銀のリング

あずき

銀のリング

『銀のリング』





 ふとした瞬間に触れた、左手薬指の銀が冷たかった。

 

 

 六月下旬の放課後、廊下にて。目の前に散らばったプリントを、先生と一緒に集めていた。それは現国の課題で、クラスメイトから集めたものだった。窓から生ぬるい風が吹き、プリントが舞う。クラス番号名前が書かれたそれを、先生が逃がすものかと捕まえる。

 プリントを集める手はそのまま、私の心臓はうるさいほどに脈打っていた。

 個人情報の塊を、廊下にぶちまけてしまったから?――申し訳ないが、違う。

 職員室にいる先生へ届けるはずだった課題を、その先生本人に集めさせてしまっているから?――半分正解。

 では、もう半分は何か。それはズバリ――

「はい、どうぞ、宮森さん」 

 澄んでいて、柔らかい声。その声による現国の授業は多くの生徒から子守唄呼ばわりされているが、私は大好きだ。思わず顔を上げると、目の前にはプリントの束を持った先生がいた。

 放課後、廊下にいるのは私と先生の二人だけ。

 管楽器の音色や運動部員の掛け声が遠くで響く。学校には放課後でも、多くの生徒がいる。

 しかし、この東棟二階の廊下に限っては、私と先生の二人きりだ。

 プリントを集める際、お互い屈んでいたから真正面に先生の顔がある。その距離僅か三十センチに満たず。急に耳が熱くなる。

 先生は身長が高い方ではなく、私と同じくらいだ。だから、普段から先生とはよく目が合う。

 しかし、こんな至近距離で顔を合わせることはない。髪の毛と同じ色をした栗色の瞳が、西日を反射してキラキラ輝く。二人きりで、胸の音が聞こえてしまうのではないかと心配になる距離で、プリントを集める指が触れ合うか触れ合わないかの瀬戸際で。それだけで私の心臓は爆発寸前なのに、名前を呼ばれてしまってはどうしようもない。

 あまりの緊張に固まっていたのだろうか。先生は優しく微笑んだあと、「はい、どうぞ」と再びプリントの束を私に差し出してくれた。 

「あ、ありがとうございます!」 

 しどろもどろにお礼を言って、プリントへ指を近づける。しかし、紙に触れると同時に先生の指――それも無機質な冷たさに触れ、私は思わず右手を引っ込めてしまった。 

「え、どうしたの、宮森さん」 

 困惑の表情を浮かべる先生。それもそうだ、せっかくプリントを集めてあげたのに、それを受け取ることを拒まれたのだから。しかし、その時の私は動揺していて、何も考えられなくて、だけど、どこか冷静だった。

「それ、現国の課題ですよ。元々先生に渡すつもりだったんです」 

 そう言いながら、自分の手で集めた分のプリントを、先生が持つ束の上に載せる。 

「わ、本当だ!ごめんごめん、うっかりしてたよ」 

 じゃあ、ありがとう、貰っておくね。そう言って先生は再び微笑んだあと、立ち上がってどこかへ去っていった。

 小さくなっていく先生の後ろ姿を、ずっと見つめていた。 

 プリントをばら撒き、仕事を増やしただけの生徒に「ありがとう」と言ってくれるだなんて、優しい先生だと思った。





 ガタンゴトン、ガタンゴトン。

 規則正しく揺れる電車は、普段なら授業で疲れた体に眠気をもたらすが、今日に限っては目が冴えていた。

 右手に触れた、先生の左手─正確に言えば、左手薬指の冷たさが忘れられない。控えめに光る銀色のリング。

 まさか、先生が結婚指輪を着けているなんて。全く気づかなかった。

 一体、いつから着けていたのだろうか。いつの間に結婚していたのだろうか。もう結婚式は挙げたのだろうか。

 そこまで考えた挙句、あんなにも素敵な先生なのだから、そりゃあ結婚しているよな、と妙に腑に落ちた。

 きっと旦那さんも素敵な人で、その内お子さんにも恵まれて、産休を取って、卒業式に顔を見せるなんてことは出来ないのだろう。

 銀のリングは思いの外冷たくて、今も指にその感覚が残っている。心臓すらも冷たく感じられて、私は吹き出してしまった。なんだ、私はそんなに先生のことが好きだったのか。

 しかし、先生には十何年もの縮められない年齢差がある。教師と生徒という関係がある。

 そして何より――私は女で、先生も女性だ。

 同性同士の恋愛。結婚もできなければ、子供も作れない。ましてや、恋愛対象になることすら困難で、気持ち悪く思われる可能性も十二分にある。大抵はバッドエンドに終わる、そんな恋愛だ。

