は伊澤春次といった。僕は宇田川陽二朗、出席番号はとなりだし、ふたりして一発で次男だって分かる名前だと笑い合えば、その時からなんとなく一緒に行動するのが自然なことになった。春次は二年から理系の特進クラスに行って、三年で僕は地方赴任になった両親と離れ、地元に残りひとり暮らしをすることに。そこにやってきた春次は、ほとんど転がりこむようなかっこうで、日々我が家に入り浸るようになる。僕の人生初体験は女性ではなく春次だった。きっと彼もそうだったようなことを言っていた気がするけれど、たんに僕への気遣いだった感も拭えず、真偽は不明。気持ちいいセックスと、あんまりうまくいかなかった交際期間を経て、高校卒業目前、僕らは比較的平和に別れた。

 商店会のくじ引き会場は、かき氷なんてなんでもないと思えるほど、めちゃくちゃな長蛇の列だった。毎回賞品が豪華だから、地元住民は束みたいになったスタンプカードを握って、今日の戦いに臨むらしい。春次が二枚、僕が一枚ではうまい棒三本で終わりだろうと思っていた。

 順番が来て、ガラガラを時計回りに三回まわした。出てきた玉は、白、赤、金。

 そんなわけで、獲得できたうまい棒は一本だった。赤玉の景品は水出しアイスティー用の高そうなガラス瓶。もらえたら嬉しい、あったら使うと僕が言ったので、春次があっさり譲ってくれた。

 金の玉がぽんとトレーに転がり出た時、抽選会場にいるひとたちは、大きな喜びと、先に僕が特賞を出してしまったという落胆でどよめいた。賞品は商店会の加入店で使える商品券三万円分と、ダイソンのハンディクリーナーだった。これはもちろん、伊澤家に。商品券は娘を誘ってレストランで食事をするのに使ったら、と手を差し出すと、春次はどんなことを考えているのかよくわからない表情をしたまま、黙って受け取ってくれた。

「ああ、やりきった。よかった、朝市楽しい」

 広げたエコバッグにガラス瓶の箱を詰める。春次の荷物は取手の紐がついていても徒歩で持ち帰るのはやや大変そうだった。彼は相変わらず顎の先から汗を垂らしながら、やろうと思えば運べるけど、と言って悩んでいる。

 そのあとすぐに商工会長らしき白髪の老人が「配送出る時、ついでに寄って廊下に置いてってやるよ」と春次に声をかけてくれたので、景品は手で運ぶ労力をかけず面倒をみてもらえるようになった。じゃあそのお礼に、と言ってその老人に商品券をまるごと寄越そうとしているのを、抽選会にいたご婦人たちが必死に止めていた。ひとって根っこのところはだいたいはじめに決まっていて、そう簡単に変われるわけはないか。旧知の見慣れた姿に触れると、なぜか少しだけ悲しい気持ちになった。

 もうあんなに大きな小学生の子どもがいたことは驚いたけれど、奥さんと離別していることには妙に納得してしまった。今は遠くに暮らしているのだろうか。次に会う時間は、またすぐに訪れるのだろうか。

「もう飯いいなら、帰るか」

 周囲の出店をきょろきょろしてからそう言うと、春次は僕に家はどのへんなのかと尋ねた。

「……歳、とったんだな」

 それには答えずにしみじみと言った。

「おまえもね。何、急に」

 ふたりで市役所の駐車場を出る。リフォーム会社が配っているうちわを受け取り、顔を仰ぎながら駅に向かう大通りへ歩きだした。

「このあと公園でゲームして帰ろうぜ、とか言わない」

 ぼんやりつぶやいたそれが、春次には面白かったみたいだった。大男は肩を揺すって楽しそうに笑った。

「さすがにこの猛暑は無理。あの頃こんなに暑くなかったろ」

「それ、本当かな」

「本当。今は日本じゅう暑いもんな」

 ふたりで連れ立って帰り道をゆく。こういう時、今まで同棲していた相手は、保育園の引率の先生みたいに歩調を落としてゆっくり移動するのが常だった。どちらかが遅れることがないように、ふたりの時間が長く過ごせるように、どちらかが相手に合わせるという無理をしないように。そうやって齟齬や価値観のズレを無くしていく思考と行動に、その時はただ感心していた。ひとりになってから、男ふたりで道をのろのろ歩いているという様子がちょっと奇妙だったかもしれないと思う。あのひとは新しい恋人ができたら、誰でも合わせられるように調整した歩調で、またのろのろと歩くのだろうか。

 今はまったく自分の好きな速さで歩いているのを、春次も何も言わずについてくる。べつに僕が特別急ぎ足なわけではないから。相手に合わせるのって、もともとはそこまで難しく考えなくてもいいはずだった。そんなことも何も意識していなさそうな余裕のある大股は、僕がどのあたりに向かって歩いているのかとは聞かない。もしかしたら、家まで送ってくれようとしているのだろうか。

