宇宙が呼吸を止めた時

@Hoshi_no_kokyu

第1話

宇宙が呼吸を止めた時

​第1章

​冷たい風が吹き、空はどこまでも澄み切っていた。吐く息は白く、街の灯りさえも凍てついて見える。

​盲目の少年カズヤは、縁側で、窓から差し込む冷気を肌で感じていた。雪が音を吸収するのか、都会の喧騒は遠のき、世界はどこまでも静かだった。彼は星の光は見えないが、星々が放つ微かな「ざわめき」や、宇宙の空気の「鼓動」を、誰よりも繊細に感じ取っていた。それは、無数の楽器が奏でるオーケストラだった。しかし最近、その音色が少しずつ薄れていることに気づいた。耳を澄ませるほど、一つ、また一つと、楽器の音が消えていくように。その静寂は、単に音が消えるだけではなかった。それは、まるで懐かしい記憶が色褪せていくような、言いようのない寂しさだった。誰に話しても、誰もこの宇宙の静寂に気づいていないようだった。彼はこの感覚を誰にも話すことができず、一人、胸の中に閉じ込めていた。

​遠く離れた街の、古いアパートのベランダ。少年アキラは、自作の天体望遠鏡を夜空に向けていた。冬の夜は長く、空気が乾燥し、星々の光は鋭い輝きを放っていた。口径十センチにも満たない、しかし愛情を込めて組み立てられたその望遠鏡は、彼にとって宇宙への唯一の窓だった。毎晩、彼はその光をスペクトルに分解し、一つ一つの星の輝度と色をノートに記録し続けていた。他の少年たちが暖かい部屋でゲームに熱中する時間、アキラはひたすら、肉眼では捉えきれない微細な光の情報を追い続けていた。

​しかし、最近、そのノートには奇妙なデータが蓄積され始めていた。彼が長年記録してきた星々の光が、ごくわずかに、しかし確実に薄れているように見えたのだ。わずか数パーセント、あるいはそれ以下。普通なら誤差として見過ごされるような変化。だが、アキラの望遠鏡の感度と、彼自身の目の訓練された集中力は、その「些細な変化」を見逃さなかった。それは、星の寿命や銀河の動きでは説明がつかない、宇宙全体で同時に起こっている異変だった。アキラは、その原因が、自分がこれまで学んできたどの天文学の理論にも当てはまらないことに、戸惑いを隠せずにいた。夜空の向こうで輝きを失っていく星々を見つめながら、アキラの心に、言いようのない切なさがこみ上げてきた。大切な友人が遠ざかっていくような感覚。彼はこの孤独な事実に、どうしようもない無力感を覚えていた。

​アパートのベランダを飛び出し、アキラは冬休みを利用して祖父母の家へと向かっていた。そこは、都会の喧騒から離れた、夜空がくっきりと見える場所。そして、彼の天体観測好きに多大な影響を与えた、星をこよなく愛する祖父が住む場所だった。

​祖父は、アキラの顔を見るなり、優しい笑顔を見せた。その手には、最新のスマホが握られていた。夕食を済ませると、二人は慣れたように公園へと向かう。祖父は手入れの行き届いた手作りの望遠鏡を、アキラは都会から持ってきた最新の望遠鏡を、それぞれ三脚に据え付けた。

​冬の夜は長く、空気が乾燥しているため、天体観測には最適だ。しかし、アキラはいつものように胸を躍らせることはなかった。ノートに記録したデータを祖父に見せる。そこには、星の光がわずかに薄れていくという、誰にも話せなかった違和感が記されていた。

​祖父は黙ってそのデータをスマホで撮影し、自分のタブレットに転送した。

​「なるほど、これがお前の言う『元気がない星』か。確かに、昔見た時とは少し違うかもしれないな」

​祖父はアキラの言葉を否定しなかった。それは、彼の観測の正確さを疑わない、深い信頼の現れだった。

​「この星も、この銀河も、おじいちゃんの観測データでは、いつももっと輝いていた。でも、今は……」アキラは言葉に詰まった。その違和感を説明する言葉が見つからない。

​祖父はそっとアキラの肩に手を置いた。「俺には、難しいことは分からん。ただ、こうやってお前と星を見るのが好きなだけだ。お前がそう感じるなら、そうなんだろうな」

​祖父の言葉に、アキラは初めて、この孤独な違和感を誰かに話すことができた。祖父は科学的な根拠を求めなかった。ただ、アキラの感覚を、ありのままに受け止めてくれた。それは、科学的な観測データだけでは説明できない、人としての温かい繋がりだった。そして、この「些細な変化」に気づいているのは、もしかしたら自分だけではないのかもしれないと、アキラはかすかな希望を抱いた。