 車窓越しに、夕日が赤く燃えている。やがて日は沈み、夜が訪れる。

 所詮、私が思い描いていたのは全くの夢物語だったのだ。

 現実を突きつけられたことで、早いうちに夢から覚めることができた。それにどこか安堵している自分もいる。

 この事実を、無機質なリング越しに知れただけまだ良い。先生の口から直接聞きでもしたら、私は到底立ち直れそうになかった。






 熱を発するアスファルトの道を歩き、ハンディファン片手に、汗を流しながら登校する。ここ最近はセミの大合唱がうるさい。

 しかし、そんな毎日も今日で終わりだ。他校が次々と夏休みに入る中、やっと自称進学校である我が校も明日から夏休みに入るのだ。

 今だって、テレビ越しに校長先生の話を真面目に聞いている者など一人もいない。さしずめ、頭の中でスケジュール帳を広げ、遊ぶ予定をびっしり入れているのだろう。

 それは気心知れた友人である、天馬ひまりも同じだったようだ。

「ねぇねぇ、早速明日なんだけどさ、予定ないよね?映画見に行こうよ〜!」 

 終業式が終わり、浮足立つ教室で肩をつつかれた。 

「予定ないって決めつけないでくれません?」

「でも、実際、暇でしょ?」

「まぁ、そうだけど……」

「じゃあ決まりだね!横浜駅に十時集合ってことで。詳しくは後で連絡する。私これからバイトだから」 

 じゃ、また明日!そう一気にまくし立て、ひまりは去っていった。まるで嵐が去ったみたいだ。相変わらずの破天荒っぷりに、私はため息をついた。






「あ、うた!こっちだよ〜」 

 騒々しい横浜駅で声をあげるひまりの元へ、小走りで向かう。買ったばかりの厚底スニーカーが慣れない。 

「ごめん、待った?」

「十五分くらい待った」

「嘘、本当に?」 

 慌てて時計を見るも、まだ九時四十五分である。集合時間は十時ちょうど。つまり、目の前の彼女は三十分前行動をしていたということだ。 

「流石に早く来すぎじゃない?」

「そう?まぁ人を待たせるよりはいいでしょ」 

 お金にルーズな人と時間にルーズな人は信用をなくすんだよ、何回聞いたかわからないセリフを適当にあしらう。彼女はなにも考えていないように見えて、何だかんだしっかりしているのだ。 

「ところで、それ、前買ったって言ってたやつ?」 

 そう言うひまりの視線は、私の足元の厚底スニーカーに向いていた。彼女は案外人のことをよく見ていて、遊ぶたびに私服について触れてくれる。私はその特性を好ましく思っていた。 

「そうそう、これセールでめっちゃ安くなっててさ」

「かわいいね、掘り出し物じゃん。てか、また厚底?」

「なんせ、足が短いもので」

「でも、厚底履いてても私より小さいよね」 

 小さくて可愛いでちゅね〜、そう馬鹿にする彼女の顔は私の頭上にあって、余計腹立たしい。私よりも二十センチ背の高い彼女が、心底羨ましかった。

 背が低いことを嘆くと、よく高身長の女子から反感を買う。しかし、「足が短くてスタイルが悪い」といえば、風向きが変わるだろう。

 低身長ということは、高校生になったのにもかかわらず「あ、〇〇中の生徒さん?」と聞かれるということなのだ。 

「でもいいじゃない。ねぇ、キスしやすい身長差って何センチくらいか知ってる?」 

 突拍子もない発言に眉をひそめる。 

「知らない」

「十から二十センチらしいよ。つまり、うたは百六十の男も恋愛対象に入れることができる」

「それの何がいいのよ」

「日本には百八十センチ超えなんてなかなかいないからね。キスしやすい身長差の男性が多いってこと」 

 私の場合は百八十以上の男を見つけないといけないから、大変だよ。そう嘆くひまりを横目にため息をつく。

 別に、多くの男性から好意を持たれても意味がない。好きな人ただひとりからの好意が、私はほしいのだ。 

「あ、まって!うた、見てあそこ!」 

 急に肩をバシバシと叩かれる。ひまりの方を見ると、目を爛々と光らせていた。

 この目は「面白いもの」を見つけたときの目だ。もっとも、それは私にとって大抵「面倒なもの」なのだが。

 一体、どんな変人を見つけたのだろうか。仕方無く、彼女が指差す方へ目線をやって――驚いた。

 そこにいたのは、私服を身に纏った先生だったのだ。

 いつもはパンツスーツだけど、今日は白色のフレアスカートを靡かせている。ウエスト部分はリボンでキュッと締まっていて、くびれが強調されていた。

 ――やっぱり、先生は綺麗だ。

 いつもの学校とは違う、休日の先生。皆は見たことがない、スカートの先生。遠くで眺めているだけでも、なんともいえない高揚感が心を満たす。むしろ、遠くで眺めているくらいがちょうどいい。