 家からいちばん近いセブンイレブンを通り過ぎる。新居を選んだ決め手は間取りと立地だけど、住み始めてからセブンイレブンとモスバーガーと地元の本屋が徒歩五分以内にあることが分かり、密かにじぶんの強運に感謝した。神様、僕の三大大好きを家の周りに集めてくれてありがとう、って。なんだか大袈裟だけど。

「ここ、セブンとモスと本屋近くていいんだよな」

 僕の思考を読んだみたいに、春次も同じタイミングでいった。髭面に本屋とモスって、ちょっとあんまり絵として浮かびやすいものじゃないけれど、彼がもっと頼りない輪郭だった高校生の時、学校の近くのモスでよくおやつを食べていたことを思い出した。

「な」

 同意すると、汗だくの顔をくしゃっとしてみせる。

 かつての青年の姿がふとよみがえって、いい男だったな、なんて思ったりする。だからって、奥さんと別れている今だからどうこうとか、まったく考えられない。彼にだって、もう新しい恋人がいるかもしれないし。そもそも、彼はバイセクシャルでもなく、ヘテロだったのかもしれない。若気の至りで性趣向を歪められた思い出、とか思われている可能性まである。

 それで、春次は本当に僕のマンションの目の前まで来た。意を決してエントランス前の階段で立ち止まる。僕より頭ひとつぶん大きい男は、戸惑っているのか、答えを確認しようとしているのか、こちらを見下ろして目をぱちぱちさせている。

「えっと、ごめん、もしかして送ってくれた?」

「いーや?」

 春次がこちらへずいっと寄る。目が合わないように咄嗟にうつむく。気まずい。止まっていると歩いている時の倍くらい汗が出る。せっかく美味しいものを食べて、ビールで喉を洗った気分だったのに、体はすっかりゆだって、帰ったらもう二度寝が確定しているくらいに怠かった。

「じゃあ、ありがとう。今日偶然だけど……僕ここだから、家」

 すると彼は先にエントランスへ入っていき、インターホンに暗証番号を打ち込み開錠した自動ドアの中に立って、僕が後を追うのを待っている。

「俺もここだから、家」

 え、そうなの? 嘘、なんで今まで遭遇しなかったんだ。偶然ってこんな風に起こるなんて知らなかった。

 たぶんそんな感じの、僕の正直過ぎる表情に、春次はぶっと吹き出した。

「陽ちゃん何階?」

「四階。402」

「じゃあうち真上。502だから。このままうち来る?」

 その時、僕から自動ドアまでの距離は、ほんの二、三歩しかなかった。タイル地の段差にはひっくり返って死んでいるカメムシ一匹しかいない。できればすぐにエントランスから居住者エリアに入っていくべきだし、速やかにエレベーターのボタンを押し、彼に正直な返事をするべきだった。

 ただ、ドアの溝を跨いで立っている旧知の男は、僕が越えられなかった別の世界との境界に易々と足をかけているように見えてしまう。

 ああ、きみはそっち側なんだ。いろいろなことが腑に落ちて、安心した時に額からつうと汗が流れた。そして、きっとあのひとも、そっち側だった。僕はいつもひとりでは何もできない可哀想な人間で、世話好きの優しき心にあぐらをかいて自分の意思を持たず、ミドリガメとの慎ましい同居をするのがやっとできた自立ごっこ遊びなのだ。 伊澤春次やあのひとが、この先生きていく暮らしとはまったく別のところで、何も想像できず、先もぜんぜん見通せない。

 すごくシンプルにまとめると、僕はつまらない人間だった。

「いい、汗かいたし」

 首を振る時、しぜんと笑顔になった。春次も同じように笑った。

「そーね、じゃあまた今度、飯とか酒でも」

「うん」

 ふたりでエレベーターに乗る。4と5がオレンジ色に光る。オフィスビルに入っているエレベーターよりずっとゆっくりで、壁に貼ってある絨毯の分だけ暑苦しかった。男ふたりで乗るようにできていないな、と率直に思った。

 三階を過ぎて、深呼吸した。どうしたって上手に話せないのは分かっていたので、いっしゅん目を閉じて、家で留守番しているコジマの小さな甲羅を思い浮かべる。

「春」

 準備も虚しく、声は硬く尖っていた。男は「はい」とまじめに答え、次の言葉を待っている。

「番号、変わってない」

「だよな。俺も」

 バシンと背中を叩かれる。四階でドアが開く。さいあく、汗で背中にシャツがべっとりと張りついてるのに。しかめ面で振り返ると、春次が唇をぎゅっと結んで立っていた。大きな手が開ボタンから離れる。すぐに左側から二重のドアが伸びてきて、僕たちはこれ以上何も話さなくて良くなった。

 緊張していたのか、春次も。

 中身が空になったエレベーターの前で立ったままでいると、チンと高い音が鳴った。上階では彼が自宅まで通路をまっすぐ歩いているところだろう。

 僕はまるで地底で彼の足跡をたどって進むみたいにして、真下の自宅へ戻った。


〈続〉

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もとにもどれないものたち(BL小説) 丹路槇 @niro_maki

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