​第2章

​歳月が流れた。

​カズヤとアキラは、偶然にも同じ大学に進学し、同じ専攻を選んでいた。幼い頃、それぞれの場所で宇宙の異変に気づいた二人の少年は、宇宙物理学研究の第一人者であるハヤシ博士の講義を、最前列で熱心に聞いていた。

​講義が終わり、学生たちが席を立ち始めた時、アキラは意を決してハヤシ博士に声をかけた。

​「先生、お伺いしたいことがあります」

​アキラは、自身が長年記録してきた星々の光の減衰データを見せた。そのデータは、ハヤシ博士が世界中の観測機関から集めた、宇宙の膨張減速データと完全に一致していた。ハヤシ博士の目が、驚きに見開かれる。

​「これは…君は、いつからこのデータを?」

​アキラが答えようとしたその時、横にいたカズヤが静かに口を開いた。

​「先生、星の光が薄れるのと同時に、宇宙の『歌』が聴こえなくなった気がします」

​カズヤの言葉に、ハヤシ博士はさらに驚きを隠せない。彼の視線は、アキラの科学的なデータから、カズヤの五感へと向けられた。

​ハヤシ博士は、二人を研究室に招き入れた。

​「君たちが感じている違和感は、間違っていない。これは、現代の宇宙論では説明できない、とてつもない出来事の予兆だ」

​ハヤシ博士は、自身の観測データ、そして世界中の研究機関から集めたデータが示す「宇宙の膨張減速」の真実を語った。そして、その現象が、宇宙がこれまでの膨張とは異なる、新たな局面を迎えている可能性を示唆していると説明した。

​カズヤとアキラは、それぞれが抱えていた孤独な違和感が、壮大な宇宙の運命と繋がっていたことを知り、言葉を失った。幼い頃に感じた無力感は、今、目の前の真実を前に、畏怖と、そしてかすかな希望へと変わっていた。

​だが、ハヤシ博士の次の言葉が、二人の希望を打ち砕いた。

​「この現象が、実際に地球に影響を及ぼし始めるまで、数百億年単位の時間がかかると推測される。人類の歴史は、この宇宙の時間の前では、瞬きにも満たない」

​彼らが感じた宇宙の異変は、確かに真実だった。しかし、それはあまりにも遠い未来の出来事であり、彼らの生きる時代には何の影響もない。アキラの観測データも、カズヤの繊細な感覚も、結局は、どうすることもできない無力な事実を捉えていただけだった。

​ハヤシ博士の言葉は、二人の少年の胸に、再びどうすることもできない無力感を突きつけた。自分たちが気づいた宇宙の真実は、あまりにも壮大で、あまりにも遠い未来の出来事。それは、手の届かない美しくも残酷な事実だった。

​カズヤとアキラは、それぞれの日常に戻っていった。カズヤは相変わらず宇宙の静寂に耳を澄ませ、アキラは望遠鏡の向こうで輝きを失っていく星々を見つめていた。だが、彼らの心には、ハヤシ博士から聞いた「新たな局面」という言葉が、重くのしかかっていた。

​第3章

​その頃、宇宙の遥か彼方では、自らの太陽が燃え尽きる運命を前に、**カロンの種族(地球外知的生命体)**がいた。彼らの科学力は、すでに隣の星系への移住を可能にしていた。しかし、彼らは知っていた。宇宙の時間スケールから見れば、どんな星も、どんな銀河も、いつかは寿命を迎えることを。限られた時間の中で、ただ安住の地を転々とするだけの旅に、彼らは未来を見出せなかった。

​彼らの種族の存続と繁栄。そのために、彼らは究極の選択を迫られた。それは、永遠に続く宇宙の死と再生のサイクルに、自分たちの存在を刻み込むこと。彼らは、種族のすべての意識をコンピュータと融合させ、有限な肉体を捨てるという、苦渋の判断を下した。

​彼らが肉体を捨て、意識を融合させるという決断は、決して容易なものではなかった。肉体的な五感を、温かい太陽の光を、家族の温もりを、故郷の風の匂いを、彼らは永遠に手放さなければならなかった。最後の融合の日。カロンの種族は、自らの身体から切り離された魂を、故郷の星に散らばる巨大なネットワークへと送り込んだ。それは、個の意識が溶け合い、一つの巨大な集合知へと昇華する、畏怖と感動に満ちた瞬間だった。