「大和先生〜!」

 しかし、隣からする大声で無理やり現実に戻された。 

 ひまりが腕をグイグイ引っ張り、先生のもとへ歩みを進めていく。縮む先生との距離。高鳴る心臓。「ちょっと、待ってよ」と私が引き留めようとするのも気にしない。 

「あぁ、天馬さん、宮森さん」

 そんな様子なので、先生もこちらに気づき、手を振ってくれた。  

 ――まさか、完全プライベートの先生に話しかけるなんて。陽キャの友人を恨めしく思いつつも、先生から学校以外で名前を呼ばれたことが少し嬉しい。

 マシンガントークを繰り広げる友人を横目に、先生が目の前にいる事実を噛みしめる。

 あぁ、やっぱり先生の声は落ち着く。凛としていて、でも柔らかくて。休日にも関わらず、鼓膜を震わせるその声に、惚れ惚れとしてしまう。 

「ごめーん!待った?」

 どこか夢心地だった脳内に、突然、女性の声が響いた。

 別に高いわけでもない――むしろハスキーな声なのに、雑踏の中でもすっと耳に入ってくる。

 そんな声のした方を振り返ると、こちらへ駆けてくるショートヘアの女性がいた。

 私は目を奪われた。というのも、彼女は雑踏の中でも、スポットライトを浴びたかのように目立っていたのだ。

 ピッタリとしたTシャツにジーンズというラフな格好なのに、やけに様になる。ごく普通な格好をして周りに溶け込んでいるようで、むしろ、一般人との違いが際立っている。きっとモデルや女優が街なかで歩いていたら、こんな感じなのだろう。

 ぼんやりと思考を巡らせている間にも、パンツスタイルがよく似合う長い脚は、私達との距離を縮めていく。

 彼女は先生の隣に陣取るやいなや、私達の存在に気づいたようで「あれ、この子達、もしかしたら生徒さん?」とこちらを覗き込んできた。そう、「覗き込んで」きた。彼女はとても背が高かったのだ。

