「山小屋の記憶」

ぼくしっち

第1話

# 1


 金曜の夜、残業を終えた私は急いで車に飛び乗った。都内の喧騒から逃れたい一心で予約した山奥の貸し小屋まで、車で三時間の道のりだ。


 ネットで見つけたその小屋は「築四十年の古民家風」と紹介されていた。電気は通っているものの携帯の電波は圏外、最寄りの民家まで五キロという立地に惹かれた。完全に一人になりたかったのだ。


 山道を登り続け、ヘッドライトが照らす先に現れた小屋は、写真よりもずっと古びて見えた。木造平屋建ての素朴な造りで、玄関先には薪が積まれている。管理人は既に帰ったようで、約束通り鍵は郵便受けに入っていた。


 室内は思いのほか清潔だった。六畳間が二つ、小さな台所と浴室。電灯は裸電球だが、暖房も効いていて居心地は悪くない。荷物を置いて一息つくと、山の静寂が身に染みた。虫の鳴き声さえ聞こえない、完璧な無音の世界だった。


## 2


 翌朝、私は妙な違和感で目を覚ました。


 昨夜、就寝前に居間のテーブルの上に置いたはずの文庫本が、なぜか台所の流し台の脇に移動している。寝ぼけて自分で動かしたのだろうかと首を捻ったが、思い出せない。


 朝食を作りながら、ふと玄関の方から音がした気がした。足音のような、ドアを開け閉めするような音。しかし外に出て確認しても、人の気配はまったくない。鳥や小動物の仕業かもしれない。


 午後、読書をしていると今度ははっきりと足音が聞こえた。縁側を歩く音だ。本を置いて窓から外を見ると、縁側には誰もいない。しかし木製の板が軋む音は確実に聞こえていた。


 夕方になって、私は台所で夕食の支度をしていた。振り返ると、居間の鏡に映る自分の後ろに、もう一つの影があった。


 慌てて振り返るが、そこには何もない。鏡をもう一度見ると、今度は私一人だけが映っている。電球の影が作り出した錯覚だったのだろう。そう自分に言い聞かせた。


## 3


 その夜、私は何度も目を覚ました。


 最初は夜中の二時頃、誰かが玄関のドアノブを回す音で起きた。ガチャガチャと金属音が続く。泥棒だろうかと身を硬くしていると、やがて音は止んだ。しばらく待ってから恐る恐る玄関を確認したが、鍵はかかったままだった。


 四時頃、今度は天井を歩く音で目覚めた。ドスン、ドスンと重い足音が頭上を移動していく。しかしこの小屋は平屋建てで、天井の上は屋根裏しかない。ネズミにしては音が大きすぎる。


 そして明け方、最も恐ろしい体験をした。


 薄明かりの中、布団から起き上がった私の視界に、台所に立つ人影が見えたのだ。背中を向けたその人は、何かを調理しているようにゆっくりと手を動かしている。包丁で何かを刻む音が規則的に響いていた。


 トン、トン、トン…


 私は声も出せずにその場に凍りついた。人影は振り返ることなく、やがてその場から消えた。音も止んだ。


 恐る恐る台所を確認すると、そこには誰もいない。しかし流し台には、昨夜私が洗って片付けたはずの包丁が一本、刃を上にして置かれていた。


## 4


 日曜の朝、私は管理人に電話をかけた。携帯は圏外だが、小屋には古い黒電話があった。


「あの、昨夜から変な音がするんですが…」


「ああ、そうですか」管理人の声は妙に落ち着いていた。「実はですね、あの小屋にはちょっとした歴史がありまして」


 私の背筋に冷たいものが走った。


「十五年前、あの小屋で一家心中があったんです。ご夫婦とお子さん一人。旦那さんが会社の倒産で追い詰められて…最後は台所で」


 管理人の言葉が途切れた。私は昨夜見た人影を思い出し、手が震えた。


「でも大丈夫ですよ」管理人は慌てたように続けた。「お祓いも済ませましたし、それ以来何事もなく営業しております。きっとお客さんの気のせいです」


 電話を切った後、私は急いで荷物をまとめ始めた。しかし玄関のドアが開かない。鍵を外し、ドアノブを回してもびくともしない。まるで外側から押さえつけられているようだ。


 窓も同じだった。どの窓も開かない。私は完全に閉じ込められていた。


## 5


 昼を過ぎても状況は変わらなかった。黒電話も通じなくなっている。


 私は小屋の中を改めて見回した。すると、これまで気づかなかった細部が目に入った。台所の柱に残る古い血痕のような染み。居間の畳に残る、人が倒れた時にできるような跡。そして鏡の隅に、小さな手形がべったりと付いている。


 夕方になると、現象はさらに激しくなった。


 足音は絶え間なく響き、電球は勝手に点滅を繰り返す。台所からは包丁の音が止むことなく聞こえ、時折子供の泣き声のようなものまで混じった。


 鏡に映る影は三つになっていた。大人二人と、小さな影が一つ。彼らは私を見つめているようだった。


 そして夜が更けると、私ははっきりと理解した。


 この山小屋は、あの一家の記憶に支配されている。十五年前のあの夜から時が止まったまま、彼らは同じ時間を繰り返し続けているのだ。そして今、私もその記憶の一部に組み込まれようとしている。


 台所から、男性の声が聞こえてきた。


「もう、終わりにしよう…」


 包丁を握る音が響いた。


## 6


 月曜の朝、管理人が定期巡回で小屋を訪れた時、室内に人はいなかった。


 しかし台所には、宿泊者の荷物がそのまま残されていた。警察による捜索が行われたが、男性の行方は分からずじまいだった。車は小屋の前に停まったままで、失踪の理由は謎に包まれた。


 管理人は小屋の営業を停止し、やがて建物は取り壊されることになった。


 しかし地元の人々は言う。静かな夜、あの山道を通ると今でも小屋があった場所から光が見え、中で何かが動いているのが見えるのだと。


 そして時折、四つの影が寄り添うように佇んでいるのだと。


 山は、新しい記憶を刻み込んでいた。


---


**(終)**

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「山小屋の記憶」 ぼくしっち @duplantier

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