​肉体を捨てた彼らが探求したのは、もはや物理的な新天地ではなかった。彼らの目的は、純粋な知性による、宇宙の根源的な謎への探求へと変わっていた。彼らが探求したのは、宇宙の誕生の際、最も初期に放たれた「産声」の残響。そして、遠い過去の出来事が刻まれた、時空の微かなさざ波だった。彼らは、それらを彼らの高度な知性をもって詳細に解析し、読み解いていった。

​そして、その果てに、一つの驚くべき真実を発見したのだ。

​宇宙は、ただ膨張し続けるだけの無機質な存在ではなかった。それは、過去の宇宙で起きたすべての出来事を「記憶」し、それを次の宇宙へと引き継ごうとする、壮大な「意志」のようなものを内包していたのだ。それは、彼らの意識に直接流れ込んでくる、圧倒的な情報と、深い静寂、そして、前の宇宙の終焉が持つ、巨大な悲しみの感覚だった。

​カロンの種族が、その宇宙の記憶と意志を完全に解読し、理解したその瞬間、彼らのあまりに些細な知的な探求が、バタフライ・エフェクトのように連鎖し、宇宙の運命を新たな局面へと転じさせる静かなトリガーとなったことによるものだった。

​第4章

​その頃、ハヤシ博士の研究室に、不可解な信号が届き始めた。それは、地球の衛星軌道上に存在すると噂される、ブラックナイト衛星から発せられたものだった。何十年もの研究をもってしても解読不能な複雑なパターン。その信号は意味をなすことのないノイズのようだった。ハヤシ博士は、その真のメッセージを理解することはなく、ただ、その信号の出現と宇宙の異変に、何らかの繋がりがあるのではないかと、かすかな予感に身を震わせていた。

​そして、カズヤとアキラがそれぞれ感じ取った異変は、宇宙の呼吸が止まり、ゆっくりと息を吐き出すかのように新たな局面へと向かい始めた兆候だったのだ。

​やがて、物語は静かに終焉を迎え、カズヤとアキラが暮らした地球の何億年もの時が、瞬きのように流れ去っていく。彼らが生きた時代を遥かに超え、宇宙は静かに、そして完全に膨張を止め、絶対的な静寂に包まれた。

​終章:破壊の美学

​そして、その静寂は、突然、終わりを迎えた。

​膨張を終えた宇宙の空間全体から、ありとあらゆる星々や銀河を、無慈悲に引き裂き、全てを飲み込んでいくような、破壊的な轟音が鳴り響き始めた。それは、カズヤがかつて感じた、荘厳なオーケストラのような美しい音色とは似ても似つかない、ただの巨大な破壊音だった。

​星々の光は、ゆっくりと薄れるのではなく、凄まじい速度で歪み、引き伸ばされ、裂けていった。銀河はまるで巨大な蜘蛛の巣に絡め取られたかのように、中心へと引きずり込まれ、ブラックホールさえもその存在を保つことができなかった。

​宇宙は、その身を砕き、全てを無へと還元していく。壮絶な破壊と混沌の果てに、ただ一つの光の点が残った。それは、この宇宙の全ての記憶と、次の宇宙への意志を内包する、原初の光だった。

​その光の点から、再び宇宙はビッグバンを起こし、新しい宇宙が生まれた。すべてがリセットされたかのように見えた。だが、その生まれたての宇宙に、信じられないほど古く、異彩を放つ星が存在していた。その星こそが、カロンの故郷だった。それは、前の宇宙で真理に到達した知的生命体が暮らした場所。宇宙が再び膨張を始めた時、出来立ての他の星とは一線を画す、場違いな存在としてそこに残されていた。それは、まるで宇宙が、自らの運命を変えた知的生命体の偉業を、決して忘れないように残した記念碑のようだった。

​そして、私たちは知っている。

​この物語が描いている、私たちが今生きているこの宇宙にも、メトシェラ星という、宇宙の歴史より古いかもしれない謎の星が存在することを。

​その謎の星の存在は、読者である私たちの心に、一つのロマンを呼び起こす。

​「宇宙が呼吸を止めた時」。それは、カロンの星を次の宇宙に残すという、宇宙のどこか「人っぽい」一面だったのかもしれない。そうだとすれば、私たちの宇宙に存在するメトシェラ星もまた、同じように、前の宇宙の生命の物語を伝えるために残された記念碑なのかもしれない。

​物語はここで静かに閉じられる。だが、その謎は、宇宙の呼吸が続く限り、永遠に私たちの心の中で紡がれていくだろう。

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