「そうそう」

 一応、教え子達だよ。そう紹介する先生に、少し照れくさくなる。自分のことを他人に話す先生、というのは何だか特別な感じだ。

 一方、ショートヘアの女性の方は目を少し見開いたあと、頬を緩ませた。

「え〜最近のJKってめっちゃ大人っぽいんだね!」

 すごい、私達のときと全然違う。そう呟く彼女は、私達よりよっぽど大人っぽく見えた。きっとこの賞賛の言葉も、大人の余裕ゆえのものだろう。

 隣の友人に目をやると、「そうですか〜?」と形だけは謙遜しながら、頬を赤らめ、身体をくねらせている。

 謎の美女に褒められて、口角は上がりっぱなし。完全に良い気になっている。これでは逆に、子供扱いされているようなものだ。

 私は今日何度目か分からないため息をついた。

 そんな様子を見ていたのかいなかったのか。謎の美女は何かに気づいたように顔を上げると、先生を見て悪戯げに笑い、口を開けた。

「てことは、彩葉、この子達から『先生』って呼ばれてるんだ〜」 

 やーい、大和先生!と先生を小突く彼女。

「ちょっと、生徒の前でやめてよ」

 そう言いながらも、先生はどこか楽しそうだった。

 ――こんな先生の顔、初めて見た。

 そういえば、彼女は「『私達のときと』全然違う」と言っていた。

 栗色の髪を緩く巻き、ふんわりとしたブラウスに身を包んだ先生。

 突然現れた、黒髪ショートヘアのパンツスタイルが似合うボーイッシュな美女。

 一見正反対に見える二人は、古くからの友人なのだろうか。

 頭上にある、艷やかなショートヘアを見ながらそんなことを思っていると、彼女とパチリと目があった。綺麗なアーモンド形の目に見つめられ、気まずさに視線をずらす。

 しかし、彼女はこちらの思いなど露知らず、長い脚を折り曲げ、目線を合わせてきた。

 近距離で見つめる美女の破壊力は凄まじく、ドキッとしてしまう。恋愛的な胸の高鳴りというよりも、完璧な存在に対する緊張感の方が近い。

 一体、私に何があるんだ。私の何をそんなに見つめているのだ。ピンと張り詰めた空気に鼓動が早まる。

 しかし、当の彼女は気の抜けた声で「あ、まつ毛ついてるよ」と言い放ったので拍子抜けしてしまった。

 なんだ、そんなことか。胸を撫で下ろす。それなら自分で確認しようと鏡を取り出そうとして――

 「ちょっとじっとしててね」

 その手は宙に止まった。なんと、彼女が指を、私の顔に近づけてきたのだ。

 なめらかな指の感触に息が止まる。

 ほっそりと長く、しなやかなそれに目を奪われる。

 再び鼓動は早まり、うるさく鳴る。

「はい、取れたよ!」

 先程から私の感情を揺さぶる声が、鼓膜を震わせた。

 心臓の音が消えた、いやに静かな空間で、その声は凛と響いた。

 これまでの彼女の行動に深い意味はないだろう。全くの善意からの行動で、きっと他の人にも同じようなことをするのだろう。

 しかし、私はそんな彼女の顔を見ることができなかった。 

 ――彼女の左手薬指に光るリング。夏の鬱陶しい太陽の光を反射するそれの眩しさは、とても直視できるものではなかったのだ。

 屈んで目を合わせようとしている彼女。その目から視線をそらし、黙りこくった私。訪れる沈黙。

 まずい、何か言わなければ。そう思っても気持ちだけが早まって、口が回らない。

 変に力が入った喉は機能しなくなっていて、意味の無い母音ですら突っかかってしまう。

 「ありがとうございます」の一言すらまともに言えないのだ。

 そんな私を、隣の友人は、私が謎の美女の圧倒的イケメンオーラーに照れて何も言えなくなったのだと勘違いしたようで「も〜照れちゃって!すみません、この子シャイなんですよ〜!」など保護者面している。普段ならすかさず訂正を入れるが、今に限ってはちょうどよかった。

「もう、急に顔触られたらびっくりするに決まってるでしょ!教師側も生徒との距離感に関してはうるさく言われてるんだからね!」

 そう注意する先生に「はーい、ごめんなさーい」と生返事を返すショートヘアの彼女。

 その様子はまさしく、先生に注意を受ける生徒のようで、子供らしく見えた。

 ――大人っぽいお姉さんでも、先生の前だとこんなになっちゃうんだ。

「はぁ、宮森さん、ごめんね」

 先生から声をかけられ、はっとする。

「い、いえ、全然……」

 やっとのことで言葉を捻り出すが、気の利いたことの一つも言えない。

 アパレル店で買った、安い厚底スニーカーをじっと見つめる。

 厚底で身長を盛ったって、ほんの数センチしか先生より高くなれない。

 何だか自分が情けなくて、恥ずかしくて、顔を上げることができなかった。

「でも彼女、優しいんだよ。今だってヘラヘラしてるように見えるけど、本当は申し訳ないって思ってるはず」

 頭上で先生の声がする。私が大好きな、先生の声。 

「だから、顔を上げて。せっかく可愛いんだから」

 そう言って先生は、固く握りしめていた私の手を取り、優しく包み込んだ。

 思わず顔を上げると、そこには微笑みを浮かべた先生がいた。

 ――あぁ、ずるいです、先生。

 先生の手はサラサラしているけれど、きっと私の手は汗でびっしょりだ。そんな手を握られているのが恥ずかしい。

 だから、今顔がやけに熱いのは、先生が私の手に触れてくれてときめいてしまったから、ではないのだ。

 そういう恥ずかしさではなくて、この真夏の太陽のせいなのだ。

 そう必死に言い聞かせる。この思考間、わずかコンマ一秒。

 しかし、そんな熱い気持ちも、右手に触れた無機質なリングの冷たさによって、一瞬で消火されてしまった。

「あ、映画の時間やばい」

 友人の声に、当初の目的を思い出す。

「映画を見る予定だったのね」

「さっきは急に、あんなことしちゃって悪かった。ごめんね」

「そんなそんな。むしろせっかくの休日なのに話しかけちゃってすみません」

 先生見つけたら、いてもたってもいられなくなっちゃって。そう言ってひまりは軽く頭を下げた。案外、常識のある友人なのだ。

「いえいえ、私も二人に会えて楽しかったよ」

「今の子も友達と映画とか見るんだね〜。いいじゃん、楽しんで!」

 それじゃあ、また夏休み明け、学校で。そう言い残して、先生とショートヘアの美女は去っていった。

 どんどん小さくなっていく後ろ姿をぼんやりと見つめる。 

「いや〜あのお姉さん、めっちゃイケメンだったね!」

 はしゃぐ友人の傍ら、私は二人の身長差ばかりが気になってしまった。

 ふいに、キスしやすい身長差は十から二十センチ程度、という話を思い出した。






 ガタンゴトン、ガタンゴトン。

 揺れる電車に身体を預ける。

 立っている気力もなくて乗った各駅停車。

 誰も降りないような駅にも律儀に止まるのが、いつもなら歯痒いが、今日は丁度良かった。

 ――今日は色々とあった。映画の内容など、全く頭に入ってこず、ひまりに呆れられてしまうくらいには色々あった日だった。 

 休日の先生に会えた。

 私が知らなかった先生の表情がたくさん見れた。

 それは、見知らぬショートヘアの彼女に見せる表情だったけれど。

 車窓越しに空を見る。真夏といえど、主張の激しかった太陽も夕日となって、ゆっくりと沈んできている。

 ふいに、銀のリングの眩しさと冷たさが思い出された。

 あのときは、先生の口からではなく、無機質なリング越しに「そのこと」が知れてよかったと思った。

 しかし、目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので。

「先生のあんな目、初めて見たな」

 呆れているようで、奥には優しさとか愛おしさとかが滲み出た、そんな目。

 私みたいな一生徒には見せない、先生としてではなく、「大和彩葉」としてひとりの人を想う目。

 やっぱり駄目だな。

 吐いたため息は思いの外軽くて、体の力が抜けると同時に笑みがこぼれた。

 あぁ、この感じ。あの日、先生の薬指の冷たさを知ってしまった時と同じだ。

変に気張っていた心が解けていく感じ。なんだか自分がちっぽけに思えてくる、そんな感じ。

 やっぱり、ショートヘアの彼女には到底敵わない。

 今日一日で、私はただの高校生で、未熟なお子様であることを思い知らされた。

 先生にとって、恋愛対象が同性であることは何の問題でもなかった。

 だけど、自分にチャンスがあったのかといえば、全く違う。

 きっと、先生はあの「ショートヘアの彼女」だからこそ好きになったのであって、そこに性別は関係ない。

 それは彼女の方も同じで、だからこそ、二人はリングで結ばれたのだろう。

 一生を共に寄り添って過ごすことにしたのだろう。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン。

 電車は進み続ける。

 流石に今日は疲れたのか、瞼が重くなってきた。

 脳裏に浮かぶのは、先生との日々。

 先生が授業をするときの声。黒板に書く綺麗な字。添削された課題の、高校生には可愛らしすぎる花丸。そして赤ペンで書かれた「この解釈、私はすきだな」というコメント。

 ふいに、授業をしている先生を思い出した。

 プールの後の四時間目。空腹と疲労。そこに先生の子守唄ボイスが加われば、寝るなという方が難しいもので。

「ここでは具体例が述べられていて――」

 先生の声と黒板に書き連ねられる美しい文字に惚れ惚れしていると、気づいたときには周りのほとんどが意識を飛ばしていた。

 ノートを開きシャーペンを握る形だけはとる者、うとうと船を漕ぐ者……。

 中には開き直って、完全に「寝る体制」をとる者も少なくない。

 多くの生徒が机に頭を預け、すやすや寝息をたてている中、真面目に授業を受けていた私だけがニョキッと飛び出ていた。

「そして、最後に筆者の主張が述べられていきます」

 そういって一息ついた先生は、こちらを振り返った。軽く目を見開く先生。そりゃそうだ、ほとんどの生徒が居眠りをしているのだから。

 え、嘘……と呟きを漏らし、口元を手で覆う先生がどこか可愛らしく、頬が緩む。しかし、先生と目があった瞬間、私の心臓はドクンと飛び跳ねた。

「あら、宮森さんはちゃんと聞いてくれてたのね」

 ――真面目に授業を受けているといっても、先生を目で追うのに夢中で、正直、授業の内容など一ミリも頭に入っていない。

「は、はい……」

 なんと答えれば良いか分からず、適当に返事をする。

「嬉しいな、みんな寝ちゃったみたいだから。やっぱり現国ってつまらないのかな」

 理科みたいに実験も出来ないし、退屈だよね。そう言って笑う顔があまりにも寂しそうで、気づいたら口が動いていた。

「そんなことないです!私は先生の授業好きです!」

 ろくに授業の内容を理解していないのに「好き」と言うのもどうかと思ったが、流石に「先生の声や仕草が好きです」とは言えない。

 シンとした教室。微かに聞こえる寝息。どうやら、まだみんな起きていないみたいだ。

 胸をなでおろす反面、沈黙に気まずくなる。

「ありがとう」

 しかし、先生がこの上なく嬉しそうに笑うから、私も何だかくすぐったい気持ちになった。

「じゃあ、早速授業を再開しないとだね」

 みんな寝てるけど、宮森さんは起きてくれてるから。再び黒板に板書をしだす先生の後ろ姿を眺める。

 私と同じくらい――百五十センチくらいで決して高くはないけど、ピンとした背筋は芯の太さが表れているようでかっこいい。私はいつも先生に憧れていた。

「愛する人に手紙を書く。しかし、何と書けば良いか分からない。それなら『書けない』と書いてみる。思いが真実なら、一文字もかけないということはない」

「こうしたとき人は、自分が相手を思う気持ちではなく、その人の幸福を願う言葉を書き始めるかもしれない」

 先生はこちらを振り返ると、黒板に書いた文章を読み上げた。

「二十七ページの文だけど、これってどういう意味かな」

 そういう先生の瞳に映るのは、紛れもなく私一人だ。

 突然の問いかけに戸惑っていると、「普段こんなふうに聞かないもんね」と先生が目尻を下げて笑った。

 現国が好きといっておきながら質問に答えられないのは少し恥ずかしかったが、「例えばだけど」と続ける先生にありがたく甘えることにする。

「好きな人がいた。彼との日々は幸せで、ずっと彼と一緒にいたくて、想いを伝えようか悩んでいた。そんなある日、彼に海外転勤の話が出ていることを知る」

「自分は日本で仕事をしているし、彼について行くことはできない。しかし、海外で働くことは彼の長年の夢だった」

「こんなとき、宮森さんならどうする?」

 またもや質問の矢を投げられ、ドキッとする。

「えっと……多分、彼を海外へ送り出すと思います」

 質問の真意がわからぬまま、なんとか答えを捻り出した。

「だけど、彼とは一緒にいれなくなっちゃうよ?『好き』だと想いを告白したら、もしかしたら彼は海外転勤を思いとどまってくれるかもしれない」

 食い気味で畳み掛けてくる先生に、若干面食らう。 

「でも、海外で働くことは長年の夢だったんですよね?それが叶うのなら、日本で一緒にいるよりも良いのかなって」

「その方が彼にとって幸せってこと?」

「……まぁ、はい」

 これといって言うことも浮かばず、曖昧に頷くと、先生はにっこりと笑った。

「ほら、こういうことだよ」

「こういうこと?」

 やはり真意が読めない。一体どういうことなのかと脳みそをフル回転させていると、先生が説明を続けた。

「彼のことが好き。彼と一緒にいたい。だけど彼に伝える言葉は『いってらっしゃい』だよね。彼のことが好きだからこそ、彼の夢を応援したいんだよ」

 ――自分が相手を思う気持ちではなく、その人の幸福を願う言葉を書き始める。

 今ならなんとなく、その意味が分かるような気がした。

「大切な人を想うとき、自分の意に反する言葉が出てくることもあるんだよね」

 そう言う先生はやけに大人っぽくて、脳裏に焼き付いた。

 


「次は、いずみ野です。ご乗車、ありがとうございました――」

 アナウンスにハッと目を開く。どうやら眠ってしまっていたらしい。

 横浜といえど、都会から離れ、住宅街しかない町だ。いつの間にか乗客も少なくなっていて、いつもの学校帰りを想起させる。

「いつもの」学校。「いつもの」電車。

 今日見たのは「いつもの」先生ではなかったけど、それは私が生徒だから知り得なかっただけで、彼女は「いつもの」『大和彩葉』だったのかもしれない。

 きっと、「大和彩葉」を生涯をかけて幸せにできるのは、ショートヘアの彼女だけだ。

 だけど、その逆もまた然り。

 生徒として、先生である彼女の授業を受けられるのは私だけだ。

「先生」をしている彼女を好きになったのだから、「生徒」として、彼女から様々なこと学び、成長するのもいいかもしれない。そうしたら、はやく大人になれるかもしれない。

 夕日は沈み、空は薄暗くなっていた。

 日は沈む。だけど必ずまた昇る。そして明日が来る。これが繰り返されて、夏休みは終わり、また学校へ通う日々が戻ってくるのだ。






 暦上では秋が近づいてきたものの、いまだに暑さが身に堪える九月。

 形だけの始業式が終わり、生徒の多くは午前帰りのチャンスを無駄にするまいと、早々と教室を出ていった。

「やっほー!元気してた?」

「痛っ!ひまり、急に突撃してくるのやめてよ」

「ごめんごめん」

 言葉では謝ってみせるものの、誠意は一ミリも感じられない笑顔。まったく、ひまりはやっぱりひまりだ。

「というか、始業式なのに遅刻してくるってどういうこと?」

「こうも休みばかりだと体内時計が狂ってさ〜」

 ちょっと寝坊しちゃったけど、まぁ始業式も一応出られたし、セーフでしょ!と笑う彼女を横目にため息をついた。最後のほんの数分しか顔を出せなかったくせに、よく言うものだ。

「それよりも!」

 これでこの話は終わりだというように大声を出すと、ひまりは教卓の前に立った。

「これ、果たして四十人分きっちり出てるのかな?」

 彼女が指差す先にはプリントの束。夏休み中に出された現国の課題だ。

「さぁ。帰るとき、各自教卓に出していくように伝えただけだから」

「だいたい、夏休み明け初日を期限にするなんてさ。大和先生も意外と鬼だよね〜」

 教卓に突っ伏すひまり。鬼といいながらも、彼女は案外しっかりしているから、ちゃんと出しているだろう。

 ――まぁ、始業式に遅れるあたり、時間にルーズではあったが。

「夏休み前に提出日は知らされていたんだから、出してない人は自業自得ってことで」

 さっさと職員室に出しに行って、私達も早く帰ろう。

 そう声をかけて、プリントの束を手に持ち、ドアの前に立つ。しかし、両手が塞がっていればドアを開けることもままならない。ひまりに頼もうか。

 しかし、私が口を開けるより先に、ドアの方が勝手に開いた。

「あれ、宮森さん。夏休みぶりだね」

 目の前には先生がいた。

 どうやら外側からドアを開けたのは、先生だったみたいだ。

 パンツスーツ姿で、髪は後ろで一つに束ねられている。

 夏休みに見たときとは違う、いつもの先生。

「大和先生!どうしたんですか?」

 ひまりの高い声が響く。

「天馬さんもいたのね。夏休みの課題を回収しに来たの」

 先生はひまりを見つめて笑い、そのまま視線を下げた。その先には課題の山がある。

「あったあった。これ、回収してくね」

 そう言って先生は教卓の方へ近づき、プリントの束に手をかけた。

 瞬間、ひまりの目が爛々と光った。――こういうときは決まって、何やら面白いもの(私にとっては面倒なものだが)を見つけ、ちょっかいを出そうとしているときだ。

「先生、ご結婚されてたんですか?!」

 えぇ、嘘!と声を上げるひまりに、体が固まった。

 予想だにしなかった一撃に、心臓がズンと重くなる。

「えぇ、まぁ、そんなところ」

 先生が曖昧に答えた。

 しかし、ひまりはそんな先生の様子には全く気づかないといった様子で、矢継ぎ早に質問を投げかけている。

 意外ときちんとしているとはいっても、先生と友達のように――いや、部活の先輩を相手にするように話すのは彼女の癖であり、欠点であり、強みでもあった。

 この話は長引きそうだ。ドアの前で突っ立っているのも何なので、二人がいる教卓へ近づく。

 いつもと変わらない、なんてことのない日常のひとコマ。その中で一人だけ感情を沈ませていてもしょうがない。

「先生、結婚するってどんな感じなんですか?毎日ラブラブ〜みたいな?!」

「ちょっと、」

 ひまり、流石にそれは先生相手にお痛がすぎるのではないか。しかし当の先生は、私の咎める声を「まぁまぁ」となだめた。

「そうだねぇ、生活的には結婚前と大して変わらないかな」

「え、そんなもんですか?」

 想像と違うかも、と呟くひまりに、先生は「でも」と続けた。

「こうやって指輪を見ると、『いるなぁ』って思うんだよね。大切な人がそばにいるのを実感できるというか」

「それだけで、なんだかすごく幸せなの」

 そう言って照れ臭そうに笑う先生に、目を奪われる。その笑顔は大人っぽくて、同時に少女のようでもあった。

 ――やっぱり、こんな表情をさせられるのは彼女だけだな。

 教卓から少し離れたところにいたのを、一歩進めて、先生との距離を縮める。

 私の真っ直ぐ正面に、栗色の瞳があった。

 その瞳に写るのは、紛れもない私。一生徒で、未熟で、等身大の私だ。

 軽く息を吸い込む。既に体の緊張は解け、喉もしっかり開いていた。静かに、丁寧に、口を開く。

「末永くお幸せに」

 ――大切な人を想うとき、自分の意に反する言葉が出てくることもある。

 だけど、この言葉は紛れもない本心だと思った。





 湿気が肌にまとわりつく廊下を歩いていると、運動部の大群が全速力で横切った。

 瞬間、巻き起こる風。思わず指に力を入れる。

 なんとか集めた現国の課題。ここでプリントを撒き散らしてしまえば、放課後になって慌てて課題に着手しだしたクラスメイトを待っていた時間も、全て無駄になってしまう。

 スマホで時間を確認すると、すでに五時を回っていた。

 時折ピカッと光る雷は、時間差で鼓膜を震わせると同時に女子生徒をも震わせている。

 この様子だと、雨足はどんどん強くなるだろう。なるべく早く帰りたい。

 そのためには、この課題をいち早く宮森先生に渡さなければならない。

 果たして、職員室に居るだろうか。

これでいなかった場合のことを考えると頭が痛いな、などと考えながら階段を降りた。目指すは職員室がある東棟である。

 しかし、そんな私の考えも杞憂に終わった。

 なんと、目の前から宮森先生が歩いてきたのだ。

 先生の背は高い方ではなく、私より小さいくらいだ。

 しかし、いつもピンと背筋をのばし、凛とした空気を纏っているから、同級生と見間違えることはない。

「宮森先生!」

「あら佐藤さん。どうしたの」

「これ、現国の課題です」

「わざわざありがとう。貰っとくね」

 そう言って先生は、私が差し出したプリントの束に手を伸ばす。

 なんとなく、その指を眺めていると、あるものに目が釘付けになった。

「先生、その指輪って……」

「あぁ、これ?」

 気づいちゃった?先生は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、左手を見せた。

 ーー薬指に光る、銀色のリング。 

「ご結婚されたんですか?!」

 瞬間、あたりから視線が突き刺さる。驚きのあまり、思っていた以上に大声がでていたようだ。

 今日も現国の授業はあった。しかし、このことに気づく者はいなかったし、先生の口から語られることもなかった。

 もしかしたら、先生はこのことを、あまり公にはしたくないのかもしれない。

 何も考えず、感情に任せて口を開いてしまったことを後悔する。

 しかし、先生は「気にしないでいいよ」と優しく微笑んでくれた。

「すごい……おめでとうございます」

 こういうときに気の利いたことの一つや二つ言えたらいいものだが、生憎、私にそこまでの能力はない。

「ふふ、ありがとうね」

 照れ臭そうにする先生。なんだか新鮮だ。

「それにしても、いつの間に?結婚式はもう挙げられたんですか?」

「実は、式は挙げていないの」

「あっ、そうなんですね」

 少し意外に思ったが、最近では式を挙げるお金を二人の生活に使おうとする動きもあるらしいし、珍しいことではないのかもしれない。

 先生は銀のリングを愛おしそうに見つめ、指で撫でた。

「この指輪をつけてるとね、大切な人がずっと隣にいるような気持ちになれるの。ドキドキ!というよりは、しっくりくるというか、安心するというか」

 外は大雨なのに、先生の周りだけ、やけに温かくかんじる。このオーラはまさにーー

「『幸せ』ってことですか?」

 先生が軽く目を見開く。

 一瞬訪れる沈黙。雨が窓を叩きつける音だけが、やけにうるさい。

 高校生と言っても、まだまだ子供である自分が言うセリフではなかったかもしれない。

 これは、結構恥ずかしいな。

 顔が熱くなっていることに気づかないふりをしていると、目の前の先生はふっと息を洩らし、微笑みを浮かべた。

 その微笑みは、いつも私達に見せるものとは違った。しかし、具体的に何が違うかと問われると分からなかった。

 ただ、目の前では一人の女性が

「そうかもね、」

とだけ、ぽつりと呟いた。

 

 

 

 


 



 

 



 


 

 


 

 

 

 

  

 

  


 

 





 

  

  

 

 

 

 

 

 


 

 


 


 


 


 

 

 

 


 

 

 

 


 


 


 

 

 

 

 


 

 

 

 

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銀のリング あずき @40kw-azk

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